翻訳|Laos
インドシナ半島の東寄りに位置する国。正称はラオス人民民主共和国Satharanalat Pasathipatthai Paxaxon Lao(Lao People's Democratic Republic)。東はベトナム、北は中国、北西はミャンマー(ビルマ)、西はタイ、南はカンボジアに接する内陸国である。国土は南北に1000キロメートル、東西に150キロメートル(広い所で500キロメートル)という細長い山国である。面積は23万6800平方キロメートル(日本の本州とほぼ同じ)。人口は585万9000(2007推計)。首都はビエンチャン。
[丸山静雄]
国土は上ラオス(北ラオス)、中ラオス、下ラオス(南ラオス)からなる。上ラオスはフォンサリからサムネワに至る北東部の山地帯、ルアンプラバン、サヤブリを含む北西部の山地帯、ほぼ中央に広がるジャール平原(ムォン・フエン平原、チャンニン平原ともよばれる)の3地区に分かれる。ジャール平原は高原としては標高がもっとも高く、ラオスの最高峰ビア山(2820メートル)をはじめ2000メートル級の山を周辺にいくつももつ。インドシナで最初に人骨が発見されたフロイ山(2257メートル)も高原の北方にある。ここはシエン・クアンを中心とする広大な高原である。上ラオスは地勢、気象ともに厳しく、ベトナムに近い。早くから、ラオスの左派勢力ともいうべきパテト・ラオ(ラオス愛国戦線)の地盤となっていた。
中ラオスはカムムオン(タケク)州とサバナケット州にまたがり、チョンソン(アンナン)山系からメコン川にわたる山地と平地である。国土のうちもっとも狭い地域にあたる。北東部はチョンソン山系につながる山地で、ジャングルに覆われ、その南にはマハサイ平野、ケンコク平野が広がる。この地域は肥沃(ひよく)な米作地帯でラオスの穀倉である。
下ラオスも三つの地域からなる。東部はチョンソン山系沿いの山地帯で、ベトナムのコントゥム高原につながる。中部はボロベン高原である。ボロベン高原は標高700~1200メートルで、広さは1万平方キロメートルに達する。下ラオスの10分の1を占める。米、コーヒー、ミョウガ、キナを産出する肥沃(ひよく)なテル・ルージュ(紅土)地帯である。かつてフランスはここを熱帯性工業用作物の栽培地、牧場、保養地にしようとしていた。西部はメコン川右岸のチャンパサック地区で、米作地帯である。中ラオス、下ラオスは平野、高原からなる豊かな農作地帯で、古来、保守勢力の地盤となっていた。
ラオスは、その東側をチョンソン山系が北から南に走ってベトナムとの国境を形成し、西側をメコン川が北から南に流れて、ときにはラオス領内に深く入り、ときには西に南に動いて、ミャンマー、タイ、カンボジアとの国境を形づくる。メコン川はラオス北部では幅300メートルほど、ビエンチャンでは1キロメートル、河口では洋々たる大海の趣(おもむき)をもつ。メコン川は国際河川開発の焦点とされ、その本流、支流にさまざまな開発計画が提起されている。道路、鉄道の十分に発達していないラオスでは、メコン川の水運が重要な交通、輸送手段となる。しかしコーン滝、ケマラート滝の急流で舟の航行は阻害される。内陸国はひたすらに海への出口を求める。ラオスにとって、それはサバナケットから9号道路によってベトナムのクアンチに出るか、タドアでメコン川を渡り、ノン・カイから長駆タイ領内を走ってバンコクに出るかの二つの道しかない。後者については1994年4月、タドアとノン・カイの間に「ミタバイ橋」(ラオス・タイ友好橋)が完成、ビエンチャンとバンコクが結ばれ、前者についても整備が進められている。
気候は熱帯モンスーン型。1年は乾期と雨期に分かれ、乾期は10月~4月、雨期は5月~9月。年間の降水量は1563ミリメートル。平均気温は26.5℃。11月~2月は比較的涼しいが、雨期は湿気が強く、暑い。山地ではケシが栽培され、焼畑農業が行われる。森林にはゾウ、トラ、イノシシ、サルがすみ、その他希少な昆虫、植物も多い。
[丸山静雄]
ジャール平原の北100キロメートルほどにあるフロイ山の麓(ふもと)では人骨と斧(おの)型の石器、ルアンプラバン付近では磨製(ませい)石器が発見され、旧石器時代、新石器時代に、ラオス北部に人が住み着いていたものと考えられる。おそらく、この時代、ベトナム北部からラオス北部、ビルマにかけてのインドシナ半島北部には中国大陸、太平洋諸島の人たちと連なるさまざまな民族集団が形成されていたのであろう。
彼らは生活手段を開発し生産を高め、中国あるいはインドからその文化を受け入れて成長し、1世紀前後から各地に小王国がつくられた。しかしやがて彼らは国づくりや争いに疲れて、活力を失っていった。すると、タイ系種族(タイ、ラオ、ビルマのシャン地方に住むシャンなど)やビルマ人が中国の雲南(うんなん)地方から南下してきた。8世紀ごろから12、13世紀にかけて、彼らによってその王国が各地に建設された。ラオスでは、ラオ人によってルアンプラバンとシエン・クアンに小王国がつくられ、1353年、両王国を合併してランサン王国が樹立された。ランサンとは100万のゾウを意味し、ゾウは富と力を象徴する。14世紀、ランサンはインドシナ最強の王国となったが、のち、王国はルアンプラバン、ビエンチャン、チャンパサックの3王国に割れ、3王朝が併立する形となった。
