マーシャル(読み)まーしゃる(英語表記)Alfred Marshall

デジタル大辞泉 「マーシャル」の意味・読み・例文・類語

マーシャル(Alfred Marshall)

[1842~1924]英国の経済学者。古典学派を継承して限界分析の手法を導入、ケンブリッジ学派を創始。著「経済学原理」「産業貿易論」など。→マーシャルのk

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精選版 日本国語大辞典 「マーシャル」の意味・読み・例文・類語

マーシャル

  1. [ 一 ] ( Alfred Marshall アルフレッド━ ) イギリスの経済学者。ケンブリッジ学派の創始者。主著「経済学原理」「産業貿易論」。(一八四二‐一九二四
  2. [ 二 ] ( George Catlett Marshall ジョージ=キャトレット━ ) アメリカの軍人、政治家。トルーマン大統領時代、国務長官としてヨーロッパ復興計画であるマーシャル‐プランを提唱。一九五三年ノーベル平和賞受賞。(一八八〇‐一九五九

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「マーシャル」の意味・わかりやすい解説

マーシャル(Alfred Marshall)
まーしゃる
Alfred Marshall
(1842―1924)

イギリスの経済学者。ケンブリッジ大学のセント・ジョンズ・カレッジで数学を専攻し、1863年第2位で卒業して同カレッジのフェローとなり、当初は分子物理学の研究を意図していた。だが、1867年、グロート・クラブに加入したころから、社会の貧困問題を契機としてしだいに社会問題に興味をもつようになり、哲学、心理学、倫理学などを遍歴したのち、1870年代初めごろにほぼ経済学に定着した。理論面の研究を進める一方、産業社会の現実の観察や経済史にも関心を向け、また、新興国における保護主義の実状をみるために1875年に渡米したころから、アメリカやドイツの台頭によって世界におけるイギリスの産業上の主導権が急速に失われつつあることにも深い関心を寄せるようになった。1877~1881年ブリストルのユニバーシティ・カレッジの学長兼経済学教授、1883~1885年オックスフォード大学のベリオル・カレッジのフェロー兼経済学講師を経たのち、1885年にケンブリッジ大学の初代経済学教授となり、多くの優れた弟子を養成して、古典学派の伝統を豊かに継承し、現実問題や政策論面にも鋭い関心をもつ、独自のケンブリッジ学派を創始した。1890年の王立経済学会の設立や、その機関誌『エコノミック・ジャーナル』Economic Journalの発刊(1891)、1903年のケンブリッジ大学における「エコノミック・トライポス」economic tripos(経済学卒業優等試験)の創設などにも尽瘁(じんすい)した。

 マーシャルは、主著『経済学原理』Principles of Economics(1890)によって、世界の経済学界で不動の地位を確立したが、同書の基礎となった夫人と共著の処女作『産業経済学』The Economics of Industry(1879)も近年とみに注目をひいている。マーシャルの経済学は、しばしば部分均衡理論として特徴づけられ、L・ワルラスの一般均衡理論と対比されるが、マーシャルのこの分析手法の採用は、彼の供給分析への関心や、そこで演ずる時間要素の役割の重要視と不可分の関係をもっている。『経済学原理』のみからマーシャルが論じられることが多いが、彼の経済学の全容や、弟子に与えた絶大広範な影響を知るためには、前掲の処女作や、『産業と交易』Industry and Trade(1919、邦訳書名『産業貿易論』)、『貨幣・信用および商業』Money, Credit and Commerce(1923)、A・C・ピグー編『マーシャル追憶集』Memorials of Alfred Marshall(1925、邦訳書名『マーシャル経済学論集』)、J・M・ケインズ編『マーシャル公文書集』Official Papers by Alfred Marshall(1926)、J・K・ウィタカー編『マーシャル初期経済学論稿』2巻 The Early Economic Writings of Alfred Marshall 1867―1890(1975)なども必読である。

[早坂 忠]

