ナチス(読み)なちす(英語表記)Nazis

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ナチス」の意味・わかりやすい解説

ナチス
なちす
Nazis

国民社会主義ドイツ労働者党Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterparteiの通称。略称はNSDAP。ナチNazi(単数および形容詞)またはナチス(複数)は、ドイツの政敵や欧米の反ヒトラー派がこの党に与えた卑称である。日本では公式の略称としては単数、複数を問わずナチスとよんでいた。今日では世界的通称としてナチおよびナチスが使用され、ドイツではそのかわりにNS(エヌエス)が使用される。ナチスはもっとも徹底したファシスト政党で、ナチス支配は1933年から45年まで行われて、第三帝国と称せられる。ナチス党の精神と主張あるいはその支配体制をナチズムとも称する。

村瀬興雄

ナチスの性格

ナチスは、19世紀末のヨーロッパに広まっていた反ユダヤ主義、白色人種至上主義、帝国主義、さらに資本主義社会と社会主義運動との間にあって苦しむ中産階級の反社会主義・反民主主義などの思想と運動を基礎としていたが、同時にドイツ特有の思想と運動にも立脚している。すなわち、急激な工業化のために没落しつつある中間層の救済を求める運動、労働運動のなかにまで侵入した国家主義、あるいは、第二帝政下の軍部・官僚、さらに民間各層に共通する軍国主義・官僚主義・権威主義・反西欧主義・ドイツ民族至上主義などの矛盾した思想と運動がそれである。

 ナチスの中心理論の一つは人種論である。強者であるドイツ民族はヨーロッパ各地を征服して、広大な生存圏を獲得しなければならない。弱者であるスラブ民族はドイツ民族に支配される運命にあり、ユダヤ人などの「劣等民族」は、隔離するか絶滅するほかない。優秀な民族は、劣等な民族と結婚して自分の優秀な血液を濁してはならない。ドイツ民族は、民族共同体の一員として、一致団結して民族の発展に努めなければならず、上部の命令に従い、下部に対しては責任をもつという「指導者原理」による独裁政治がそのために必要となる、とナチスは説いた。しかし、党内部には農業至上派、近代技術至上派、官僚的保守派、社会主義的労働者派などがあって、それぞれ別々な要求を提出しており、党員の多くは日常の利害関係に従って行動する出世主義的な日和見(ひよりみ)主義者であった。

[村瀬興雄]

ナチス運動の特色

ナチスは第二帝政以来のドイツの特色を維持しつつ、その内部で大胆な近代化と改革とを行うことを主張した。すなわち、手工業者・小商工業者・中小農民の保護、旧道徳や習慣の廃止、下層中産階級の生活向上とこの層の有能な人物の大規模な登用、社会政策と福祉政策の拡張充実などを要求していた。その支持者には、高度工業社会で不遇な生活をしている都市と農村の中産階級や、労働組合に飽き足りない労働者、失業者までが含まれていた。大資本家層と軍部などは、ナチスと共通の目標(階級闘争の排除、軍国主義的秩序の再建、民主共和制の転覆、経済の発展、軍備の大拡張、ドイツのヨーロッパ制覇)をもっていたので、積極的にナチスを支持する者が少なくなかった。しかし、保守帝政派を支持しナチスには距離を置く者のほうが支配勢力の主流をなしていた。

 ナチスは、下層中産階級の男女、農村の少年や婦人を積極的に運動に巻き込み、腐敗した既成社会に反逆する態度をとり、民衆の生活を保護し向上させることに努めた。しかし全国的に画一的な運動方針がとられたわけではなく、プロテスタント農村では中農から大農の支持者が多く、カトリック地帯では貧農や農業労働者の支持者が多かった。

[村瀬興雄]