分裂は力を弱める。19世紀末、タイの侵攻を受け、ラオスはその保護下に置かれた。やがてフランスが登場し、フランスはカンボジア、ベトナムを征服したあと、ラオスに対する宗主権をタイに放棄させ、1899年、ラオスを仏領インドシナ連邦に編入した。フランスはルアンプラバン王国を保護国、それ以外は直轄植民地としてラオスを支配した。ラオスでは地勢の関係で各地に小王国(小王室)がつくられたが、そのなかでルアンプラバン王国(王室)はいつも主導的地位に立っていた。
ラオスの主体性を守るにはルアンプラバンが最適の地と考えられたのでもあろう。太平洋戦争末期の1945年3月、日本はこの地に軍を入れてフランスの植民地支配を排除し、同年4月8日、ルアンプラバン王国の独立を認めた。国王はシサバン・ウォン、副王兼首相はベッサラートである。しかし8月、日本は降伏した。フランスはベトナム、カンボジアに次いでラオスでも復帰を試みようとした。それに対し国内には、独立を貫こうと、ベッサラートを主導者とするラオ・イサラ(自由ラオス)、フランスとの協調を訴えるシサバン・ウォン国王派、フランスに対する徹底抗戦を主張しスファヌボンを主導者とするネオ・ラオ・イサラ(自由ラオス戦線。のちパテト・ラオ=ラオス愛国戦線と改称)など、さまざまの運動があった。そうしたなかで、ベッサラートが主導権を握り、1945年10月、ビエンチャンにラオス臨時政府が樹立された。首相はベッサラート、建設相スバナ・プーマ、国防相はスファヌボンであり、国王シサバン・ウォンは退位した。
ラオスにはプリンスが多い。プリンスはかならずしも皇子、皇太子を意味しない。王族出身者は個人でもすべてプリンスとよばれる。ラオ語にはチャオ(Chao、Tiao)という尊称がある。長の意味である。プリンスはそうした尊称の一つである。ただし日本語で表すにはほかに適訳がなく、一般に殿下とされている。ベッサラート、スバナ・プーマ、スファヌボン、ブン・ウムなど、いずれもプリンスとよばれる。ベッサラート、プーマ、スファヌボンは兄弟で、ベッサラートは長兄、プーマが弟、スファヌボンは異母弟だった。彼らはルアンプラバン王家の弟の家系に属する。ブン・ウムはチャンパサック藩王だった。藩王とは現王室以外の、かつての王族をいう。
1946年4月、フランス軍がビエンチャンに復帰した。シサバン・ウォンは復位を認められてふたたび国王となり、王朝政府が登場した。王朝政府は1946年12月のインドシナ戦争勃発(ぼっぱつ)後、1949年7月、フランス連合内での独立を認められ、1953年10月、完全独立を得た。インドシナ戦争は1954年7月に終結、フランスの植民地支配も終わりを告げた。
その後、国内の対立は、ビエンチャンを中心とする中立派(首相スバナ・プーマ)、チャンパサックの親米右派(ブン・ウム)、北部のフォンサリ、サムネワの親越(ベトナム)左派パテト・ラオ(スファヌボン)の3派の抗争と形を変えて続けられた。冷戦が激しくなるや、アメリカは北ベトナムの共産主義勢力が南下するのを阻止しようとしてラオスに膨大な軍事・経済援助を投入した。ベトナム戦争はラオスで始まったともいえる。戦争が始まると、北ベトナム、中国はラオスの左派を支援し、アメリカ、南ベトナムは右派に肩入れし、ラオスは代理戦争の場とされた。ラオスは中立政策によって国の独立と平和を必死に守ろうとしたが、冷戦のなかで国を徹底的に揺さぶられた。冷戦構造に組み入れられた以上、その構造が破綻(はたん)しない限り「独立ラオス」は戻らない。1975年4月、アメリカはベトナム戦争に敗れ、ベトナムから引き揚げた。パテト・ラオは息を吹き返し、民衆の支持を得て全土を解放した。
1975年12月1、2日の両日、ビエンチャンで全国人民代表大会が開かれ、ラオス人民民主共和国の樹立が宣言された。国家首席(大統領)にはスファヌボン、首相にはカイソン・ボムビハンが選任された。これに伴って国王シサヴァン・バッタナ(前国王シサバン・ウォンの子息)は退位し、622年にわたる王制は廃止された。前国王バッタナは大統領の最高顧問に、前首相プーマは政府顧問にそれぞれ就任した。王朝と仏教の国は一転して社会主義の国となった。
[丸山静雄]
共和制の下、1989年3月、社会主義体制後初めての直接選挙による最高人民議会選挙が実施され、1991年8月の議会では、新憲法が制定され、最高人民会議に代わって、国民議会が成立した。元首は国家首席で、国民議会で出席議員の3分の2以上の賛成によって選出される。議会は一院制で、任期は5年、115議席からなる。政党は旧インドシナ共産党が母体のラオス人民革命党(LPRP)のみが憲法に規定されており、他の政治組織・機関として人民革命党を母体とするラオス国家建設戦線(LFNC)、ラオス労働組合連盟、ラオス女性連合などがある。
1991年3月、首相のカイソンが国家首席となったが、まもなく病死、ヌハク・プームサワンが国家首席に、カムタイ・シパンドンが首相にそれぞれ就任し、この2人を中心とする指導体制に移行した。1998年2月、ヌハクの辞任に伴い、カムタイが国家首席に就任し、首相にはシサワット・ケオブンパンが選任された。シサワットは2001年3月に辞任、後任の首相にブンニャン・ウォラチットが就任した。2006年6月に国家首席、首相ほか主要閣僚の交代が行われ、国家首席にはチュンマリー・サイニャソーン(ラオス人民革命党書記長)、首相にはブアソーン・ブッパーヴァンが就いている。
