マーシャル(読み)まーしゃる(英語表記)John Marshall

日本大百科全書(ニッポニカ) 「マーシャル」の意味・わかりやすい解説

マーシャル(Alfred Marshall)
まーしゃる
Alfred Marshall
(1842―1924)

イギリスの経済学者。ケンブリッジ大学のセント・ジョンズ・カレッジで数学を専攻し、1863年第2位で卒業して同カレッジのフェローとなり、当初は分子物理学の研究を意図していた。だが、1867年、グロート・クラブに加入したころから、社会の貧困問題を契機としてしだいに社会問題に興味をもつようになり、哲学、心理学、倫理学などを遍歴したのち、1870年代初めごろにほぼ経済学に定着した。理論面の研究を進める一方、産業社会の現実の観察や経済史にも関心を向け、また、新興国における保護主義の実状をみるために1875年に渡米したころから、アメリカやドイツの台頭によって世界におけるイギリスの産業上の主導権が急速に失われつつあることにも深い関心を寄せるようになった。1877~1881年ブリストルのユニバーシティ・カレッジの学長兼経済学教授、1883~1885年オックスフォード大学のベリオル・カレッジのフェロー兼経済学講師を経たのち、1885年にケンブリッジ大学の初代経済学教授となり、多くの優れた弟子を養成して、古典学派の伝統を豊かに継承し、現実問題や政策論面にも鋭い関心をもつ、独自のケンブリッジ学派を創始した。1890年の王立経済学会の設立や、その機関誌『エコノミック・ジャーナル』Economic Journalの発刊(1891)、1903年のケンブリッジ大学における「エコノミック・トライポス」economic tripos(経済学卒業優等試験)の創設などにも尽瘁(じんすい)した。

 マーシャルは、主著『経済学原理Principles of Economics(1890)によって、世界の経済学界で不動の地位を確立したが、同書の基礎となった夫人と共著の処女作『産業経済学』The Economics of Industry(1879)も近年とみに注目をひいている。マーシャルの経済学は、しばしば部分均衡理論として特徴づけられ、L・ワルラス一般均衡理論と対比されるが、マーシャルのこの分析手法の採用は、彼の供給分析への関心や、そこで演ずる時間要素の役割の重要視と不可分の関係をもっている。『経済学原理』のみからマーシャルが論じられることが多いが、彼の経済学の全容や、弟子に与えた絶大広範な影響を知るためには、前掲の処女作や、『産業と交易』Industry and Trade(1919、邦訳書名『産業貿易論』)、『貨幣・信用および商業』Money, Credit and Commerce(1923)、A・C・ピグー編『マーシャル追憶集』Memorials of Alfred Marshall(1925、邦訳書名『マーシャル経済学論集』)、J・M・ケインズ編『マーシャル公文書集』Official Papers by Alfred Marshall(1926)、J・K・ウィタカー編『マーシャル初期経済学論稿』2巻 The Early Economic Writings of Alfred Marshall 1867―1890(1975)なども必読である。

[早坂 忠]

『佐原貴臣訳『産業貿易論』(1923・宝文館)』『松本金次郎訳『貨幣・信用及び商業』(1927・自彊館書店)』『大塚金之助訳『経済学原理』全4冊(1928・改造社)』『馬場啓之助訳『経済学原理』全4冊(1965~1967・東洋経済新報社)』『A・C・ピグー編、宮島綱男監訳『マーシャル経済学論集』(1928・宝文館)』


マーシャル(George Catlett Marshall)
まーしゃる
George Catlett Marshall
(1880―1959)

アメリカの軍人、国務長官国防長官。ペンシルベニア州ユニオンタウン生まれ。1901年バージニア陸軍学校、1908年陸軍大学校卒業。第一次世界大戦時にヨーロッパ派遣第一軍参謀長を務めたのち、1938年に参謀本部作戦部長となり、第二次世界大戦時には陸軍参謀総長の地位にあった(1939~1945)。また、ヤルタ会談ポツダム会談など戦後処理に関する主要国際会議に出席。1944年陸軍元帥に昇進。1945年末からトルーマン大統領の特使として中国に派遣され、国共調停の工作にあたったが功を奏さず帰国した。1947年1月国務長官に任命され、戦後のヨーロッパ経済の復興を目的としたいわゆるマーシャル・プラン(ヨーロッパ復興計画)を推進。1953年にこの功績が認められノーベル平和賞を受賞。1950年9月には国防長官に就任したが、朝鮮戦争の終結がみられないまま翌1951年引退した。

[藤本 博]