党の発展

党の前身は、1919年1月5日ミュンヘンで結成されたドイツ労働者党Deutsche Arbeiterparteiである。これは、全国的な極右反ユダヤ団体のバイエルン地方組織であるトゥーレ協会Thule Gesellschaftを基礎とし、反ユダヤ主義と、労働者および中産階級の救済とを目的とする極右政党であった。1918年11月のドイツ革命に対し、19年5月バイエルンで反革命が成功すると、党は活発な活動を始め、同年9月中旬にヒトラーが入党して以来、大衆活動によって運動は発展を遂げた。20年2月24日、25か条からなる党綱領(二十五か条綱領)を公布し、このころから党名を国民社会主義ドイツ労働者党と改称した。だが、ヒトラーと旧幹部との間に、党の組織と運営をめぐって争いが起こり、21年7月29日に臨時党大会が開かれて、ヒトラーの独裁的な地位が確立した。党機関紙『フェルキッシャー・ベオバハター』の主筆で右翼評論家かつ芸術家のエッカートDietrich Eckart(1868―1923)は、バイエルンの上流社会、知識人、保守派をヒトラーに結び付けた。またバイエルン軍部の参謀レームも軍部の内部からヒトラーを支持した。バイエルン北部のフランケン地方の反資本主義的反ユダヤ運動の指導者シュトライヒャーJulius Streicher(1885―1946)らも22年10月に合流した。こうして運動はミュンヘンを中心としながらバイエルン各地で大発展を遂げ、生活難に苦しむ中産階級各層に対してベルサイユ条約反対、ユダヤ人反対、ワイマール共和制反対を説いて成功を収めた。大資本家の支持も強化された。23年1月フランス軍のルール占領が強行され、インフレーションが猛烈な勢いで進行すると国民生活が破綻(はたん)した。党は軍部、大資本家、極右政治家による右翼独裁の樹立運動に参加して、23年11月8~9日、ミュンヘンで一揆(いっき)(ヒトラー一揆)を起こした。しかし軍部、警察、官僚の中枢部の支持が得られなかったので、一揆は失敗した。党は一時禁止されたが、ヒトラーが出獄したあと、25年2月27日に再建された。

[村瀬興雄]

党の再建から第一党へ

出獄後のヒトラーは、『わが闘争』Mein Kampf(1925~26)を出版して運動方針を示し、合法主義を守りながら大衆組織を発達させて、民主主義国家を内部から占領する戦略をとった。SA(エスアー)(突撃隊)のほかにヒトラー・ユーゲント、ナチス学生同盟が組織され、また党員による労働者獲得のために、経営細胞の統一組織が組織された。しかし労働者は、ナチス政権の成立後になってもナチスには同化されなかった。ライン地方を中心とした北ドイツ各地で、農民への土地分配、重要産業の公有化とその利益の使用人への分配などを主張する党内左派が、シュトラッサーを中心として発展した。しかし1926年2月のバンベルク党会議においてヒトラーの指導権が確立し、左派の論客ゲッベルスがヒトラー支持に回り、同年11月から、マルクス主義勢力の優勢な首都ベルリンの大管区指導者として、宣伝と組織活動を開始した。ベルリンの強力な党組織は運動の模範とされたが、党勢は全国的には伸び悩んだ。27年末に運動の方向転換を行い、宣伝の焦点を中産階級へと絞った。そのため、中間層の支持者がしだいに増加してきた。たとえば、30年9月の総選挙で党はシュレスウィヒ・ホルシュタイン州農村部で35.1%の支持を獲得、さらに32年7月の総選挙では63.8%に増加している。全国の都市部をみても党勢は増し、ベルリン市会では社会民主党・共産党による過半数が維持されていたが、ナチスは同市において28年から3年間、選挙ごとにその得票を毎年3倍ずつ増大させた。そして、32年7月の総選挙では37.4%の票を集め、他を引き離して第一党となった。党員数も28年末に10万人余りであったが、33年初めには150万人に達した。かくて、大統領ヒンデンブルク周辺の保守帝政派、軍部、経済界中枢部は、ナチスを中心とする連立内閣の樹立に踏み切り、33年1月30日、ヒトラーは首相に任命された。

[村瀬興雄]

