改訂新版 世界大百科事典 「チプトマングンクスモ」の意味・わかりやすい解説
チプト・マングンクスモ
Tjipto Mangunkusumo
生没年:1885-1943
インドネシアの医師で民族運動指導者。中部ジャワ北部のアンバラワで11人兄弟の長男として生まれ,弟グナワン,ダルマワン,カルトノらも民族主義者として知られる。チプトは1905年にジャワ医学校を卒業し,オランダの支配に反感をもつとともに,ジャワ貴族をも憎悪し,〈貧民の子〉をもって自任した。12年末,ダウエス・デッケル,スワルディ・スルヤニングラットとともに東インド党を結成したが,翌年筆禍事件により国外追放に処せられた。14年に帰国し,再び民族主義運動を続けた。スカルノは彼から深く影響を受け,27年に新党を結成する準備委員会をつくったときには,チプトもその委員の一人に選んだ。しかしオランダ東インド政庁は彼を共産党と関係があったとして28年から41年までバンダ島に追放した。日本軍はジャワ占領後彼の協力を要請したが,これに応ぜず,43年に病死した。現在インドネシア共和国の民族英雄の一人。
執筆者:永積 昭
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報