スファヌボン(読み)すふぁぬぼん(その他表記)Souphanouvong

日本大百科全書(ニッポニカ) 「スファヌボン」の意味・わかりやすい解説

スファヌボン
すふぁぬぼん
Souphanouvong
(1909―1995)

ラオス王族政治家。旧ビエンチャン王家の一員で、プーマ元首相の異母弟。1931~1936年パリのエコール・ポリテクニク留学中に社会主義の洗礼を受けた。帰国後土木技師となったが、1945年日本敗戦後は反仏民族解放運動を指導、同年10月プーマ殿下らと自由ラオス臨時政府を樹立。その後対仏協調派に転じたプーマ殿下と決別、1950年8月インドシナ共産党と協力しつつ「ラオス国(パテト・ラオ)」を宣言、大統領に就任。1954年ジュネーブ協定を経て1956年に成立したプーマ政権との折衝を通じパテト・ラオの中核たる「ラオス愛国戦線」の合法化に成功、1957年計画・再建相として入閣。1960~1962年の左右中立三派間の内戦後、プーマ政権に副首相として再入閣したが、翌1963年ふたたび事実上の内戦に伴い北部ラオスを拠点に解放区建設を推進。1973年2月、ベトナム和平交渉の急進展と連動しつつプーマ政権との停戦に合意、第三次民族連合政府樹立を実現した。1975年4月ベトナム、カンボジアでの解放勢力勝利を背景に展開された反右派闘争の結果、同年12月王制を廃した「ラオス人民民主共和国」が成立。それと同時に大統領・最高人民評議会議長に就任した。実権は首相・人民革命党書記長カイソンに劣るが、国民的声望で上回るといわれた。

[黒柳米司]

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20世紀西洋人名事典 「スファヌボン」の解説

スファヌボン
Souphanouvong


1909.(1907.,1912.) -
ラオスの王族,政治家。
元・パテト・ラオ大統領,ラオス人民共和国大統領,ラオス最高人民評議会議長。
旧ビエンチャン王家の一員で、プーマ元首相の異母弟にあたる。パリのエコール・ポリテクニクに留学し、帰国後土木技師となった。’45年の日本敗戦により反仏民族解放運動を指導。同年10月にはプーマと共に自由ラオス臨時政府を樹立したが、その後プーマと決別。’50年8月にはインドシナ共産党と共に「ラオス国(パテト・ラオ)」を宣言し、大統領となる。’57年王国政府と協定し「ラオス愛国戦線」を結成し、中央委員会議長となる。’60年から’62年にかけての左右中立三派間の内戦後副首相となったが、右派との対立によりパテト・ラオの拠点に戻った。’73年プーマ政権との停戦に合意し連合政府を発足した。’75年王政を廃止し人民共和国を樹立、大統領・最高人民評議会議長に就任した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「スファヌボン」の意味・わかりやすい解説

スファヌボン
Souphanouvong

[生]1912.7.13. ルアンプラバン
[没]1995.1.9. ビエンチャン
「赤い殿下」の異名をとるラオスの革命家。ルアンプラバン王家の出身であるが,ベトナム人の妻を通じてベトナム独立運動に加担し,1945年の日本降伏直後にラオス独立を宣言した。臨時政府がフランスによって弾圧されるとベトナム北西部に移り,50年にベトミンの支援のもとにパテト・ラオ政府を樹立し,56年にはラオス愛国戦線議長となった。 62年に異母兄弟のプーマ国王率いる国民連合政府の副首相となったが,翌年同政府が瓦解するとパテト・ラオの本拠地に引下がって内戦を見守った。 73年のパリ休戦会議後ビエンチャンに戻り,75年のラオス人民民主共和国発足とともに大統領に就任。 86年の辞任以後も人民革命党の政治局にとどまった。

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