党の組織

党の組織が膨張するにつれて、その構成も複雑となった。政権確立後の組織は、だいたい次のごとくである。人口160人から240人(世帯数40~60)ごとに「ブロック」をつくり、4~8ブロックをもつ地区に「細胞」を置いた。ブロックの大きさは、党が各世帯を十分に把握できる規模にとどめた。ブロックと細胞にそれぞれ指導者が置かれ、細胞の上に地区支部が置かれた。地区支部の規模は、1937年の規定によれば、最高3000世帯(38年には1500世帯と半減)、党員は500人を限度として、できるだけ村落自治体ごとに置かれた。党の下級組織は概して弱体で、地区支部指導者の下に2、3人のブロック指導者がいるだけの場合が多かった。地区支部指導者以下の地位は無給の名誉職であったから、そこには専従事務員もいなかったし、党の指令の遂行もきわめて不十分なものとなった。地区支部の上に郡支部があり、その指導者(長)は有給専任職で、郡以上の党組織はしっかりしていた。郡の上には大管区があり、大管区指導者は37年末まで全国で32人、39年以後は41人となり、多くの幕僚に支えられて大きな権力を振るっていた。全国の党組織を総括するのが総統代理幕僚部で、党の各種団体もここで統制された。党構成団体(党内部の組織)としては、SS(エスエス)(親衛隊)、SA(エスアー)(突撃隊)、ナチス婦人団、ヒトラー・ユーゲント、ドイツ処女団、ナチス学生同盟、ナチス大学講師同盟、ナチス自動車運転者同盟があり、党付属団体(形式上は独立している)としては、ドイツ労働戦線、ナチス教員同盟、ナチス法律家同盟、ナチス医師団、ナチス民衆福祉団、ドイツ官吏全国同盟、ナチス・ドイツ技術者団、ナチス戦争犠牲者保護連盟があった。

[村瀬興雄]

第三帝国の建設

ヒトラーは1933年1月に組閣ののち、ドイツ国議会を解散し、国会議事堂放火事件を利用して反対派に対する大弾圧を強行、同年3月の総選挙に勝利を収めた。保守帝政派と結んで議会を支配し、SAをはじめとする各種の大衆団体を動員して、街頭行進、反対派の逮捕、反対派組織への襲撃を全国的に展開して政権の基礎を固め、同年3月23日に議会で全権委任法を成立させて独裁制を樹立した。また、5月2日には労働組合を廃して、労働者をドイツ労働戦線に編成替えした。7月14日には新政党の結成がすべて禁止され、ナチス党の単独支配体制が確立した。支配勢力の圧倒的な支持を確保したうえ、職業の安定と地位の昇進を求めて入党者が激増し、35年初めには党員の3分の2が政権獲得後の新入党員となった。

 その間、在野時代にナチス運動を支えてきたSAは、その自主的で攻撃的性格のゆえに1934年6月末から7月初めにかけて幹部多数が虐殺され(レーム事件)、ナチス党内保守派が全権を握り、保守帝政派と結んで国内の官僚化、軍事化を促進した。もとSA内部の組織であったSSは、レーム事件ののち独立組織となり、そのうちの秘密国家警察(ゲシュタポ)は政治的反対派を法律上の手続抜きで逮捕、拘禁し、危険人物や反社会的人物を強制収容所に入れて虐待した。34年8月2日にヒンデンブルクが死去すると、ヒトラーはフューラーFührer(指導者の意、大統領と首相職を兼ねる。総統と訳す)となった。

