パテト・ラオ
Pathet Lao
〈ラオス国〉の意であるが,ラオス独立戦争におけるネオ・ラオ・イッサラ(自由ラオス戦線)の戦闘部隊をいう。フランス領インドシナ連邦下にあったラオスでは1945年,フランスからの独立を要求するラオ・イッサラ(自由ラオス)が臨時政府を樹立し,同政府は翌年タイのバンコクに亡命した。49年フランス連合内での協同国として独立が認められると,ラオ・イッサラは分裂し,50年左派は王族のスパヌウォンを議長にネオ・ラオ・イッサラを結成し,北部ラオスのサムヌア,フォンサーリー両州を解放区として臨時抗戦政府を樹立した。その戦闘部隊を一般にパテト・ラオと呼んだ。ネオ・ラオ・イッサラは55年に各種左翼政党を統合してラオス人民党を結成し,57年に連合政府が樹立されるに際しては,前年結成のラオス愛国戦線(ネオ・ラオ・ハック・サート)を公認させ,3次にわたる民族連合政府に参加した。ラオス人民革命党と名を変えた人民党は,75年に〈静かなる革命〉を開始し,同年12月2日に王制を廃してラオス人民民主共和国を成立させた。
執筆者:吉川 利治
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パテト・ラオ
〈ラオス国〉の意で,ラオス愛国党を中心とする左派勢力。ラオス愛国戦線とも。1950年スパヌウォンが反仏抗戦政府を樹立したのに始まる。1973年パテト・ラオは,プーマ政権とラオス和平協定を結んだのち,ラオス各地に人民革命行政委員会を設置して徐々に勢力浸透を図った。1975年春のベトナム,カンボジア解放と呼応して,右派排斥運動が全国的規模に広がり,同年10月までに完全に政治の実権を握り,12月ラオス人民共和国を成立させた。
→関連項目ラオス
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パテト−ラオ
Pathet Lao
ラオスの左派勢力
反仏民族解放運動ラオ−イッサラ(自由ラオス)を発展的に解消して,1950年8月,ラオス王族の一員であるスファヌボン殿下によって結成された。1954年のジュネーヴ協定以後はラオス愛国戦線と呼ぶ。1957年のビエンチャン協定でプーマ首相の下に連合政府が成立したが,アメリカ・タイの援助で右派勢力が台頭し,内戦となる。1973年2月ビエンチャン政府との間に和平協定が成立し,これにもとづいて74年4月に民族連合政府を樹立した。1975年4月ヴェトナム戦争が左派の勝利になったのに伴い,12月に開かれた愛国戦線主導の全国人民代表大会では,王政の廃止と連合政府の解体が決定し,ラオスは人民民主共和国となった。
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パテト・ラオ
Pathet Lao
「ラオ人の国」を意味する,ラオスの革命運動勢力の呼称。1950年フランスからの独立をめざしてスパーヌウォンが結成した,自由ラオス戦線の解放区をさしたのに始まるとされる。のちにベトミンと結んだラオス革命勢力の称として一般化し,その運動はラオス人民革命党の前衛であるラオス愛国戦線へと引き継がれ,ラオス人民民主共和国樹立へと導く原動力となった。
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世界大百科事典(旧版)内のパテトラオの言及
【インドシナ戦争】より
… カンボジアでは46年1月,フランス連合内での自治が許されたが,以後シアヌークはクメール・イッサラ,クメール抵抗派(ベトミン系)を攻撃するかたわら,フランスから軍事権,外交権を次々に奪還し,54年3月までに完全独立を達成した。 ラオスでは49年7月,フランス連合内での自治が許されたが,これを不満とする[パテト・ラオ](ラオス人の国)はゲリラ戦に入ってフランス軍,ラオス王国政府軍と対抗した。54年ジュネーブ会議では,(1)ベトナム人民軍,フランス軍の撤退,(2)パテト・ラオ軍の北部2省集結,(3)総選挙による統一,が合意された。…
【ラオス】より
…1956年にはラオス愛国戦線と改称。この戦闘部隊を[パテト・ラオ]と呼ぶ)を結成し,臨時抗戦政府をサムヌア省に樹立した。54年ベトナムにおける[ディエンビエンフー]の勝利を可能にしたのは,パテト・ラオ勢力がラオス北部のポンサリ省とサムヌア省を解放区としていたことが大きかった。…
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