マーシャル(Barry J. Marshall)
まーしゃる
Barry J. Marshall
(1951― )

オーストラリアの生理学者。1974年に西オーストラリア大学卒業後、王立パース病院、アメリカのバージニア大学教授を経て、1997年から西オーストラリア大学教授となる。ピロリ菌に関する一連の研究成果により、2005年、ウォーレンとともにノーベル医学生理学賞を受賞した。

 従来、胃の中には強い酸があるため細菌類は生息できないと考えられていたが、1979年、王立パース病院の同僚であったウォーレンから、胃潰瘍(いかいよう)の患者の胃の幽門には螺旋(らせん)状の細菌が多数存在すると聞き、二人はこの細菌を培養して調べ始めた。しかしその細菌は他の細菌に比べて増殖速度が遅いことに気づかず、うまく増殖させられなかった。たまたま復活祭の休暇で数日間放置したところ、増殖してコロニーを形成しているのを発見した。

 二人はこの細菌を「胃の幽門にいる螺旋状の細菌」という意味の「ヘリコバクター・ピロリ」と名づけ、胃潰瘍はこの細菌が発症させるものと予測した。1984年に、それを実証するために自らピロリ菌を飲んだところ、急性の胃炎になり、胃炎組織の中にピロリ菌が生息していることを証明した。この発見によって胃潰瘍、胃炎、胃癌(いがん)の原因はピロリ菌の感染であることがわかり、治療と予防に画期的な成果をもたらした。

[馬場錬成]


マーシャル(John Marshall)
まーしゃる
John Marshall
(1755―1835)

アメリカの法律家、政治家。9月24日バージニア生まれ。独立戦争に参加し、1794年のジェイ条約締結にフランスに派遣された。その後、連邦下院議員を経てJ・アダムズ治下の国務長官を務め、フェデラリスト党の下野とともに最高裁首席判事となり、以後34年間この地位にとどまった。その間、マーベリイ対マディソン事件(1803)に際しては、1789年の連邦司法法第13条を違憲とし、事実上初めて違憲立法審査権を発動し、また、1819年のマカロック対メリーランド事件にあたっては、「包含された権限」を論拠として、連邦議会アメリカ合衆国銀行設立にかかわる権限を認めるなど、合衆国の司法権の確立に努めた。「合衆国憲法の父」ともよばれているように、憲政史に重要な足跡を残した。1835年6月6日没。

[中谷義和]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マーシャル」の意味・わかりやすい解説

マーシャル
Marshall, Alfred

[生]1842.7.26. ロンドン
[没]1924.7.13. ケンブリッジ
イギリスの経済学者,ケンブリッジ学派の始祖。ケンブリッジのセント・ジョーンズ・カレッジで数学を専攻し,1865年第2位で卒業して同カレッジのフェローに選ばれた。 77~81年ブリストルのユニバーシティ・カレッジの学長兼経済学教授,83~85年オックスフォードのベリオル・カレッジのフェロー兼経済学講師を経て,85年ケンブリッジ大学教授。 90年王立経済学会の設立やその機関紙"Economic Journal"の発刊にも尽力し,91~94年王立労働委員会委員をつとめる。最初は分子物理学の研究を意図したが,グロート・クラブに加入した頃 (1867) から社会の貧困問題を契機に哲学,倫理学,心理学を研究し,70年代初めに経済学に定着。その後は理論面の研究を進める一方,新興国における保護主義の実情視察のため渡米,この頃からアメリカ,ドイツの台頭によってイギリスの産業上の主導権の急速な失墜に関心をもつようになった。主著『経済学原理』 Principles of Economic (90) の公刊で経済学者として不動の地位を確立したが,その基礎となった処女作であり,夫人 M.P.マーシャルとの共著"The Economic of Industry" (79) も注目されている。彼の経済学はしばしば部分均衡理論として特徴づけられているが,これはその供給面の分析,特に時間要素の取扱いと密接な関連をもつ。長期にわたる研究の成果である『産業貿易論』 Industry and Trade: A Study of Industrial Technique and Business Organization,and Their Influences on the Conditions of Various Classes and Nations (1919) と『貨幣・信用及び商業』 Money,Credit and Commerce (23) もマーシャル経済学の必読書。

マーシャル
Marshall, Barry J.