地方自治は全国を16州と1自治市(ビエンチャン)に分け、その下に町、郡、村がある。司法制度は最高裁判所を頂点に州、自治市、区に人民裁判所がある。
1955年、国連加盟、1997年にはASEAN(アセアン)(東南アジア諸国連合)への加盟が実現した。これによって、外交は活気づき、ベトナムはもちろん、カンボジア、インド、タイ、中国などとの関係を深めている。兵力は徴兵制で陸軍2万5600人、海軍600人、空軍3500人、地方防衛用の民兵、自衛隊は10万人といわれる。
[丸山静雄]
耕地面積は国土の8.3%にすぎず、メコン川流域の低地帯で水稲、高地帯で焼畑農業が営まれる。フランスの植民地時代は放置され、その後は内戦と政情不安でほとんど開発は行われなかった。1975年以降、社会主義経済計画の下で農業の集団化などが図られた。初期は天候不順などで生産が思うに任せなかったが、1984年に米の生産が132万トンに達し、初めて食糧を自給できるようになった。米以外の自給作物にはトウモロコシ、イモ類があり、商品作物としてコーヒー、葉タバコ、綿花などがある。
政府は1986年11月から「新思考」(チンタナカーン・マイ)政策を導入した。これは経済開放を意味し、国営企業の独立採算制、民営企業の復活、不採算企業の清算、為替(かわせ)レートの統一など、市場経済化への積極的な取り組みが始められた。1988年には外国投資法が制定され、外国からの投資、経済援助にも道が開かれた。
当時、工業は木材加工業と水力発電だけであった。ナム・グム川に建設された水力発電所は出力17万キロワットあったが、電力の大部分はタイに輸出され、最大の外貨獲得源となっていた。貿易規模は小さく、恒常的輸入超過であった。1994年の輸出は3億4800万ドル、輸入は5億8700万ドル。輸出品は電力、木材、コーヒー、輸入品は石油製品、機械、食糧などで、工業製品の大半は輸入に頼っていた。2007年(2006年10月~2007年9月)の輸出額は9億2560万ドル、輸入額は9億1640万ドルで、920万ドルの輸出超過となっている。おもな輸出品目は金・鉱物(59%)、工業・手工芸品(15.5%)、農産品(8.1%)、木材製品(7.9%)、輸入品目は燃料(25.7%)、工業製品(16%)、衣料用などの原料(11.5%)、自動車部品(4.9%)となっている。おもな貿易相手国は輸出においてはタイ(30.7%)、ベトナム(12.1%)、オーストラリア(9.3%)、シンガポール(9.1%)、台湾(8%)、韓国(7.7%)で、輸入ではタイ(61.6%)、ベトナム(15.9%)、中国(9.1%)、日本(4.2%)、以下ドイツ、フランスなどである。国内総生産(GDP)は39億8400万ドル、一人当りGDPは678ドルで、経済成長率は8%に達している。
2009年3月にタイのノン・カイとタナレーンを結ぶ鉄道が開通したが、国内を網羅する鉄道はない。また内陸国のため海港もなく、メコン川の水運がもっとも有効な交通手段である。国営のラオス航空がビエンチャンを起点に飛び、またビエンチャンからは国際航路が開かれている。
[丸山静雄]
ラオスは多民族国家である。それは主として土地の高度による民族の住み分けによって成り立っていたようである。住み分けは3層からなる。第一層はメコン川河畔の低地帯(平野部)で、ここにはラオスの主要民族であるラオ(60%)が住む。ラオは華南から南下してきたタイ系種族の一つで、ラオ・ルム(ルムは低地の意味)ともよばれる。このほか、タイ系種族にはタイ・デン(赤タイ)、タイ・ダム(黒タイ)、タイ・カオ(白タイ)、ルー、フー・アンなどがある。ラオ・ルムは一般に水稲耕作を営む。大きな都市は平野部に発達し、中国人(華僑)、ベトナム人(越僑(えっきょう))はおもにそこで商業活動に従事する。ラオの大多数は仏教徒(上座部仏教)で、仏教信仰が厚い。若者は少なくとも3か月、僧侶(そうりょ)の修業を積むことが期待される。また精霊崇拝も存在する。
第二層は平野部よりやや高く、1000メートル前後の山腹部である。ラオスに分布する種族の総数は約50で、ラオ以外は少数民族とされ、いずれも第二層、第三層に住む。第二層に住む種族はラオ・トゥン(トゥンThongは山地の意味)とよばれる。山地民族である。彼らはインドネシア系の種族で、カー、タ・オイ、ラーベ、ラーベン、ナ・フン、ゲー、タ・リエン、アラク、カタン、タ・リエウ、カムー、フー、ノイ、コー、ビット、カー・セン、クイなどに分かれる。クメール系のセダンも山腹部に居住地を定める。カーはベトナムではモイとよばれ、モイは裸、カーは奴隷を意味する蔑称だが現在は用いられず、トゥン(山地民族)とよばれる。平野部からラオ・ルムに追い出され、山地斜面に定着したのである。彼らは斜面に杭上(こうじょう)家屋を建て、陸稲耕作を営む。一般に多神教である。おそらくラオ・トゥンはかつてラオスの支配民族だったのであろう。ジャール平原に残る大小さまざまの、無数ともいえる石の壼(つぼ)(ジャール平原の名はこの壼に由来する)は葬祭儀礼に使われたものであろうが、一種の巨石文化の跡であると考えられる。その規模は大きく、製作技術は高度である。ラオ・トゥンはラオスのほとんど全域に分布している。ラオ・トゥンは文字をもたないが、フランス支配に対してしばしば反乱した。ジャール平原は涼しく、花の咲く美しい台地であったが、その中心地シエン・クアンには堅牢(けんろう)な監獄があった。フランスの植民地時代、「最重罪」の政治犯はプロコンドール島(コンソン島)に流され、次の「重罪犯」がここに収容された。