 国防軍は、1935年3月の一般義務兵役制の導入以来5倍に増強され、若い将校や下士官が急速に昇進するにつれて将校団のなかにヒトラー崇拝者が増え、プロイセン軍部の伝統を守る高級将校団と対立した。同じく大拡張された海軍および新設された空軍にはナチス支持者がさらに多く集まった。農業、商業、工業その他の営業部門は、それぞれの職業別団体に強制組織されて、国家の指導と監督下に活動することとなった。都市も自治権を失い、市長、助役、参事会員などが党や国家によって任命されることとなり、新聞や文化全体がゲッベルスの宣伝啓発省の統制を受け、芸術家たちはドイツ国文化院に組織され、大学でも学長は国家によって任命された。各官庁と統制機関とは「指導者原理」によって組織され、全ドイツが息の詰まるような独裁体制に編成替えされたようにみえた。しかし、ナチス官庁と統制機関それぞれとの間に激しい対立と競合の関係があったため、互いの主張のつぶし合いとなり、第三帝国の現実の政治の常識化をもたらした。第三帝国では、ヒトラーの命令が無条件に遂行されるたてまえであったが、現実には従来の政治、社会、文化上の各圧力団体、政治勢力が各自の利益を強硬に主張しあったから、実際には伝統的社会が維持されて、その枠の内部で近代化が必要に応じて進められたにすぎなかった。党下部組織が弱体であったので、ヒトラーの命令は地区支部の段階になると、伝統的支配勢力の利害と相反する場合には、しばしば実行できなくなった。

[村瀬興雄]

経済建設

まずワイマール共和制末期の失業救済計画が大規模に拡張されて、道路建設、土地改良工事、飛行場・兵営の建設が進められた。1935年6月に青年(および部分的には婦人)に対する6か月の義務的勤労奉仕制度が導入され、翌年8月には1年制兵役が2年制に延長された。各種の統制団体や官庁組織も膨張したので、33年初めに600万人を超えた失業者は35年1月に297万人、39年1月には30万人に減少して、多くの産業では労働力不足が痛感された。

 ライヒスバンク(ドイツ国立銀行)総裁シャハトは経済相を兼ねて、インフレを避けるために賃金と物価を凍結させ、企業利潤への課税を増やして大規模な経済建設を進めた。国防予算は他の財政支出を圧倒して増大した(1932年6億マルク、34年33億マルク、37年109億マルク)。シャハトはあまりに急速な軍備拡張に反対して辞任し、ナチス党経済政策委員長フンクWalter Funk(1890―1960)がかわって経済相となった。

 商業上ではバルカン諸国と物々交換協定を結び、この地方をドイツの経済的勢力圏へと組み入れた。さらにダンピングによって外貨を獲得し必需物資の購入にあてる方法もとられた。工業上では鉄と石炭の増産が図られ、鉄鉱石の産出額は6年間で6倍に増大、石炭産出額も激増した。政府は、採算を無視して劣悪な原鉱石の精錬を強行し、国営ヘルマン・ゲーリング工場が設立されて、ドイツ最大の工業企業となった。合成ゴムや、石炭液化による人造石油の生産も進んだ。重工業界にはナチス党の戦争政策に賛成する者も反対する者もあったが、化学工業界には戦争支持派が多かった。ナチスは、国民の人気を維持するために消費生活を重視し、耐久消費財や住宅建設にも力を注いだ。また大企業を優遇し、彼らの経営自主権を尊重したから、大企業は各種の国家統制を受けたにもかかわらず繁栄し、強大な実力をもち続けた。再軍備が進むとともに完全雇用状態が出現し、労働力不足が痛感されたので、労働者の収入と社会的地位も向上した。民衆がナチスを支持したのは、主として生活水準の向上のゆえである。農業上では農業生産者団が組織され、農産物の販売、市場統制、価格がそこで決定され、農産物価格は安定した。労資協調団体としてのドイツ労働戦線は、労働運動の強力な伝統を無視することができず、しばしば労働組合的役割を演じて資本家と対立した。労働戦線内の「歓喜力行団」Kraft durch Freudeは、労働者の余暇利用や生活の向上に貢献して注目された。

[村瀬興雄]

