翻訳|Bangkok
タイの首都。タイ人はクルンテープKrung Thepと呼び,〈天使の都〉を意味する。人口は792万(2002)。1960年には約214万で,40年間に約4倍に増加した。タイ最大の河川メナム(チャオプラヤー)川の東岸,タイ湾に面する河口から約30km上流に位置し,穀倉地帯であるチャオプラヤー・デルタの下流部の中心を占めている。
1782年,対岸のトンブリーに王都を置いたタークシン王が処刑された後,チャオプラヤー・チャクリ(ラーマ1世王)が王位につき,ラタナコーシン朝(バンコク朝)の新王都として建設された。新都の造営は,環濠囲郭をもつ旧都アユタヤの伝統を継承して行われた。膨大な数の徭役農民,捕虜奴隷を徴発して,アユタヤの廃墟から煉瓦を船で運び,王宮や仏教大寺院が建造され,さらに環濠をなす運河が開かれた。メナム川とロープクルン運河に囲まれたバンコクの原型がこの時に形成された。広大な稲作平野の中心に浮かび,地方や外国との交易のための水路交通網の要に位置し,水路を城壁に囲まれた要塞であった。
19世紀中ごろから市域はしだいに東方に拡張し,外周のパドゥン・クルンカセーム運河とそれに沿う新しい城壁が建造された。また1855年のタイ・イギリス友好通商条約(通称ボウリング条約)を契機とする自由貿易の開始は,タイ経済を世界資本主義のシステムの中に組み入れることになった。それに伴う国民経済の構造的変動と飛躍的拡大は,バンコクの市域の膨張と都市景観の変化をもたらした。増加しつつあった華僑人口は,1850年代には全人口30万に対し20万を占め,南東にのびるサムペーン(ヤワラート)街を中心に商業地区を形成していった。69年には,さらにメナム川に沿うチャルン・クルン街(ニュー・ロードNew Road)が完成し,西ヨーロッパ各国の領事館,貿易会社などがバーン・ラク地区を中心に展開した。また北東方向にはサムセーン,ドゥシト,南東方向にはパヤータイ,サートーンなどの市街地が形成され,1900年ころには,ほぼ現在のバンコクの原型が完成した。城内には依然として国家の行政的・宗教的機能が集中する一方,新たに開けた南東の地域には華僑,西ヨーロッパ系の商業・交易中心が展開した。伝統的な都市景観と植民地的な都市景観がそこに併存したのである。
第2次世界大戦後,タイの急速な経済発展に伴って,バンコクは巨大な国際都市に変貌する。とくに1967年の東南アジア諸国連合(ASEAN(アセアン))の設立,さらにベトナム戦争後のインドシナ半島における社会主義国家の成立以後,バンコクは東南アジアの資本主義陣営の中枢となった。とりわけ1960年代以後の経済発展は,首都への急激な人口集中をもたらし,住宅問題や交通問題などの都市問題を深刻化させている。60年代後半から日系,西ヨーロッパ系の合弁企業のバンコク進出が急速に進み,近郊における工場建設,市域におけるビル・住宅建設のラッシュがみられる。市街地の南東への拡張は著しく,70年代までにペブリー・タトマイ街やスクムウィト街に沿って高級住宅地や歓楽街が伸張した。このような建設ブームと第3次産業の異常な膨張は80年代に入っても続いている。経済発展に伴う首都の雇用機会の急増は,各地の農村の過剰労働力を吸収してきた。1960年代までは,バンコクに流入する人口の多くは,不安定な自給的稲作を営む東北部のラオ系民族の農民であり,出稼労働が多かった。彼らはサムローと呼ばれる輪タクや三輪オートバイの運転手となったり,さまざまな雑業に従事した。しかし70年代以後,中部の商業的稲作の発達した農村からの流入が増加しつつあり,さまざまなサービス業務や未熟練労働に従事している。これらの農村からの膨大な流入人口は,新たな都市の労働者階層を形成しつつある。
執筆者:田辺 繁治
バンコクには多くの仏教寺院があるが,代表的なものとして七つをあげることができる。ワット・プラケオ寺Wat Phra Kaeoはタイ第一の王宮寺院で,1784年に建立された。ここの本尊仏は〈エメラルド仏〉の名で知られる碧玉製の仏像で,タイで最も尊崇されている。またこの寺院の廻廊には《ラーマキエン物語》(タイ版《ラーマーヤナ》)の場面が壁画として描かれている。ワット・ベンチャマーボーピット寺Wat Benchamabopitはイタリア製の大理石が用いられていることから〈大理石寺院〉の名で親しまれ,タイ式建築と西洋建築とが混合した美しい寺院である。ワット・ポー寺Wat Poはその境内の仏堂の中に安置された全長55mの巨大な涅槃仏(19世紀前半の作)で知られる。ワット・サケット寺Wat Sraketは〈プーカオトーン(黄金の丘)〉と呼ばれる人工の山の上に仏塔がそびえたつ寺院で,その黄金の仏塔はバンコクの灯台のような役を演じている。ワット・ボウォーニウェット寺Wat Bowon Niwetはラタナコーシン朝のラーマ3世王(在位1824-51)によって建立され,仏教大学がある。ワット・トゥリミット寺Wat Trimitには1238年作の高さ3m,重さ5.5tもある純金の仏像がある。寺の前に大きなぶらんこのあることで知られるワット・スタット寺Wat Sutatの仏堂には15世紀の大仏が安座し,壁画もすばらしい。バンコクの寺院は寺の名の始めに〈ワット〉(〈寺院〉の意)がつき,プラ・チェディーと呼ばれる黄金色の仏塔が境内の中心に配される。
