スパヌウォン(英語表記)Souphanouvong

改訂新版 世界大百科事典 「スパヌウォン」の意味・わかりやすい解説

スパヌウォン
Souphanouvong
生没年:1912-95

ラオスの政治家。ルアンプラバン王家の副王の王子として生まれ,ベトナムのハノイ中等教育を受けた後,1930年フランスへ留学して,土木専門学校に学んだ。37年にハノイに戻り,土木技師として公共事業局に勤務。45年異母兄のペッサラート,スワンナプーマラオ・イッサラ(自由ラオス)を結成し,翌年タイのバンコク亡命政権を組織した。49年のフランス連合内のラオス王国独立に反対し,翌年左派系のネオ・ラオ・イッサラ(自由ラオス戦線)を組織し,臨時抗戦政府首相となった。56年ネオ・ラオ・ハック・サートラオス愛国戦線)が結成されると議長に選出された。75年の革命後はラオス人民民主共和国大統領,最高人民議会議長に就任した(86年,病気のため休職,第一線から退いた)。なお日本ではスファヌボンの名で知られる。
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百科事典マイペディア 「スパヌウォン」の意味・わかりやすい解説

スパヌウォン

ラオスの政治家。日本ではスファヌボンの名で知られる。王族の出身でプーマ異母弟。1945年ラオ・イッサラ(自由ラオス)を組織して反フランス独立運動を指導。1950年ネオ・ラオ・イッサラ(自由ラオス戦線)議長,臨時抗戦政府首相,1956年ネオ・ラオ・ハックサート(ラオス愛国戦線)議長,1962年の連合政府で副首相兼経済計画相。1963年右派と衝突パテト・ラオの根拠地カンカイに移る。ラオス内戦再開後,1974年の臨時民族連合政府樹立にあたりラオス民族連合政治評議会議長となり,1975年12月のラオス人民民主共和国成立に際し最高人民会議議長,初代大統領。1979年ラオス国家建設戦線議長。1991年に大統領を辞任し,実質的に政界を引退した。→パテト・ラオ

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367日誕生日大事典 「スパヌウォン」の解説

スパヌウォン

生年月日:1907年7月13日
ラオスの初代大統領兼最高人民評議会議長
1995年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のスパヌウォンの言及

【ラオス】より

…これに対して,日本の敗戦直後に結成されたラオ・イッサラ(〈自由ラオス〉の意)は,45年10月ビエンチャンにラオス臨時政府を樹立した。この政府はフランス軍に押されて46年4月にタイへ移り,亡命政府となったが,閣僚の中にはのちに活躍するプーマスパヌウォンがいた。一方,フランス側についたシー・サワン・ウォン王のルアンプラバン王国は,46年8月にフランスと協定を結んだ。…

※「スパヌウォン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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