統制と日常生活

ナチスは労働者の賃金を固定したうえに1935年2月労働者に労働手帳を交付し、彼らの職場移動をきわめて困難にしたが、労働力が不足し各工業が労働者の非合法な引き抜きを競うようになると、労働者はサボタージュや小規模のストや仮病つかいなどによって職場移動の許可をかちとった。また労働能率を低下させ、賃金を増額させて生活を防衛した。農業労働者や僕婢(ぼくひ)も工業への転職を禁止されていたが、工業側の誘いに応じて非合法な転職を実現し、農業労働力が極端に不足していたのでその賃金は暴騰した。

 文化生活の面では、1933年5月に「好ましからざる」書物が宣伝啓発省の指導下にナチス学生同盟によってドイツの大学都市の街頭で焚(た)かれ、公共図書館からそれらの書物が撤去された。執筆禁止処分を受けた著作家や国外に亡命した知識人も少なくなかったが、書店では街頭で焚かれた書物も販売され、非ナチス的知識人の良心的な研究書や芸術作品が広く読まれていた。外国の文学書や刊行物はナチスを直接に攻撃していない限り輸入され、翻訳された。

 音楽については、ジャズは黒人的として弾圧されたが、一般の演奏会や、カフェー、ダンスホールでは演奏されることが多く、とくにテンポの早いスウィングが好まれて、その演奏につれて人々は熱狂して踊り狂った。映画でも政府の推奨するナチス映画は喜ばれず、アメリカ映画がいつも満員となった。

 ヒトラー・ユーゲントは、法律によって青年の教育と訓練を管理する独占的組織となったが、1939年3月、10歳から18歳に至るすべての青少年男女を残らず入団させる強制組織となった。青年男女は同団の各種の奉仕活動や軍事予備訓練を嫌い、しばしばその動員令を拒否して、自分らのかってな服装をして自由なグループで集まり、楽しみ、気の向く所へと旅行した。一般に、各種の統制機関や官庁諸組織が相互に競争し対立していたことが、第三帝国の各方面で統制から自由な領域を残す結果となった。

[村瀬興雄]

外交政策と大戦下の国民

第三帝国初期の外交では、戦争を避けながら国力を強化し、国際的地位を高める方針がとられた。国際対立も巧みに利用された。1933年10月、軍備平等権が認められないとして国際連盟を脱退した。35年3月にはベルサイユ条約の規定を破って一般徴兵制を採用、陸軍を一挙に5倍に拡張し、同年6月英独海軍協定によって海軍も4倍に拡張した。36年3月にはロカルノ条約を破棄してラインラント非武装地帯に進駐し、独仏国境を要塞(ようさい)化した。同年8月に行われたオリンピック・ベルリン大会は、ドイツの国力を内外に示す機会となった。スペイン内戦でのフランコ軍(反乱軍)側に対する援助はイタリアとの接近をもたらして36年10月25日独伊条約が成立、ベルリン・ローマ枢軸の結成となり、同年11月25日の日本との防共協定が英仏に対するドイツの地位をさらに強化した。38年2月、支配勢力内部の穏和派が罷免されてドイツの強硬な外交姿勢が明らかになった。38年3月13日、ドイツはオーストリアを軍事占領して合併した(アンシュルス)。ついでチェコスロバキアのドイツ民族居住地ズデーテン地方を同年9月のミュンヘン協定によって併合し、ドイツの国力はヨーロッパを圧倒するほどになった。39年になるとスロバキア民族の独立運動を口実に3月チェコ地方を占領してドイツの保護領とし、スロバキアを独立させてドイツの保護国とした。ついでポーランド回廊とダンツィヒ(グダニスク)のドイツへの復帰を要求し、5月22日イタリアと軍事同盟を結び、8月23日独ソ不可侵条約を結んで戦略上有利な立場にたったうえで、9月1日ポーランドに侵入して第二次世界大戦を引き起こした。40年9月27日、日独伊三国同盟を結び、41年6月22日ソ連に侵入して独ソ戦争を起こし、ついに敗れて45年4月30日ヒトラーは自殺し、5月8日ドイツ全軍が無条件降伏して、5月9日ヨーロッパに平和が回復した。

