ソコルルメフメトパシャ(その他表記)Sokollu Mehmet Paşa

改訂新版 世界大百科事典 「ソコルルメフメトパシャ」の意味・わかりやすい解説

ソコルル・メフメト・パシャ
Sokollu Mehmet Paşa
生没年:1505-79

オスマン帝国の政治家。帝国支配下のボスニア地方の片田舎ソコロビッチ村に生まれ,少年の頃デウシルメによって宮廷に入る。スレイマン1世信任を得,門衛長官,海軍提督などをへて,1564年に大宰相サドラザム)に任ぜられた。以後13年間この職にあって,軍隊改革など国政刷新につとめ,1571年にキプロス島征服。同年オスマン帝国は,レパントの海戦に敗れたが,海軍力の回復に成功するなど,帝国の繁栄維持に努力したが,79年,政敵により暗殺された。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ソコルルメフメトパシャ」の意味・わかりやすい解説

ソコルル・メフメト・パシャ
そこるるめふめとぱしゃ
Sokull Mehmet Paşa
(1505―1579)

オスマン帝国のスレイマン1世、セリム2世、ムラト3世の治世、約14年にわたって務めた大宰相。ボスニア郊外の村に生まれ、デウシルメ(キリスト教徒男児の強制徴集)され、エディルネ宮廷で教育を受けた。門衛長官として出廷し、海軍提督、ルーメリ州の知事を歴任。テメシュバル(現ルーマニアのティミショアラ)の攻略に功があり大臣に就任した。1561年、スルタンのセリム2世の娘と結婚。64年に大宰相職につき、死亡するまで、ボルガ・ドン運河の開削計画、キプロス島・チュニジアの征服、モロッコをオスマン帝国の保護下に置くなど、行政に手腕を発揮したが、1579年暗殺された。

永田真知子]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...

黄砂の用語解説を読む