改訂新版 世界大百科事典 「デウシルメ」の意味・わかりやすい解説
デウシルメ
Devşirme
オスマン帝国政府が支配下のキリスト教徒,具体的にはアルバニア,ギリシア,ブルガリア,セルビア,ボスニア,ヘルツェゴビナ,さらにはハンガリー方面のキリスト教徒農民の男童・少年を対象として,〈カヌーヌ・デウシルメ〉と称する特定の法規に基づき,所定の手続をふんで,定期的に一定人数の徴用を行う制度。徴用目的は将来オスマン王家に専従・奉仕する宮廷使用人や,吏僚ないしイエニチェリ軍団の要員を補充するための必要措置であった。デウシルメは頻度の差こそあれ15世紀以後,約2世紀半継続実施された。やがて徐々にではあるが,アナトリア方面のキリスト教徒従属民も対象範囲に入ったようである。
徴用条件には一定の基準年限があり,概略7~8歳から10歳,ときに14~15歳,まれに17~18歳くらいまでの男童・少年が対象となった。徴用は40戸のうちから1戸の割合で,身体強健,眉目秀麗,頭脳明晰と思われる者を対象に行われた。家族構成が多数の場合は息子の一人が,二人息子の場合にはそのうちのより優れた一人が徴用された。資格基準として,背丈は高からず低からず,中肉中背の者が標準とされた。ただし,孤児,片親,既婚者,世間ずれした者,ないしユダヤ教徒の息子などは除外された。被徴用者はクズル・アパと呼ばれる赤い特定の道中衣装をまとい,先端のとがった円錐帽を着用し,まとめて首都イスタンブールに護送された。護送に要する経費と道中衣装費は,男童の所属する村落負担であり,首都までの途中滞在費は各地地元民の現物負担でまかなわれた。首都に到着すると,徴用男童はイスラムに強制改宗のうえ,それぞれの適性に応じて知的ないし身体的訓練を受けて各種の役務に使用された。たとえば,眉目秀麗・容姿端整で知的活動に適すると判断された者は,宮廷用務に服させるために選抜されて他の者から分離され,イチ・オウラーンiç oğlan(近侍童の意)と呼ばれた。イチ・オウラーンには,将来宮廷吏僚の地位が約束されていた。後に残った身体屈強な者はボスタンジ・オジャクbostancı ocağıと呼ばれる軍団に分配され,この軍団からさらにトルコ語熟達と身体鍛練のため一時身柄をトルコ人の村落農戸に売却され,必要に応じて本隊に引き取られた。この中からイエニチェリが生まれた。しかし,16世紀末ごろから17世紀にかけて,この制度の運営方式は崩れ始め,18世紀の前半〈チューリップ時代〉を去ることいくばくもない時代に完全に放棄された。
執筆者:三橋 冨治男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報