改訂新版 世界大百科事典 「クルト朝」の意味・わかりやすい解説
クルト朝 (クルトちょう)
Kurt
モンゴル支配下のアフガニスタンの土着政権(1245-1389)で,ペルシア文化の護持に貢献した。カルトKart朝とも呼ばれる。クルト家はゴール朝の宰相の子孫で,アフガニスタン中央部山中のハイサールの城主であり,1220年代のモンゴル軍侵入に際して協力し,そのインド作戦に功績があった。同家のマリク・シャムス・アッディーンはモンゴリアへ行って,モンケ・ハーン(憲宗)から勅書を受け,ヘラートを中心として,アム・ダリヤからインダス川までの地域を支配するようになった。ただし当時の用法での〈アフガニスタン〉は,現在のそれの南東部を指す。モンケの弟フレグがイル・ハーン国を開いても,クルト朝の地位に変化はなかった。ヘラートはイラン・中央アジアとインドを結ぶ交通の要地で,したがって商業の一大中心地であったし,またハイサールが天然の要害であったことが,同王朝の存続の原因と考えられる。イル・ハーン国よりも長続きしたのち,1389年ティムールによって滅ぼされたが,ヘラートの繁栄は受け継がれた。
執筆者:勝藤 猛
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報