第三層は1500メートル以上の山頂部で、ラオ・スン(スンは高原の意味)とよばれる高地民族が住む。ミャオ(苗)、ヤオ(傜)、ロロ(羅羅)、モン、マン、ホー、ムースー、ラン・テンなどである。彼らは焼畑耕作により陸稲、トウモロコシ、ケシを栽培し、数年で移動する。精霊崇拝である。ミャオ、ヤオは葬祭儀礼にはいまなお漢字を用いており、中国、朝鮮、日本、台湾、ベトナムとともにいちおう、漢字文化圏に入るといえるだろう。
近年、人口の増加や政情不安(内戦)、経済社会の変容によってこうした住み分けは乱れてきたが、部族社会の伝統はかたく守られ、依然として主要民族の社会とは一線を画して別個の社会を営んでいる部族も多い。
教育制度は小学校5年間、中学校3年間、高校3年間となっている。小学校の5年間が義務教育である。高等教育機関は大学5年間(医科大学は6年間)のほかに技術学校、専門学校がある。大学はビエンチャンにラオス唯一の総合大学であるラオス国立大学がある。新聞は人民革命党機関紙『パサーソン』などがあるが、発行部数は少ない。国営ラジオ9局とテレビ2局がある。
[丸山静雄]
太平洋戦争期、日本軍は南方軍の展開を援護するためチエポン(サバナケットとベトナムのクアンチを結ぶ9号道路沿いの要衝(ようしょう))に飛行場を建設し、一個中隊の兵力を置いていた。終戦間近、日本は軍をラオスに入れて、フランス軍を武装解除し、ルアンプラバン王国に独立を「許容」した。戦後は、1951年国交を樹立、ラオス政府は1957年、対日賠償請求権を放棄した。それを受けて日本政府は2年間に10億円にのぼる無償援助を供与することを約束、それによってビエンチャンの上水道、同発電所、ナム・グム川、バンナムカジン川の架橋、ナム・グムダム(水力発電所)などの建設が行われた。
1950年代末から1960年代末にかけて、アジアの冷戦(米中対決)に巻き込まれ、ラオスが右派サナニコン政権と左派パテト・ラオとの対立で激しく揺れたとき、国連は調査団を送って現地調査を行った。調査団の団長には駐タイ大使・兼駐ラオス大使の渋沢信一が任じられた。調査団は1959年8月から調査に入り、「北ベトナム正規軍が国境を越えたことは明らかにしえなかった」とし、国内の「敵対行動はゲリラ的なものである」との報告書を国連に提出した。これは紛争の国際化をある程度防ぐ効果はあった。
その後、日本版「平和部隊」といわれる青年海外協力隊(1965年発足)がいち早くラオスに派遣され、農業、漁業、鉱工業、交通・通信、土木・建設、保健・衛生、教育・スポーツの各分野で技術指導にあたった。ラオスのタドアとタイのノン・カイを結んで初めてメコン川に架(か)けられた「ラオス・タイ友好橋」の架橋工事では、日本は開発調査(フィジビリティ・スタディ)を担当して協力した。架橋工事はオーストラリアの無償資金協力で実施され、工事着工は1991年10月、完成は1993年12月、開通は1994年4月であった。その他ODA(政府開発援助)による無償・有償資金協力、海外協力事業団による技術協力など多岐にわたってラオスの経済開発に協力している。日本のラオスに対する援助額(ODA)は年間(2005年10月~2006年9月)6218万ドルで、各国総計の約28%を占め、ラオス最大の援助国となっている。
[丸山静雄]
『丸山静雄著『東南アジア』(1962・みすず書房)』▽『ジョルジュ・セデス著、辛島昇・内田晶子・桜井由躬雄訳『インドシナ文明史』(1969・みすず書房)』▽『プーミ・ボンビチット著、藤田和子訳『人民のラオス』(1970・新日本出版社)』▽『天川直子・山田紀彦編『ラオス 一党支配体制下の市場経済化』(2005・アジア経済研究所)』▽『石田正美編『メコン地域開発』(2005・アジア経済研究所)』▽『天川直子編『後発ASEAN諸国の工業化』(2006・アジア経済研究所)』▽『石田正美・工藤年博編『大メコン圏経済協力』(2007・アジア経済研究所)』
基本情報
正式名称=ラオス人民民主共和国Lao People's Democratic Republic
面積=23万6800km2
人口(2010)=631万人
首都=ビエンチャンVientiane(日本との時差=-2時間)
主要言語=ラオ語,フランス語
通貨=キップKip
東南アジア,インドシナ半島北部にある内陸国。1975年王国から人民民主共和国になった。
山岳,高原とメコン川が自然地勢の特徴である。チベット高原から張り出したアンナン(チュオンソン)山脈が東隣のベトナムとの国境線をつくり,雲南から流れてくるメコン川は,国内を北から南へ約1500kmの距離を縦断し,北西部ではミャンマーとの,中部から南部ではタイとの国境線となっている。東のアンナン山脈に隣接する形で,チャンニン(別名ジャール平原),ボロベンなどの高原が屋根のようにつながっている。メコン川は上流の山岳・高原地帯では谷あいに狭い河谷平野をつくり,中流域では山間盆地や扇状地,平野をつくり出している。山岳・高原地帯と平野・盆地部は,山奥深くまで網目状に延びた無数の中小河川で結ばれ,雨季になると黄褐色の河流が山の斜面をメコン河谷に向かって流れる。