『佐原貴臣訳『産業貿易論』(1923・宝文館)』『松本金次郎訳『貨幣・信用及び商業』(1927・自彊館書店)』『大塚金之助訳『経済学原理』全4冊(1928・改造社)』『馬場啓之助訳『経済学原理』全4冊(1965~1967・東洋経済新報社)』『A・C・ピグー編、宮島綱男監訳『マーシャル経済学論集』(1928・宝文館)』


マーシャル(George Catlett Marshall)
まーしゃる
George Catlett Marshall
(1880―1959)

アメリカの軍人、国務長官、国防長官。ペンシルベニア州ユニオンタウン生まれ。1901年バージニア陸軍学校、1908年陸軍大学校卒業。第一次世界大戦時にヨーロッパ派遣第一軍参謀長を務めたのち、1938年に参謀本部作戦部長となり、第二次世界大戦時には陸軍参謀総長の地位にあった(1939~1945)。また、ヤルタ会談ポツダム会談など戦後処理に関する主要国際会議に出席。1944年陸軍元帥に昇進。1945年末からトルーマン大統領の特使として中国に派遣され、国共調停の工作にあたったが功を奏さず帰国した。1947年1月国務長官に任命され、戦後のヨーロッパ経済の復興を目的としたいわゆるマーシャル・プラン(ヨーロッパ復興計画)を推進。1953年にこの功績が認められノーベル平和賞を受賞。1950年9月には国防長官に就任したが、朝鮮戦争の終結がみられないまま翌1951年引退した。

[藤本 博]


マーシャル(Barry J. Marshall)
まーしゃる
Barry J. Marshall
(1951― )

オーストラリアの生理学者。1974年に西オーストラリア大学卒業後、王立パース病院、アメリカのバージニア大学教授を経て、1997年から西オーストラリア大学教授となる。ピロリ菌に関する一連の研究成果により、2005年、ウォーレンとともにノーベル医学生理学賞を受賞した。

 従来、胃の中には強い酸があるため細菌類は生息できないと考えられていたが、1979年、王立パース病院の同僚であったウォーレンから、胃潰瘍(いかいよう)の患者の胃の幽門には螺旋(らせん)状の細菌が多数存在すると聞き、二人はこの細菌を培養して調べ始めた。しかしその細菌は他の細菌に比べて増殖速度が遅いことに気づかず、うまく増殖させられなかった。たまたま復活祭の休暇で数日間放置したところ、増殖してコロニーを形成しているのを発見した。

 二人はこの細菌を「胃の幽門にいる螺旋状の細菌」という意味の「ヘリコバクター・ピロリ」と名づけ、胃潰瘍はこの細菌が発症させるものと予測した。1984年に、それを実証するために自らピロリ菌を飲んだところ、急性の胃炎になり、胃炎組織の中にピロリ菌が生息していることを証明した。この発見によって胃潰瘍、胃炎、胃癌(いがん)の原因はピロリ菌の感染であることがわかり、治療と予防に画期的な成果をもたらした。

[馬場錬成]


マーシャル(John Marshall)
まーしゃる
John Marshall
(1755―1835)

アメリカの法律家、政治家。9月24日バージニア生まれ。独立戦争に参加し、1794年のジェイ条約締結にフランスに派遣された。その後、連邦下院議員を経てJ・アダムズ治下の国務長官を務め、フェデラリスト党の下野とともに最高裁首席判事となり、以後34年間この地位にとどまった。その間、マーベリイ対マディソン事件(1803)に際しては、1789年の連邦司法法第13条を違憲とし、事実上初めて違憲立法審査権を発動し、また、1819年のマカロック対メリーランド事件にあたっては、「包含された権限」を論拠として、連邦議会のアメリカ合衆国銀行設立にかかわる権限を認めるなど、合衆国の司法権の確立に努めた。「合衆国憲法の父」ともよばれているように、憲政史に重要な足跡を残した。1835年6月6日没。

[中谷義和]

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改訂新版 世界大百科事典 「マーシャル」の意味・わかりやすい解説