 戦争中の日常生活は、配給物資が比較的に多かったので、第一次大戦下のように国民が欠乏に悩むことはなかった。初期には国民は戦勝気分に酔ったが、それは永続せずすぐに平和を求めた。しかし1943年1月のカサブランカ会談で米英がドイツ無条件降伏を求め、同年夏からドイツへの空襲、とくに無差別爆撃が激化すると、国民はナチス政権とドイツ国家とを一体化して考えるようになり、抵抗運動はまったく振るわなかった。青年や労働者などの自然発生的な反抗行為は強まって、政府の権威は衰えたものの、ヒトラー崇拝心は国民の間に残り、政権の維持に役だった。

 戦争中は労働力不足を補うために1200万人に及ぶ外国人男女労働者および戦争捕虜を国内の軍需工場や農場で働かせたが、東ヨーロッパ出身労働者と捕虜の労働条件が非常に悪かったために死亡率が高く、終戦まで生き延びたのは全外国人労働者と捕虜のうち750万人にすぎなかった。

[村瀬興雄]

ユダヤ人迫害と虐殺

1910年にはドイツ国内に61万人余のユダヤ人がいたが、33年には50万人余に減っていた。彼らはユダヤ教徒であったがドイツ文化に同化しており、愛国的ドイツ国民であった。ドイツ人は昔からユダヤ人に対して差別意識をもっていたが、反ユダヤ主義宣伝には一般の人気は沸かなかった。ナチスは33年4月にユダヤ人商店に対するボイコットを組織し、また同月の職業官吏再建法でユダヤ人を公職から追放した。35年9月15日ニュルンベルク法が発布されてユダヤ人との結婚が禁止され、38年11月9日の夜から10日の早朝にかけては、ユダヤ人居住地や教会に対するSAの襲撃が行われた(水晶の夜)。これ以後ユダヤ人の全商店が閉鎖され、劇場などにも入場が禁止されたので、彼らは強制労働に従事する以外に生きる道がなくなった。多くのユダヤ人は財産を没収されながら先を争って出国したので、39年には彼らの数は21万5000人に減少した。第二次大戦が始まるとドイツ軍占領地でのユダヤ人迫害と虐殺が始まり、42年1月20日のワンゼー(現ベルリン)会議では、全ヨーロッパのユダヤ人を東ヨーロッパに輸送して強制労働に従事させ、できるだけ死亡させるという「絶滅政策」が決定され、実施されて、病弱者は初めからガス室などで殺された。殺された者は450万人内外と推定される。これは独ソ戦争の結果、ユダヤ人をヨーロッパ以外の地に追放できなくなったために行われた政策で、軍部と占領地官僚の広範な層がこの政策を支持し、実行した。

[村瀬興雄]