国土は地勢上から北部,中部,南部の3地域に区分できる。北部はポンサリからサムヌアにかけて山塊地帯が続き,中央部に標高1000m前後のジャール平原が位置し,各地方は孤立して横の連絡が困難である。平地部としては,ルアンプラバン盆地とビエンチャン平野がある。中部ではアンナン山脈からメコン河谷へかけて標高約800mの低い高原が続き,メコン川とセーバーンファイ川がマハーサーイ平野を,メコン川とセーバーンヒエン川がケンコク平野をつくり出し,穀倉地帯となっている。南部は標高700~1000mのボロベン高原に代表される紅土(ラテライト)地帯である。メコン川は中小河川との合流地点に河谷平野をつくり出し,なかでもチャンパサック平野は肥沃な米作地域である。
気候をみると,国土が南北約1000kmと細長く,地域により自然条件も異なるが,熱帯モンスーン気候に属し,雨季が6~10月,乾季が11~5月で,年降水量は約2000mmになる。気温は高原と平地部で違うが,例えばビエンチャンでは1月ころに最低気温が10℃くらいに下がる一方で,雨季直前には最高気温が40℃近くまで上昇する。
国土の大部分が山岳・高原地帯であるために国内各地の往来が困難で,地域割拠性が助長されてきた。主要民族はラオ族で総人口の6割強を占め,メコン川流域の平地部に住み,水稲耕作に従事する。タイ系のラオ族の故地は中国の南部といわれ,メコン川や中小河川に沿って南下してきた。山岳・高原地帯には多くの少数民族が割拠し,その数は100ともいわれ,まさに民族のるつぼである。ミヤオ族やヤオ族(両族はラオ・スン族とも総称する),タイ系諸族のヌン族,赤タイ族,黒タイ族などは,標高1000~1500mの地帯にモザイク状に居住している。中部から南部にかけての山腹やボロベン高原にはインドネシア系のカー族(ラオ・トゥン族)などが住んでいる。これらの少数民族は独自の文化と言語(多くは文字なし)をもち,自律的な小集落をつくり,焼畑によって雑穀や陸稲を耕作し,狩猟・採集などをあわせた自給的な生活を営んでいる。しかし,耕地が高原や山腹のためやせた土壌で,生産高も限定され,扶養人口も限られる。ほかに少数民族としては,都市部に華僑(中国人)が約10万人住み,ベトナム人が約3万人いる。両者ともフランス植民地時代に移り住んで来た人たちで,王制から人民共和制に変わった1975年以前の段階で商業・流通機構,金融業などを握っていたが,新政権下ではその役割が減じている。
ラオ族の村落は中小河川の縁辺部や合流地点に位置し,川に関した地名を冠称する場合が多い。河川流域ではヤシやビンロウの林に囲まれた50戸から70戸くらいの集落が点在するが,人口密度が高いのはチャンパサック平野である。山腹地帯では20戸ぐらいの小集落が小川のそばにあり,流水を利用した脱穀用の水車もある。主として傾斜地に田畑をひらき,平地に水田をつくっている。田植えは6月で,11月から12月にかけて収穫をする。茎の上の方,稲穂を刈り取る高刈りである。米はもち米がほとんどで,畑作地ではトウモロコシ,タバコ,綿花などを栽培している。家屋は竹,木,ニッパヤシなどでつくられた杭上住居である。農作業の後で,水牛や家畜を宅地内に追い込み,アブナーム(水浴)で1日の汗を流す。
村には必ず寺院や精霊信仰(プー・ター神など)の小祠があって,僧侶や小祠の霊媒たちは,村人の個人的な悩みごとから農耕儀礼までを受け持ち,一つの生活規範を与えている。村落は宗教行事や農作業などが共同で行われる自律的な社会であり,村人にとっては村が小宇宙,世界そのものである。上座部仏教(小乗仏教)が1947年憲法では国教に定められ,ラオ族のほとんどが敬虔な仏教徒である。寺院総数約2000,僧侶が約1万3000人で,僧侶による寺子屋教育は初等教育の一助となっていた。
現在のラオスの地に南下してきたラオ族は,《ランサン年代記》によれば,最初の統一国家を1353年に現在のルアンプラバンに建国した。この国はランサン王国(ランサンとは〈百万頭の象〉の意)といい,その領域はメコン川中流域から東北タイのコーラート高原までを占め,チエンマイなどを服属させた。16世紀半ばのセーターティラート王のとき,ビルマ(ミャンマー)の侵攻で首都をビエンチャンに移した。1637年に英傑スリニャウォンサー王が登位して富国強兵策をとった。41年にオランダ商人が交易のため渡来し,ラオスは初めて西欧世界に紹介された。18世紀初めに王位継承をめぐって内訌があり,ランサン王国はルアンプラバン,ビエンチャン,チャンパサックの3王国に分裂した。国土が山岳・高原地帯という往来の困難さから地域割拠性が助長され,3王国の対立・抗争が続いた。これら弱小の3王国は,強力な隣国ビルマ,シャム(タイ),ベトナムのかっこうの餌食となり,国土が蚕食された。18世紀後半シャムは3王国を属国とし,一部を併合した。19世紀に入るとベトナムのグエン(阮)朝が北部ラオスのシエンクアン地方を自国領に編入した。
