ラオスの王族政治家。1945年「自由ラオス(ラオ・イサラ)」の交通相に就任したが、1946年フランスのインドシナ復帰をみてタイに亡命。1949年ラオス独立で帰国、1951年首相に就任。1957年異母弟スファヌボン殿下率いる左派「ラオス愛国戦線(パテト・ラオ)」との第一次連合政府の首相として中道路線をとる。1958年親米右派の圧力を受けて辞職、駐仏大使に転出。1960年中立派のクーデターで首相に復帰したが、同年右派クーデターでふたたび失脚。1962年ジュネーブ協定に基づく左右中道三派の第二次連合政府の成立に伴い首相に就任。1964年愛国戦線と不和となったが、以後10年にわたる内戦期間中もかろうじてラオスの中立を維持した。1973年の和平協定を受けて1974年第三次連合政府が成立、またも首相に。1975年インドシナ革命情勢の高揚下に愛国戦線が実権を掌握するに及んで辞職、ラオス人民民主共和国政府顧問に退いた。
[黒柳米司]
ラオスの政治家。正しくはスワンナプーマSouvannaphouma。ルアンプラバン王家副王の王子として誕生。ベトナムのハノイで中等教育を受けたのち,1924年フランスに留学して建築学,電気学を学び,31年帰国,技官として公共事業局に勤務。45年ラオ・イッサラ(自由ラオス)政権の建設・運輸相を務め,49年フランス連合内でのラオス王国の独立後,51-54年に首相を務めた。56年に再び首相となり,パテト・ラオとの連合政府を樹立した。中立主義を主張して58年に右派の圧力で失脚したが,62年のラオス中立化で,中立派・左派・右派連合政府の首相となった。その後約10年間首相の地位にあったが,75年の革命により,ラオス人民民主共和国政府顧問の地位に退いた。
執筆者:吉川 利治
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1901~84
ラオスの政治家。ルアンパバーン王族の生まれで,ベトナムとフランスで教育を受ける。1945年独立運動に参加。中立主義を掲げ,王国政府および連合政府の首相(在任1951~54,56~58,62~75)。ラオス人民民主共和国成立後は政府顧問。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…これに対して,日本の敗戦直後に結成されたラオ・イッサラ(〈自由ラオス〉の意)は,45年10月ビエンチャンにラオス臨時政府を樹立した。この政府はフランス軍に押されて46年4月にタイへ移り,亡命政府となったが,閣僚の中にはのちに活躍するプーマやスパヌウォンがいた。一方,フランス側についたシー・サワン・ウォン王のルアンプラバン王国は,46年8月にフランスと協定を結んだ。…
※「プーマ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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