ナチスに関する研究史

第三帝国の時代には、ナチスを賛美する研究がドイツでも欧米でも少なくなかったが、亡命者や欧米の近代政治学者によってナチスを現代社会の異常現象とする研究が行われた。F・ノイマン著『ビヒモス』(1942)(岡本友孝・小野英祐・加藤栄一訳・1963・みすず書房)は現在でも読まれているが、この派は第三帝国を、ヒトラーとナチス党が無制限な権力を振るう「狂気の」独裁体制として描いている。戦争後もこの派の研究者は民主主義擁護の立場から、ナチスの強力な宣伝によりドイツ国民がロボットのように踊らされたこと、地獄のように悲惨な国民生活などを描いた。A・ブロック著『ヒトラー 専制政治の研究』(1952)(大西尹明訳『アドルフ・ヒトラー』2巻・1958~60・みすず書房)も膨大な史料に立脚する労作であるが、この系統のナチス観にたっている。1950年代になると、ナチス政権の二級幹部たちが自由を回復して、自己弁護を含む回想録を執筆し、戦争責任と戦争犯罪のすべてをヒトラーとナチス大幹部に押し付けたが、その回想のなかでは各指導者間の意見や立場の相違も明示されていた。シャハト著『わが76年の生涯』(1953)(永川秀男訳『我が生涯』2巻・1954・経済批判社)などはその代表である。各種史料の公開が進み、第三帝国の実際の姿が客観的に検討されだしたのは60年になってからで、F・フィッシャーは、ナチズムを第二帝政からワイマール共和制を経て第三帝国に至る戦争目的と支配勢力の連続性のなかで考察し、彼の弟子ベント著『ミュンヘン』(1965)は、英独帝国主義政策の衝突という見地からイギリスの宥和(ゆうわ)政策を見直した。フィッシャー著『エリートの同盟』(1979)では、1945年に至る支配勢力の連続性がさらに具体的に追究された。フィッシャーは、ドイツ史のマイナスの伝統がナチス政権を生んだと指摘したのに対して、ドイツ官学と知識人の大部分は、第二帝政にはナチス政権と共通するものはなにもない、ナチスはドイツ史の突然変異現象だ、と反駁(はんばく)した。この間シェーンボウム著『ヒットラーの社会革命』(1966)(大島通義・かおり訳・1978・而立書房)が出版されて第三帝国における近代化の進展、その支配勢力の連続性と断絶性の問題がさらに深く理解されるようになり、第三帝国内にいろいろな政治・社会勢力が存在し争い合っていたことが明らかになった。こうしていろいろな支配勢力の対立と妥協のなかから第三帝国の動きが理解されるようになり、ミヒャルカ著『リッベントロップとドイツの世界政策』(1980)は外交政策決定に際しての多元的な支配構造を明らかにした。さらにナチス支配におけるたてまえと現実の大きな相違も注目され始め、ドイツ民衆の日常生活の連続と変化、民衆のしたたかな生活態度とナチス党の支配力の限界が各種の実状調査によって明らかになってきた。ブロシャート他編『ナチス時代のバイエルン』6巻(1977~83)は貴重な史料集で、シェーファー著『分裂した意識、ドイツ文化と生活の実際、1933―45年』(第三版・1983)、ポイケルト著『民族同胞と共同体の敵、ナチス治下における順応、除去、反抗』(1982)は、ナチス独裁下に生き抜いた民衆の姿とナチス支配力の弱さとを明らかにしたものである。

[村瀬興雄]

『ブラッハー著、山口定・高橋進訳『ドイツの独裁』全2巻(1975・岩波書店)』『シェーンボウム著、大島通義・かおり訳『ヒットラーの社会革命』(1978・而立書房)』『ウィーラー・ベネット著、山口定訳『権力のネメシス 国防軍とヒトラー』(1984・みすず書房)』『村瀬興雄著『ナチズム』(中公新書)』『シュペール著、品田豊治訳『ナチス狂気の内幕』(1970・読売新聞社)』『村瀬興雄著『ナチス統治下の民衆生活』(1983・東京大学出版会)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ナチス」の意味・わかりやすい解説

ナチス
Nazis

ドイツの政党。「国家社会主義ドイツ労働者党」 Nationalsozialistische Deutsche Arbeiter Partei (NSDAP) の略称。単数形のナチ Naziも用いられる。 1919年 K.ハラーによってミュンヘンで結成された「ドイツ労働党」を,ヒトラーが民族主義と社会主義を巧みに接合させ,20年に「国家社会主義ドイツ労働者党」と改名した。ヒトラーは 21年党首となったが,23年にミュンヘン一揆を企てて投獄された。党は解散したがヒトラーの出獄とともに大衆政党として再出発。 25年の党員数はわずか2万 7000人にすぎなかったが,その後群小右翼団体を吸収して膨張し,29年には 17万 6000人,31年に 80万 6000人,33年に 390万人とふくれあがった。ヒトラーはこのような力を背景に 30年9月の総選挙で 18.3%を獲得して第2党となり,32年7月の総選挙では 37.4%を得て第1党に躍進した。さらに軍部や財界と取引を行なって,33年1月ついに政権を獲得し,やがて破滅的な第2次世界大戦への道をとるにいたった。

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