19世紀後半になるとフランスは,ベトナム,カンボジアでの安定した植民地支配を継続するために,戦略的な位置を占めるラオスに触手を伸ばし始めた。グエン朝の北部ラオスへの宗主権を口実に,フランスは1886年フランス領事のラオス駐在をシャムに認めさせ,パビが副領事としてルアンプラバンへ赴任した。93年フランスはシャムに圧力をかけるため,シャムの都バンコクに軍艦を急派して武力で威嚇し,フランス・シャム条約を結んだ。この条約で,シャムはラオスに対するフランスの保護権を承認した。99年にフランスはラオスをフランス領インドシナに編入した。フランス植民地下では各民族が互いに敵愾(てきがい)心や憎悪をもつように仕向けられ,民族分断の統治が行われた。過酷な税金や賦役が住民に強制されると,自然発生的に反仏蜂起が起こった。南部のボロベン高原で1901年から36年まで続いたカー族の反乱や,19年から2年間続いたミヤオ族の蜂起などがそれであった。教育面では愚民政策が採られ,人材養成が欠落し,植民地経営に奉仕する経済体制がつくられた。
1945年4月に日本軍の後押しでルアンプラバン王シー・サワン・ウォンSi Savang Vongがラオスの独立を発表したが,日本の敗戦後すぐにフランスは降下部隊を使ってこの反仏の芽をつんだ。これに対して,日本の敗戦直後に結成されたラオ・イッサラ(〈自由ラオス〉の意)は,45年10月ビエンチャンにラオス臨時政府を樹立した。この政府はフランス軍に押されて46年4月にタイへ移り,亡命政府となったが,閣僚の中にはのちに活躍するプーマやスパヌウォンがいた。一方,フランス側についたシー・サワン・ウォン王のルアンプラバン王国は,46年8月にフランスと協定を結んだ。この協定は,ルアンプラバン王がラオスを代表することとし,ラオスに内政の自治を与えた。こうして成立したラオス王国は47年に憲法を制定し,49年7月フランス連合内での協同国として独立した。しかし協同国にはいろいろな制限がつけられ,完全な主権国家ではなかった。タイにあったラオ・イッサラ亡命政府はこの独立によって解散を発表したが,王国政府の懐柔に妥協しなかった左派はスパヌウォンを中心に50年8月,ネオ・ラオ・イッサラ(自由ラオス戦線。1956年にはラオス愛国戦線と改称。この戦闘部隊をパテト・ラオと呼ぶ)を結成し,臨時抗戦政府をサムヌア省に樹立した。54年ベトナムにおけるディエンビエンフーの勝利を可能にしたのは,パテト・ラオ勢力がラオス北部のポンサリ省とサムヌア省を解放区としていたことが大きかった。1953年10月に王国政府はフランスとの間で〈友好連合条約〉を結び,これによってラオスは完全独立を達成した。
54年のジュネーブ会議でまとめられたジュネーブ協定のなかのラオス条項は,休戦,外国軍の撤退,休戦監視委員会の設置,国内統一のための総選挙,パテト・ラオの北部2省への集結などを定めた。しかしアメリカは,東南アジア条約機構(SEATO)を発足させ,王国政府へ軍事援助を始めた。56年3月に成立したプーマ内閣は,ジュネーブ協定で定められた連合政府の樹立などについてパテト・ラオのスパヌウォンとの交渉を開始した。右派勢力の反発から国内は混乱し,政治空転があったが,57年11月に両勢力の合意による第1次連合政府が成立した。ジュネーブ協定後,実に3年5ヵ月の歳月がかかった。危機感を深めた右派は,58年8月にプイ・サナニコーン内閣を成立させ,親米政策とパテト・ラオ閣僚の逮捕,投獄などを強行したため,内戦が再び始まった。この内戦には東西両陣営の対立が影を落とし,東南アジア条約機構の圧力やベトナム統一問題がからみ,代理戦争的様相を呈した。60年8月にコン・レ大尉のクーデタが起こり,平和・厳正中立を掲げたプーマ内閣が成立した。これに対して同年12月,右派のノーサワン将軍の軍隊がコン・レ軍を破ってプーマ内閣を倒し,右派内閣を成立させた。コン・レ軍とプーマ中立派はジャール平原に逃れて本拠をかまえ,パテト・ラオ勢力は北部2省を拠点とした。
国内は混乱を重ねたが,61年から62年にかけての3派間の停戦調印,ジュネーブでのラオスに関する14ヵ国会議,ジャール平原会談を経て,62年6月第2次連合政府が誕生し,翌7月にはラオスの中立を定めたジュネーブ協定が国際的に承認された。しかし,3派の対立と不信は増幅するばかりで,第2次連合政府も63年4月わずか10ヵ月間で事実上崩壊した。64年には右派と中立派の統合,アメリカ軍の偵察飛行と解放区への爆撃開始,右派のクーデタ失敗,65年にはパテト・ラオと中立左派の政治協商会議,66年にはコン・レ将軍の失脚など,混乱が続くなかで,右傾化したプーマ政権とパテト・ラオ勢力とが国内を二分し,一進一退の攻防戦が展開された。ベトナム戦争の激化とカンボジアの内戦の拡大の中で,パリにおけるベトナム和平会談(1968年5月から)の進展とともに,ラオスでも72年10月から和平会談がビエンチャンで開始された。その結果,74年4月に第3次連合政府が難産のすえ誕生した。この和平協定の特色は,ビエンチャン,ルアンプラバン両市の中立化,両派による合同軍,警察の発足,両市周辺からの武装勢力の撤退,大使館内の偽装軍事要員の排除などであり,プーマ政府が形式上第2次連合政府を継承していることから,第3次連合政府は内閣改造の形をとったが,実質的には新政府とした点であった。この協定ではパテト・ラオの主張が大幅に取り入れられ,この新政府が1年8ヵ月後に新発足するラオス人民民主共和国への一里塚となるのであった。