執筆者:伊東 照司
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タイの首都。外国人にはバンコクとよばれてきたが、タイ人はクルンテープKrungthep(天使の都の意)という。タイ中南部、チャオプラヤー・デルタ下流部の、チャオプラヤー川が西に蛇行して弧を描く地点の左岸に位置し、対岸のトンブリーと一体となってバンコク・メトロポリスを構成する。人口635万5144(2000)。典型的な熱帯モンスーン気候に属し、年平均気温は28℃、年較差は4.8℃にすぎず、年間を通して高温である。年降水量は1492ミリメートルで、降雨は5~10月に集中する。タイの政治、経済、文化など、あらゆる活動の中心であるとともに、国際空路が集中し、国際連合諸機関が設置されるなど東南アジアの重要な中心にもなっている。
市街は新旧の2区域に大別される。旧市街はチャオプラヤー川東岸の王宮を中心として、同川の上流と下流を円弧状に結ぶ、ロート、バン・ランプー、パドン・クルン・カセムの3運河で囲まれる。旧市街には王宮のほかに、ワット・プラ・ケオ(エメラルド寺院)、ワット・ポー(涅槃(ねはん)寺)などの大寺院、官庁街、チャイナタウンなどがある。パドン・クルン・カセム運河の外側(東側)は新市街で、20世紀以後都市化した。新市街の北部はドシットからバン・スーに連なる住宅地で、旧市街に近い地域にチト・ラドゥヤ宮殿、ワット・ベンチャマ・ボピット(大理石寺院)、国会議事堂、動物園などがある。新市街の南部ではニューロードとこの通りから東に分岐するシピヤ、スリウォン、シーロム、サートンの四つの通りで形成する地域に多くの商店が集中し、ショッピング街を形成している。また、その北方はペッブリ、ラーマ1世、ラーマ4世などの幹線道路に沿う新興商業地域が展開する。ラーマ1世通りの延長であるスクムウィット通りの両側から多くの道路が分岐して新興住宅地が広がる。外国人も多くがここに居住する。
バンコクが旧市街から新市街に拡大するに伴って、交通体系は水路から陸路へ変化し、かつて「東洋のベニス」と称された景観は失われ、おびただしい自動車の排気ガスと騒音の街に変化している。また、水路の陸路化は雨水の処理を困難とし、しばしば深刻な都市洪水の被害を受ける。さらに年3%を超える人口増加によって住宅が不足し、新しい住宅は郊外へ無計画に膨張しつつあるなど、解決困難な多くの都市問題を抱えている。
[友杉 孝]
16世紀中葉まで、現在のバンコク付近はチャオプラヤー川が大きく蛇行して舟運の妨げとなっていたため、プラチャイ王(在位1534~46)のとき、短絡運河の掘削が行われた。17世紀にフランス人が作成した地図に「バンコク島」I. de Bangkocと記されているのはそのためである。ナライ王(在位1656~88)はここに砲台を築いて外敵の侵入に備えた。1767年、アユタヤはビルマ軍の攻撃によって破壊されたが、侵入軍を撃退したタークシンは、秩序の回復に際してアユタヤを再建せず、西洋人にバンコクの名で知られたトンブリーを新都に定めた。1782年、タークシン失脚の後を受けたチャクリは、首都を対岸に移し、これをクルンテープとよんだ。これが今日のタイの首都である。歴史的にみると、バンコクの人口構成はきわめて複合的で、港市のもつ国際的性格をよく示している。19世紀中葉ここに住んだフランス人宣教師によれば、首都の人口40万人強の半数が中国人、12万がタイ人、残りはラオ人、ベトナム人、カンボジア人、モン人、マレー人、ビルマ人であったという。西側を蛇行するチャオプラヤー川に囲まれたバンコクは、東方に向かって3条の運河が同心円弧状に次々に掘削され、これらをつなぐ小運河網が市内各地を連結していた。1862年ラーマ4世のとき「ニューロード」が初めての本格的道路として建設された。
[石井米雄]
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タイ国の首都。タイ名は「天人の都」の意。チャオプラヤー川の河口から約30kmの両岸に位置する。1782年,バンコク朝初代ラーマ1世が西岸のトンブリーから東岸に遷都,新王宮を建設したのに始まる。当初はビルマの脅威に備えて,城壁と濠(ほり)をめぐらした環濠囲郭(かんごういかく)都市だった。19世紀半ばのパドゥンクルンカセーム運河の開削により市域を倍加し,囲壁を持たない国際交易都市へと変貌し始めた。同じ頃,欧米人の嘆願により運河に代わる道路建設が始まった。同世紀末から官庁が並ぶ北部地区,外国人の活動が展開する南部地区の開発が進み,近代的都市景観が生まれた。20世紀を通じて,タイ国のあらゆる分野の中枢たる一極集中型の首都として拡大と発展を続け,深刻な都市問題も生み出した。
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