マーシャル
Alfred Marshall
生没年:1842-1924

イギリスの経済学者。ロンドンに生まれケンブリッジ大学を卒業。1885年から1908年までケンブリッジ大学の経済学教授を務め,A.C.ピグー,J.M.ケインズをはじめとする一群の経済学者を育てて,ケンブリッジ学派を形成した。主著《経済学原理》(1890)はその後30年間にわたって8版を重ね,当時の支配的学説として世界中に影響を及ぼした。スミス,リカードからイギリス経済学の正統を引くJ.S.ミルの《経済学原理》(1848)は,1871年にミル自身による最後の改訂版として出版されたが,そのころマルクスの《資本論》(1868),ジェボンズの《経済学の理論》(1871),メンガーの《国民経済学原理》(1871)など新しい動向を象徴する著作が現れるようになっていた。それは時代の変化とともに権威を失いつつあった古典学派(古典派経済学)に対する反乱の時代であった。その影響は経済学のさまざまな分野に及んだが,価値の理論の分野では,リカードのあいまいさに対するジェボンズの反発から生じた論争が,商品の価値の決定において生産費と需要の演じる役割をめぐって闘わされた。マーシャルは,価値が供給と需要の均衡する点において決定されるという命題を基盤として,経済の世界のあらゆる要素を相互的に位置づけることによって,この論争に終止符を打った。すなわち生産物の価値の決定においては,古典学派の強調した生産費を供給側の要素として,またジェボンズの強調した効用を需要側の要素として位置づけた。マーシャルはこうして,古典学派が需要の諸力よりも供給の諸力を強調したのは彼らの正しい直観に従ったものであると主張した。経済学では,一つの時代を支配した学説は時代遅れとして簡単に片づけられない真理を含んでいるものである。このような古典学派の復活を意味するマーシャルの経済学は新古典派経済学(狭義)と呼ばれる。

 彼の研究分野は価値の一般理論のみならず,さまざまな特殊研究の分野にもわたっており,とりわけ貨幣理論は彼の得意とする領域であった。その領域での研究は,後にケインズが進む道を整えた。しかし,彼の研究のこの部分はケンブリッジ大学での講義を通じて口頭で伝えられたため,十分には伝わらなかった。それらが《産業と貿易》(1919),《貨幣,信用,商業》(1923)として公刊されたのは彼の晩年であったため,外の世界に対する影響力は損なわれていたのである。日本においては主著《経済学原理》は1928年に翻訳・出版されている。
執筆者:


マーシャル
John Marshall
生没年:1755-1835

アメリカの裁判官。バージニア州出身。ジョン・アダムズ大統領のもとで国務長官(1800-01)を務めたのち,アダムズにより第4代の合衆国最高裁判所首席裁判官に任命され,1801年から35年までその地位にあった。その説得力ある議論によって他の裁判官に大きな影響を与え,発足まもない最高裁判所の進路を決定した。マーシャルは連邦派(フェデラリスツ)の立場に立っており,それが憲法の解釈に色濃く反映する。すなわち,彼は,マーベリー対マディソン事件(1803)で,当時の諸説のうち最も広範囲かつ強力な形で違憲立法審査権を樹立した。憲法の解釈については,文言に拘束される厳格解釈を退け,これを自由に解釈する立場をとる。そして,連邦の権限の範囲に関する条文を拡張解釈するのみならず,連邦には憲法には明示されていないが論理上黙示的に認められる権限があるとして,連邦の地位を強化した。連邦法銀行national bankの設立を合憲としたのも,この黙示的権能の理論doctrine of implied powersによるものである。基本権の面では,ロック的な既得権の理論に従い,有産者の権利を保護した。とくに,合衆国憲法中の〈州は……契約上の債権債務関係obligation of contractsを害する法律を制定……してはならない〉との条項(contract clause)を拡張解釈して,既得権を侵害する(とマーシャルが考えた)数多くの州法を違憲とした。
執筆者:


マーシャル
George Catlett Marshall
生没年:1880-1959

アメリカの軍人,政治家。第2次大戦時の戦争指導に卓越した手腕を発揮した陸軍参謀長(1939-45)であり,また戦後国際的責任の拡大したアメリカの外交指導を担った国務長官(1947-49)。第1次大戦時にはヨーロッパ派遣軍の参謀として対独反攻作戦に加わり,戦間期にはJ.J.パーシング陸軍参謀長の副官を務めた。1939年に陸軍参謀長に任ぜられ,陸軍の規模と編成を一新する改革を遂行して,地球的危機に対応する戦時体制を整えた。陸軍内の行政,統合参謀本部(JCS)の指導,F.D.ローズベルト,H.S.トルーマン両大統領への助言と政軍関係の調整,米英間の軍事協力,グローバルな戦略・作戦の決定と実施等に顕著な貢献をなし,〈勝利のオーガナイザー〉と称えられた。戦後は,国共関係の調整という実りのない工作のため中国へ赴いた(マーシャル・ミッション)あと,47年には国務長官に就任した。外交機関の参謀部にあたる政策企画部を創設して国務省を効率的な組織に再生させんと試みたり,またマーシャル・プランにより欧州復興を助けて,増大するアメリカの国際的役割を方向づけようとした。
執筆者:


マーシャル
Thomas Humphrey Marshall
生没年:1893-1981

現代イギリス社会学,社会政策論の代表的研究者。ロンドン生れ。ケンブリッジのトリニティ・カレッジで歴史学を専攻し,ケンブリッジ大学のフェローとなる。1925年から56年まで,ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに奉職して,その間,1944年から50年まで社会科学部長,その他多くの要職を歴任した。56年から60年までパリのユネスコの社会科学部長,1959年から62年まで国際社会学会会長と,その活動は広範多岐にわたっている。彼の社会学の主要な関心は社会階層論であり,この方面での業績は,《市民権と社会階級Citizenship and Social Class》(1950),《岐路に立つ社会学Sociology at the Crossroad》(1947,63)としてまとめられている。社会政策論では,イギリスの社会政策分野の古典ともいうべき《20世紀英国における社会政策Social Policy in the Twentieth Century》(1965,67,70,75),そして晩年の《福祉に対する権利Right to Welfare》(1981)が主要著書である。
執筆者:


マーシャル
John Hubert Marshall
生没年:1876-1958

イギリスの考古学者。ギリシア,クレタ,トルコなどで発掘調査に従事したのち,1901年にインド考古調査局長官に就任する。チャールサダの発掘(1903)を皮切りに,以後約30年間にわたり,サールナートサーンチー,タキシラ,モヘンジョ・ダロ,ハラッパーなど数多くの遺跡の調査,発掘を行う。28年長官を辞すが,34年まで考古調査局内で活動。インダス文明の存在を明らかにしたのをはじめ,歴史時代の考古学,美術史,建築史の分野でも大きな業績をあげ,インド人考古学者の育成にも力をそそいだ。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マーシャル」の意味・わかりやすい解説

マーシャル
Marshall, Alfred

[生]1842.7.26. ロンドン
[没]1924.7.13. ケンブリッジ
イギリスの経済学者,ケンブリッジ学派の始祖。ケンブリッジのセント・ジョーンズ・カレッジで数学を専攻し,1865年第2位で卒業して同カレッジのフェローに選ばれた。 77~81年ブリストルのユニバーシティ・カレッジの学長兼経済学教授,83~85年オックスフォードのベリオル・カレッジのフェロー兼経済学講師を経て,85年ケンブリッジ大学教授。 90年王立経済学会の設立やその機関紙"Economic Journal"の発刊にも尽力し,91~94年王立労働委員会委員をつとめる。最初は分子物理学の研究を意図したが,グロート・クラブに加入した頃 (1867) から社会の貧困問題を契機に哲学,倫理学,心理学を研究し,70年代初めに経済学に定着。その後は理論面の研究を進める一方,新興国における保護主義の実情視察のため渡米,この頃からアメリカ,ドイツの台頭によってイギリスの産業上の主導権の急速な失墜に関心をもつようになった。主著『経済学原理』 Principles of Economic (90) の公刊で経済学者として不動の地位を確立したが,その基礎となった処女作であり,夫人 M.P.マーシャルとの共著"The Economic of Industry" (79) も注目されている。彼の経済学はしばしば部分均衡理論として特徴づけられているが,これはその供給面の分析,特に時間要素の取扱いと密接な関連をもつ。長期にわたる研究の成果である『産業貿易論』 Industry and Trade: A Study of Industrial Technique and Business Organization,and Their Influences on the Conditions of Various Classes and Nations (1919) と『貨幣・信用及び商業』 Money,Credit and Commerce (23) もマーシャル経済学の必読書。

マーシャル
Marshall, Barry J.

