日本大百科全書(ニッポニカ) 「インダス川」の意味・わかりやすい解説
インダス川
いんだすがわ
Indus
ガンジス川、ブラマプトラ川と並ぶインド亜大陸の三大河川の一つで、主としてパキスタン領を流れる。延長約2900キロメートル、アラビア海に注ぐ。総流域面積96万平方キロメートル。水源はチベット高原南西のカイラス山脈にあり、ヒマラヤ山脈とカラコルム山脈に挟まれた渓谷を約1100キロメートル北西に流れるが、ギルギット付近で急に南西に転向してヒマラヤ山脈を横断する。途中に満々と水をたたえるタベラ・ダム、アフガニスタンから流れるカブール川の合流点がある。カラバク付近でパンジャーブ平原に出ると川幅を増し、幅20キロメートル近くの所もある。灌漑(かんがい)水を引くための堰堤(えんてい)がいくつもあり道路橋を兼ねる。橋のない中州(なかす)の村の人々は、ヒツジの皮を膨らませた浮き袋を使って、増水した川を渡る。ミタンコットで、ジェラム、チェナブ、ラービ、ビアス、サトレジの五つの川をあわせたパンジナッドPanjnad川と合流して一段と水量を増す。
インダス川下流はアーリア人によってシンドゥーSindhu(大洋の意)とよばれ、これが今日のパキスタンのシンド州、ヒンドゥー教、インドなどの語源となった。土砂の堆積(たいせき)が激しく、河床の上昇により河道がしばしば変遷するとともに、河口も紀元前3世紀ごろより約30キロメートルも前進した。
インダス川は下流部のモヘンジョ・ダーロ、中流部のハラッパーの遺跡にみられるようにインダス文明の母体となり、その後もアーリア人の進入、アレクサンドロス大王の遠征、イスラム教徒による征服など、たびたび侵略や係争の舞台となった。1947年のインド・パキスタン分離によるカシミール帰属問題は、3回のインド・パキスタン戦争の引き金となり、いまも未解決のままである。
分離の残したもう一つの係争は、インダス川の水利権をめぐる争いである。インダス川中・下流の平野は肥沃(ひよく)な沖積土からなるが、年降水量は250~750ミリメートルで、それも7~9月に集中する。インダス川の水もカラバクでの記録では、7月の毎秒1万1470トンに対して1月には763トンに減水する。そのため、19世紀中葉以降、河川水位の増減に関係なく取水できる近代的灌漑工事が施工され、パンジャーブ地方はインド亜大陸有数の農業地帯となった。印パ分離はこれら灌漑体系におかまいなく行われたので、両国間に水利紛争が起き、その解決は1960年のインダス水利条約まで持ち越された。パキスタンの水利権が同条約によりインダス川の年間総流出量2156億トンのうち1750億トンに減ったので、同国はタベラ・ダムの建設、連結水路の整備などインダス川の水の有効利用に努めている。
[藤原健蔵]