ジュルナルデデバ(その他表記)Journal des Débats

改訂新版 世界大百科事典 「ジュルナルデデバ」の意味・わかりやすい解説

ジュルナル・デ・デバ
Journal des Débats

1789年8月29日フランス革命のさなかに創刊されたフランスの日刊紙。略して単に《デバ論争)》とも呼ばれる。はじめは国民憲法議会での論争を報じる新聞だったが,99年にベルタン兄弟が買収してからは,政治と文学の両方に強い有力紙となった。ナポレオンは,デバという言葉を忌んで,1805年7月16日《ジュルナル・ド・ランピールJournal de l’Empire(帝国新聞)》と改称させ,全面的に財政援助をして御用新聞にしたが,ナポレオンの失脚後はもとの題号に戻った。14年の王政復古後はルイ18世を支持したが,シャルル10世になると議会主義の立場に立つなど,政治的には動揺をくり返し,第三共和政になってからは共和派保守層を代弁した。ただし,有力文学者らの寄稿が多くて文壇に重きをなし,〈アカデミーのサロン〉などと呼ばれた。第2次世界大戦前には《タン》と並んでフランスの代表的な新聞であった。ドイツ軍によるフランス占領時代には,ナチスのもとでの発行をいさぎよしとせず,南フランスのクレルモン・フェランに移って発行を続けてみたものの,42年には停刊を余儀なくされた。戦後は《ル・ペイLe Pays(国)》と改称して再刊された。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のジュルナルデデバの言及

【言論統制】より

…しかし市民革命に対する反革命が行われ,あるいは貴族・地主ら保守階級が優勢だった国ではなお強い言論統制が続いた。フランスでは大革命の反逆児ナポレオンの言論統制はことに激しく,1800年にまず政論紙を13に制限し,新しい新聞の発行を禁止し,皇帝となった04年には共和派の新聞《ジュルナル・デ・デバ》に特別事前検閲を科し,題号を《ジュルナル・ド・ランピール(帝国新聞)》と変更させ,11年にはこれを国有にし,同時に地方新聞に1県1紙の新聞統合を行った。フランスの言論の自由はパリ・コミューンを経て第三共和政成立後,81年〈新聞の自由に関する法律〉が公布されてはじめて実現した。…

※「ジュルナルデデバ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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