[生]1951.9.30. カルグーリー
オーストラリアの医学者。 1974年ウェスタンオーストラリア大学を卒業,ロイヤルパース病院 (1977~84) を経て 1986年アメリカのバージニア大学研究員兼教授,1996年同大学医学研究所教授,1997年母校の教授に就任。ロイヤルパース病院勤務期間中,胃炎患者の胃粘膜に未知の桿状の細菌,ピロリ菌 (ヘリコバクター・ピロリ) が存在することを示した同病院の病理医 J.ロビン・ウォレンとともにピロリ菌の研究を開始,患者 100人の組織を調べ,胃炎胃潰瘍十二指腸潰瘍の罹患者のほとんどすべてからこの菌の存在を確認した。 1982年ピロリ菌の分離・培養に成功。みずから培養した菌を飲み込み,この菌が胃炎を起こすことを証明した。ストレスや胃酸過多が主たる原因とみなされていたそれまでの常識を覆し,ピロリ菌が病原菌であることを示し,予防や治療に大きな変革をもたらした。この功績により,2005年ウォレンとともにノーベル生理学・医学賞を受賞。 1995年ラスカー賞,1997年パウル・エールリヒ賞受賞。

マーシャル
Marshall, John

[生]1755.9.24. ジャーマンタウン近郊
[没]1835.7.6. フィラデルフィア
アメリカの法律家,政治家。独立戦争時には軍隊で活躍,やがて政界で才能を示し,合衆国建国後は連邦の権限を広く認めようとする連邦派に属して活躍,国務長官をつとめた (1800~01) 。のち,連邦派の勢力温存の趣旨から同派所属の第2代大統領 J.アダムズによって第4代合衆国最高裁判所長官に任命された。 1835年にいたるまでの長官在職中,裁判所の権威の確立と連邦政府の権限の確保,拡大のために力を尽し,アメリカの憲法体制の基礎をつくった。彼みずから筆をとって,違憲立法審査権を裁判所がもつことを宣明し,アメリカ憲法の一大特質を形成するきっかけをつくった,03年のマーベリー対マジソン事件はとりわけ有名である。

マーシャル
Marshall, George Catlett

[生]1880.12.31. ペンシルバニア,ユニオンタウン
[没]1959.10.16. ワシントンD.C.
アメリカの軍人,政治家。 1901年バージニア士官学校卒業後,職業軍人として,フィリピン,中国などを回った。 39~45年陸軍参謀総長となり,F.ルーズベルトの助言者として第2次世界大戦で活躍し,カサブランカ,テヘラン,ヤルタ,ポツダム諸会議に出席。 47~49年国務長官,50~51年国防長官。国務長官時代の 47年6月5日ハーバード大学の卒業式の講演で,有名なマーシャル・プランを提唱した。ヨーロッパの経済復興に対する功績が認められ,53年ノーベル平和賞が贈られた。

マーシャル
Marshall, Sir John Hubert

[生]1876.3.19. チェスター
[没]1958.4.17.
イギリスのインド考古学者。ケンブリッジに学ぶ。 1902~28年までインド考古調査局の長官。インダス文明モヘンジョ・ダロ遺跡の発掘 (1922~31) ,北西インドの古代都市タクシャシラー (タクシラ) の発掘 (13~34) で大きな成果をあげた。サーンチー遺跡の調査,研究や,ガンダーラ美術の研究でも名高い。

マーシャル
Marshall, Thomas Riley

[生]1854.3.14. インディアナ,ノースマンチェスター
[没]1925.6.1. ワシントンD.C.
アメリカの法律家,政治家。 1875~1909年インディアナ州で法律家として活躍。 08年民主党員として同州知事に当選。 12年 T.W.ウィルソンの副大統領に選ばれ,16年再選され2期つとめた。第1次世界大戦前は絶対中立の立場を取ったが,戦後は国際連盟を支持した。ユーモアに富み,アメリカ史上最も人気があり,最も長く在任した副大統領。