パテト・ラオは75年には事実上全土を制圧する勢いであった。さらに同年4月のプノンペン,サイゴンの陥落は,奪権闘争中のパテト・ラオを勇気づけた。王国政府の高官や軍人などはメコン川を渡り,タイへ脱出した。同年12月,新生ラオス人民共和国が成立し,大統領にスパヌウォン,首相にカイソンが就任した。退位したワッタナ王とその関係者がしばらくして逮捕・拘禁され,国内外を震撼させた。人々の動揺は隠しきれなかった。この新体制を推進したのはラオス人民革命党であり,同党はインドシナ共産党のラオス委員会から作られた。新国旗には上下両端が赤(人民)地,中央が青(国土)地で,白い丸(清潔)が中心にある,愛国戦線が以前から愛用していた旗を採用した。新政府は治安の確保と社会主義経済建設を掲げ,援助物資を西側諸国に代わってソ連,東欧諸国,ベトナムに要請し,カイソン首相は援助取りつけの経済外交の日程をこなした。外交面ではベトナムとの結びつきを強めた。86年にスパヌウォン大統領は病気のためその職をウォンウィチト(代行)に譲った。92年からはヌハク・プームサバンが大統領を務めている。88年に地方議会の選挙を実施し,89年には最高人民評議会(国会)の選挙を解放後はじめて行った。86年の人民革命党第4回大会からラオス版ペレストロイカが始まった。この改革は〈チンタナカーン・マイ(新しい理念)〉もしくは〈ラボップ・マイ(新制度)〉と呼ばれ,国家の建て直しというスローガンが打ち出された。ソ連,東欧の政治変動と援助の大削減はラオスに大きな打撃を与えた。その結果,89年は日本,フランス,タイに援助を求めるという大転換の年になった。
1947年憲法によって立憲君主制となり,53年の完全独立後も同様の体制を継承してきたが,75年12月のワッタナ国王の退位宣言により王制に終止符を打ち,人民共和制へ移行した。行政制度では閣僚評議会の議長が首相にあたる。地方行政単位としては16省,1自治市(ビエンチャン),県,郡,村があり,ほかにサイソムブーン特別区がある。省以下それぞれに人民評議会が設置されている。かつて5万人ほどが駐留したベトナム軍は88年に完全撤退したという。
共和国成立後は憲法がなく,最高人民評議会が国会に代わる立法機関として機能していたが,89年の同評議会選挙で選ばれた議員によって91年に新憲法が制定された。94年には経済開放と市場経済に向けての法整備を進め,97年7月,東南アジア諸国連合(ASEAN)に正式加盟した。91年に就任したカムタイ首相は人民革命党の議長でもあり,党の組織強化,汚職摘発につとめ,対ベトナム関係の強化,タイとの実務関係の進展に成果をあげた。
ラオスは国土の大部分が山岳地帯で,平野はメコン川沿いに河谷平野が開けているにすぎない。これまで交通網の未発達と人口密度の希薄なことなどが経済の障害になってきた。第1の問題点は,30年間続いた内戦のために経済建設が遅滞したことである。第2の問題点は,1975年以前には国家予算の約50%を外国援助と中央銀行(ラオス国立銀行)からの借入れで補うという異常な経済体制下にあったことである。第3の問題点は,1975年以前は財政・経済を実質的に支えてきたのが西側諸国からの援助であったことである。75年以降はこうした援助をソ連,東欧諸国が代行してきたが,これも89年以降はほとんどなくなってしまった。第4の問題点としては,資本と技術の不足,農業開発の不徹底などがあり,これらが経済的自立をはばんでいる。
ラオス経済の基盤は農業で,国民の約80%が農民であるが,耕地面積は国土の約8%とわずかである。主要農産物は米で,生産高は1972年に50万t,82年に110万t,88年は干ばつの被害もあって100万tとみられ,89年は良好で140万t,92年は150万tであった。粗放的な農業であるために生産性がきわめて低い。米作地帯はビエンチャン,ルアンプラバン,チャンパサックなどであるが,中部と北部は毎年米不足でタイから輸入し,南部では余剰米が出ている。こうした国内の経済矛盾を克服しようとしても,輸送手段が不十分である。ほかの農作物では,換金作物としてトウモロコシ,ボロベン高原のコーヒー,タバコ,綿花,木材などが挙げられる。輸出品としてはスズ,木材,コーヒーなどがあるが,近年はビエンチャン北方のナムグム・ダムを主にした水力発電による電気のタイへの送電が重要な外貨獲得源になっている。95年の輸出は3億5000万ドル,輸入が5億3000万ドルであり,大幅な赤字が続いている。経済改革を推進するためにタイとの経済交流が活発になっている。89年からソ連,東欧の援助が大幅に削減され,これに代わる援助を求めて,日本,フランス,タイをカイソン首相が訪問した。さらに中国,アメリカとも経済外交を進め,成果をあげている。その中で電力生産が堅調に伸び,工業生産を引張っている。国営企業の民営化が進み,90年に約600あった国営企業が,93年には6社のみとなった。92年にASEAN加盟の意思表明を行い,97年に加盟を認められた。地域内協力も活発となり,94年にはメコン川をまたぐラオス・タイ友好橋が開通した。93年ごろからGDP(国内総生産)の成長率が高くなりつつあり,96年は7.5%であった。人民革命党の指導者は〈貧困と後進性がラオス社会に広がった二つの恒常的な害毒である〉と指摘したが,ラオス国民は地道な経済建設と教育の普及により,これらの害毒を克服しつつある。
執筆者:石沢 良昭