[生]1951.9.30. カルグーリー
オーストラリアの医学者。 1974年ウェスタンオーストラリア大学を卒業,ロイヤルパース病院 (1977~84) を経て 1986年アメリカのバージニア大学研究員兼教授,1996年同大学医学研究所教授,1997年母校の教授に就任。ロイヤルパース病院勤務期間中,胃炎患者の胃粘膜に未知の桿状の細菌,ピロリ菌 (ヘリコバクター・ピロリ) が存在することを示した同病院の病理医 J.ロビン・ウォレンとともにピロリ菌の研究を開始,患者 100人の組織を調べ,胃炎胃潰瘍十二指腸潰瘍の罹患者のほとんどすべてからこの菌の存在を確認した。 1982年ピロリ菌の分離・培養に成功。みずから培養した菌を飲み込み,この菌が胃炎を起こすことを証明した。ストレスや胃酸過多が主たる原因とみなされていたそれまでの常識を覆し,ピロリ菌が病原菌であることを示し,予防や治療に大きな変革をもたらした。この功績により,2005年ウォレンとともにノーベル生理学・医学賞を受賞。 1995年ラスカー賞,1997年パウル・エールリヒ賞受賞。

マーシャル
Marshall, John

[生]1755.9.24. ジャーマンタウン近郊
[没]1835.7.6. フィラデルフィア
アメリカの法律家,政治家。独立戦争時には軍隊で活躍,やがて政界で才能を示し,合衆国建国後は連邦の権限を広く認めようとする連邦派に属して活躍,国務長官をつとめた (1800~01) 。のち,連邦派の勢力温存の趣旨から同派所属の第2代大統領 J.アダムズによって第4代合衆国最高裁判所長官に任命された。 1835年にいたるまでの長官在職中,裁判所の権威の確立と連邦政府の権限の確保,拡大のために力を尽し,アメリカの憲法体制の基礎をつくった。彼みずから筆をとって,違憲立法審査権を裁判所がもつことを宣明し,アメリカ憲法の一大特質を形成するきっかけをつくった,03年のマーベリー対マジソン事件はとりわけ有名である。

マーシャル
Marshall, George Catlett

[生]1880.12.31. ペンシルバニア,ユニオンタウン
[没]1959.10.16. ワシントンD.C.
アメリカの軍人,政治家。 1901年バージニア士官学校卒業後,職業軍人として,フィリピン,中国などを回った。 39~45年陸軍参謀総長となり,F.ルーズベルトの助言者として第2次世界大戦で活躍し,カサブランカ,テヘラン,ヤルタ,ポツダム諸会議に出席。 47~49年国務長官,50~51年国防長官。国務長官時代の 47年6月5日ハーバード大学の卒業式の講演で,有名なマーシャル・プランを提唱した。ヨーロッパの経済復興に対する功績が認められ,53年ノーベル平和賞が贈られた。

マーシャル
Marshall, Sir John Hubert

[生]1876.3.19. チェスター
[没]1958.4.17.
イギリスのインド考古学者。ケンブリッジに学ぶ。 1902~28年までインド考古調査局の長官。インダス文明モヘンジョ・ダロ遺跡の発掘 (1922~31) ,北西インドの古代都市タクシャシラー (タクシラ) の発掘 (13~34) で大きな成果をあげた。サーンチー遺跡の調査,研究や,ガンダーラ美術の研究でも名高い。

マーシャル
Marshall, Thomas Riley

[生]1854.3.14. インディアナ,ノースマンチェスター
[没]1925.6.1. ワシントンD.C.
アメリカの法律家,政治家。 1875~1909年インディアナ州で法律家として活躍。 08年民主党員として同州知事に当選。 12年 T.W.ウィルソンの副大統領に選ばれ,16年再選され2期つとめた。第1次世界大戦前は絶対中立の立場を取ったが,戦後は国際連盟を支持した。ユーモアに富み,アメリカ史上最も人気があり,最も長く在任した副大統領。

マーシャル
Marshall, James Wilson

[生]1810.10.8. ニュージャージー
[没]1885.8.10. カリフォルニア,コロマ近郊
アメリカ,カリフォルニアの開拓者。 1845年7月現在のサクラメントに達し,J.サッターと共同で製材工場の建設を開始。放水路改修の途中 48年1月 24日金塊を発見,これがゴールド・ラッシュの発端となった。

マーシャル
Marshall

アメリカ合衆国,テキサス州東端の都市。南北戦争中は,ミズーリ州の仮首府がおかれた。テキサス・パシフィック鉄道の沿線にあり,農産物,石油,材木の交易,積出し,加工の中心地。ワイリー大学 (1873創立) ,その他の教育施設がある。人口2万 3682 (1990) 。

マーシャル
Marshall, Benjamin

[生]1767
[没]1835
イギリスの画家。肖像画家 L.アボットに師事。肖像画,動物画も描いたが,特にスポーツ画家として名声を得た。

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