マーシャル
Marshall, James Wilson

[生]1810.10.8. ニュージャージー
[没]1885.8.10. カリフォルニア,コロマ近郊
アメリカ,カリフォルニアの開拓者。 1845年7月現在のサクラメントに達し,J.サッターと共同で製材工場の建設を開始。放水路改修の途中 48年1月 24日金塊を発見,これがゴールド・ラッシュの発端となった。

マーシャル
Marshall

アメリカ合衆国,テキサス州東端の都市。南北戦争中は,ミズーリ州の仮首府がおかれた。テキサス・パシフィック鉄道の沿線にあり,農産物,石油,材木の交易,積出し,加工の中心地。ワイリー大学 (1873創立) ,その他の教育施設がある。人口2万 3682 (1990) 。

マーシャル
Marshall, Benjamin

[生]1767
[没]1835
イギリスの画家。肖像画家 L.アボットに師事。肖像画,動物画も描いたが,特にスポーツ画家として名声を得た。

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百科事典マイペディア 「マーシャル」の意味・わかりやすい解説

マーシャル

英国の経済学者,新古典派の創始者。ケンブリッジ大学教授。国民分配分(国民所得)を究明して,労働者の分配分である賃金の増加は労働能率を高め,したがって利潤をも増大させるから,長期的には労資の調和がもたらされるという〈有機的成長〉の経済理論を展開した。古典派が供給面を,ジェボンズが需要面を強調したのに対して,需要と供給ははさみの双刃のようなもので,その双方が価格を決定すると説いた。主著《経済学原理》《産業と貿易》《貨幣,信用,商業》の三部作。ピグーケインズらを育てた。→マーシャルのk生産者余剰
→関連項目準地代消費者余剰スラッファ福田徳三

マーシャル

英国のインド考古学者。1902年インド中央政府考古局長官に就任,1913年―1934年の長期にわたるタキシラの発掘,インダス文明を初めて紹介したモヘンジョ・ダロの発掘など,インドの遺跡,文化財の研究に大きく貢献。タキシラ,モヘンジョダロの膨大な報告書のほか,インド美術,考古学に関する著書が多い。

マーシャル

米国の軍人,政治家。第2次大戦中は参謀総長,連合国参謀会議の一員として活躍。1945年―1947年特使として中国におもむき内戦解決に当たったが不調。のち国務長官としてマーシャル・プラン封じ込め政策を立案。1953年ノーベル平和賞。

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朝日日本歴史人物事典 「マーシャル」の解説

マーシャル

没年:明治20.8.7(1887)
生年:1833.8.5
明治期に来日したイギリス人港長。オーストラリアで港長を勤めたのち,明治3(1870)年9月ごろ横浜に来航,4年2月,兵庫(神戸)港の初代港長につく。6年10月,神戸築港に関する建議を県令に提出するが,大蔵省に却下された。東は旧生田川東堤から,西は湊川北堤に防波堤を造るこの築港案は39年に着工できた。7年2月,上記の範囲にわたる神戸港則案を作り,外務省から認められた。毎朝9時に気圧,気温,風位,風力,天候などを観測し,観測表を作製して,神戸港ばかりでなく神戸気象観測の基礎作りにも貢献した。神戸で没。港長の職は21年にマールマン(1838~1930)が引き継いだ。<参考文献>『神戸市史』『資料御雇外国人』

(内海孝)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「マーシャル」の解説

マーシャル
George Catlett Marshall

1880~1959

アメリカの軍人,政治家。第二次世界大戦中の陸軍参謀総長。戦後大統領特使として中国の国共内戦の調停に従事したが,成功しなかった。帰国後国務長官(在任1947~49)として冷戦初期の封じ込め政策を遂行した。朝鮮戦争勃発後,元職業軍人としては例外的に国防長官に就任した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「マーシャル」の解説