この国の古い歴史や文化は不明のため,古い時代の美術作品はタイやカンボジア(クメール)の美術との比較によって論じられる。タイ美術史上のドバーラバティ期(7~11世紀)様式を思わせる石仏や,クメール美術に属するロッブリー期(11~13世紀)様式の石彫が残っているが,それらがいつごろのものかは正確にはわかっていない。ただロッブリー期のクメール族の遺跡として,ワット・プーの石造の寺院建築が重要視される。これはラオス南部にあるが,かつてクメール族の支配があった頃のヒンドゥー教の遺構である。
この国の主要民族であるタイ系のラオ族が,自らの国を初めて形成したのは14世紀半ばのランサン王国で,首都は初めルアンプラバンにあり,16世紀中ごろにビエンチャンに移った。ラオスの美術はこの二つの都を中心に繁栄したが,その全体的な性格は,タイ美術からの影響を濃厚に受けていることである。タイ美術と同様に上座部仏教美術で,そのため仏像は釈尊像のみがつくられた。ルアンプラバンとそれより以北ではタイ北部のチエンセーン王国の美術様式(後期)から,またビエンチャンではタイ中部のアユタヤ朝の美術からそれぞれ多大の恩恵を受けた。建築はタイ建築と同様に仏教寺院が注目され,その全体的な仏堂の形はタイ建築とほぼ同じであるが,左右に大きく流れる急傾斜の二段屋根の線の美しさに魅力がある。その他,寺院の入口の扉や壁面に施された浮彫装飾にすばらしい作品がある。これらの建築や美術品はおもにルアンプラバンに見いだされる。またラオス独自の形をもった建築として,ビエンチャンにあるタート・ルアン寺院の仏塔が注目される。これは1566年の建立であるが,後世に何度も修復がなされている。
執筆者:伊東 照司
民族的にも音楽的にも隣接するタイと密接な関係をもつ。タイでは,カンボジアをはじめとする外来の音楽文化を巧みに摂取し,自国のものとしてきたのに対し,ラオスは,地理的にも,周辺の国々に比べ閉鎖的であり,タイのような華やかさをもっていない。タイ国境に近いビエンチャンの音楽は,タイとの交流を反映し,タイ風に洗練されたものであるのに対し,北のルアンプラバンの音楽は保守的で,古い形を残している。また,山岳地帯に住む少数民族(ラオ・トゥン,ラオ・スンなど)も,それぞれ独自のものをもっている。
音楽は芸能や踊り,宗教儀式と結びついて行われることが多く,通過儀礼,年間行事など,民衆の生活に欠かせない。器楽合奏としては,古典芸能や儀式に用いられる,大楽団のセープ・ニャイsep gnai(タイのピー・パート編成に相当)と,代表的な民俗楽器ケーン(14管の笙)を含む小楽団のセープ・ノーイsep noi(タイにならってマホーリーとも呼ばれる)がある。一般に器楽よりも声楽の方が好まれており,セープ・ノーイ(とくにケーン)は日常的な歌や踊りの伴奏に用いられる,よりポピュラーな合奏である。声楽には,長い叙事詩を即興を交えて朗唱するものと,言葉の意味に重きを置き,音調を生かしたリズミカルなものとがある。近年は,フランス支配の影響もあり,アコーディオンやバイオリンなどの西洋楽器もセープ・ノーイに含まれることがある。
執筆者:桜井 笙子
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インドシナ半島中・北部の内陸国。人口の約半数を占めるラオ人をはじめ,数十の民族が居住する多民族国家。ラオ人による国家建設の歴史は14世紀のランサン王国に始まる。18世紀に3分裂したランサン王国の後継王朝はシャムの支配を受けたが,1893年のシャム‐フランス条約によりメコン川以東がフランス領ラオスとなり,99年にフランス領インドシナ連邦を構成する一国とされた。ラオスという領域の呼称はフランス領植民地支配に由来する。1953年,唯一残った王朝ルアンパバーンが代表するラオス王国がフランスからの独立を果たした。57年に親仏王国政府に反対したパテト・ラオ勢力を含む連合政府が成立したが長続きせず,米ソの介入を招いた。62年の三派連合政府も瓦解し,内戦が長期化。ベトナム戦争の激化に伴いパテト・ラオと北ベトナムの関係が緊密となり,75年のベトナム解放後攻勢に出たラオス人民革命党により,同年12月に王制が廃止され,ラオス人民民主共和国が成立した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
インドシナ半島メコン川中流域の内陸国。漢字表記は老檛。ほとんどが高原・山岳地域で,14世紀頃から仏教王国を形成,ビルマ,タイ,ベトナムに従属したこともあった。1886年フランス領インドシナに編入された。1940年(昭和15)日本軍が北部仏印に進駐し,45年3月名目的な独立を認められたが,日本の敗戦によりフランスが復帰し独立を否定。54年にはフランスも王国の独立を認めたが,王制支持の右派とラオス愛国戦線(パテト・ラオ)の左派が対立。75年にラオス愛国戦線が全土を掌握して共和国が成立してからも混乱が続いた。この間日本は,ラオスが対日賠償請求権を57年に放棄したのに対応して技術協力,10億円相当の無償援助を提供し,各種建設工事を行い,内戦中も経済援助を拡大した。正式国名はラオス人民民主共和国。首都ビエンチャン。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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