マーシャル(ジョージ)
George Catlett Marshall

1880〜1959
アメリカの軍人・政治家
1939〜45年参謀総長となり,連合軍のノルマンディー上陸作戦を成功させた。戦後は大統領特使として中国に派遣され国共の調停に臨んだが,大きな成果は得られなかった。1947〜49年国務長官となり,ヨーロッパ経済復興援助計画(マーシャル−プラン)を提唱して実現した。1953年ノーベル平和賞を受賞。

マーシャル(アルフレッド)
Alfred Marshall

1842〜1924
イギリスの経済学者
ケンブリッジ大学教授。新古典学派経済学の創始者。主著『経済学原理』(1890)。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「マーシャル」の解説

マーシャル Marshall, John

1833-1887 イギリスの港長。
1833年8月5日生まれ。オーストラリアで港長をつとめたのち,明治3年(1870)来日。翌年兵庫県にやとわれ,神戸港の初代港長となる。6年神戸築港を建議(39年着工)。また神戸の気象を観測,天気図を作成した。明治20年8月7日神戸で死去。54歳。

マーシャル Marshall, David Henry

1848-1932 イギリスの数学者。
明治6年(1873)日本政府の招きで来日し,工部省工学寮,のち工部大学校の数学教師となる。14年帰国し,イギリス各地の大学でおしえ,のちカナダにわたる。1932年3月14日死去。84歳。スコットランド出身。エジンバラ大卒。

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世界大百科事典(旧版)内のマーシャルの言及

【外部経済・外部不経済】より

A.マーシャルは,産業の規模が拡大することによりその産業内の企業の生産効率が高まることを外部経済と呼び,企業の規模が拡大することによりその企業自身の生産効率が高まることを内部経済internal economiesと呼んだ。後者は企業の生産技術における規模に関する収穫逓増に対応する。…

【価格弾力性】より

…この財の価格の変化割合と,それによる数量の変化割合の関係を記述・測定するのが価格弾力性という概念である。A.クールノーやJ.S.ミルの著作の中にも同種の考えはみられるが,需要量の%変化(⊿q/q)を価格の%変化(⊿p/p)で除したものを〈弾力性elasticity〉と最初に名づけたのはA.マーシャルである。ある財の需要の価格弾力性は,その財に対するよい代替財が存在するとき大きくなるため,一般には一企業の直面する需要の価格弾力性は,産業全体のそれより大きい。…

【価値】より

…価値は価格にとって内面的inherentもしくは内在的intrinsicであるとされたのである。このいわゆる真実価値real valueの根拠を定めるのが,A.スミスからA.マーシャルにいたる古典派および新古典派の価値論における一つの重要な仕事であった。注意しなければならないのは,このような価値と価格との密接な連関のために,両者がしばしば混同されるということである。…

【経済学原理】より

ケンブリッジ学派の創始者A.マーシャルの主著。1890年刊,第8版1920年刊。…

【経済学説史】より

…彼は学派を形成せず孤立した存在であったといわれるが,その問題意識はある意味でF.Y.エッジワースの《数理心理学》(1881)にひきつがれ,現代の一般均衡理論につながっている。 古典派経済学以後のイギリスの経済学を支配したのは,《経済学原理》(1890)の著者A.マーシャルに始まるケンブリッジ学派であった。マーシャルは,古典派経済学を否定するのではなく一般化するかたちで,効用と費用,需要と供給ははさみの二つの刃のように重要であると論じた。…

【ケンブリッジ学派】より

A.マーシャルを創設者とするケンブリッジ大学中心の経済学の流れをケンブリッジ学派または(狭義の)新古典派経済学あるいは新古典学派,新古典派とよぶ。しかし普通,新古典派というときは,この学派のほかにローザンヌ学派オーストリア学派をも含めた限界分析を基礎とする均衡理論を総称することが多い。…

【市場均衡】より

…この一般均衡理論の創設者の貢献は,彼に先だって複占市場の均衡を分析したA.クールノーのそれとともに,均衡分析の歴史の中で不朽の光を放つものである。 一般均衡理論の簡略型ともいうべき部分均衡理論は,ケンブリッジ学派のA.マーシャルによって多くの問題に有効に援用された。彼は,たんに需要曲線と供給曲線を用いての今日標準的となった分析を有効に活用しただけでなく,安定条件についての独自の分析を行い,時間の長短によって均衡を区別するなど,後の発展のためにも多くの用具を提供した。…

【消費者余剰】より

…A.マーシャルにより,〈消費者がそれなしですますよりはむしろ支払おうとする金額と,彼が実際に支払う金額との差額〉と定義されている経済学上の概念。消費者余剰は,需要曲線の図を用いれば次のように表される。…

【新古典派経済学】より

…元来はA.スミス,D.リカード,J.S.ミルらのイギリス古典派経済学に対して,限界革命以降のA.マーシャルを中心とするA.C.ピグーD.H.ロバートソンらのケンブリッジ学派の経済学を指す。 古典派(古典学派ともいう)と新古典派(新古典学派ともいう)との基本的な相違は,前者が商品の交換価値(〈価値〉の項参照)はもっぱらその生産に投下された労働価値によって決まるとしたのに対して,後者は価値の由来を生産費とならんで需要側の限界効用に求める点にある。…

【比較静学】より

… このように与件の変化の前と後との二つの均衡点を比較することにより,与件の変化の経済的影響について分析するのが比較静学の方法である。部分均衡理論の枠組みの中で比較静学の方法を援用することにより多くの興味深い結論を導いた経済学者としては,ケンブリッジ学派のA.マーシャルの名が知られている。彼の手法は後にJ.R.ヒックスやP.A.サミュエルソンらにより一般均衡理論の枠組みにおいても援用可能な形に拡張されるに至った。…

【インダス文明】より

…インダス川流域を中心に前2300‐前2000年ごろ最盛期をむかえたインドの古代文明。1920年ハラッパーがサハニD.R.Sahaniにより,ついでモヘンジョ・ダロがバネルジーR.D.Banerjiにより発見され,22‐27年にマーシャルJ.Marshallが,27‐31年にマッケーE.J.H.Mackayがモヘンジョ・ダロを,また33‐34年にバッツM.S.Vatsがハラッパーを発掘した。
[王宮・王墓を欠く文明]
 遺跡分布の最大限は,東はデリー付近,西はアラビア海沿岸のイラン国境付近,南はボンベイの北200km,北はシムラ丘陵南端に及び,オクサス河岸にも1ヵ所ある。…

【タキシラ】より

…古くはバドラシーラと呼ばれたが,アレクサンドロス大王遠征時代にはすでにタッカシーラないしタクシーラ(タッカ族の町)と言い,ギリシア語やラテン語でタクシラと写された。19世紀にA.カニンガムが調査し,1912‐34年にJ.マーシャルが大規模に発掘してその歴史や文化を明らかにした。当地は,北はカシミール,北西はガンダーラを経て中央アジアや西アジアに通じ,南東はガンジス流域,南はインダス川からアラビア海沿岸に通じる四通八達の地。…

【モヘンジョ・ダロ】より

…モエンジョ・ダーロとも呼ばれる。1922年にバネルジーR.D.Banerjiがハラッパーと同じ遺物を発見したことにより注目され,22‐27年にはJ.マーシャルが,27‐31年にはE.H.マッケイが大規模に発掘し,遺跡の性格を明らかにした。50,65年にも小規模な発掘があったが,地下水位が異常に高く,自然層はおろか,地表下5m以下の遺構状態は全く不明であり,この都市の歴史のごく一部しか判明していない。…

【インダス文明】より

…インダス川流域を中心に前2300‐前2000年ごろ最盛期をむかえたインドの古代文明。1920年ハラッパーがサハニD.R.Sahaniにより,ついでモヘンジョ・ダロがバネルジーR.D.Banerjiにより発見され,22‐27年にマーシャルJ.Marshallが,27‐31年にマッケーE.J.H.Mackayがモヘンジョ・ダロを,また33‐34年にバッツM.S.Vatsがハラッパーを発掘した。
[王宮・王墓を欠く文明]
 遺跡分布の最大限は,東はデリー付近,西はアラビア海沿岸のイラン国境付近,南はボンベイの北200km,北はシムラ丘陵南端に及び,オクサス河岸にも1ヵ所ある。…

※「マーシャル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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