インドネシア(読み)いんどねしあ(英語表記)Indonesia

翻訳|Indonesia

日本大百科全書(ニッポニカ) 「インドネシア」の意味・わかりやすい解説

インドネシア
いんどねしあ
Indonesia

東南アジア南部、マレー諸島を中心とする共和国。世界最大の群島国で、ジャワ島、スマトラ島、カリマンタン(ボルネオ島)、スラウェシ島(セレベス島)などの大スンダ列島、バリ島から東方に連なる小スンダ列島、同列島東端、チモール島のほぼ西半分、モルッカ諸島など大小1万7000にも及ぶ島々とニューギニア島西半部(パプア州)からなる。領域は、南北は赤道を挟んで北緯6度から南緯11度まで延長1600キロメートル、東西は東経92度から141度まで延長4800キロメートルに及び、全領域の空間の広がりはほぼアメリカ合衆国のそれと等しい。アジア、オーストラリアの2大陸、インド洋と太平洋の2大洋を結ぶ有利な地理的位置を占めるため、政治的、戦略的意義も大きく、しかも熱帯的資源に富む地域である。インドネシアとは「島のインド」の意味であり、歴史的にその文化的母国でもあったインドとの関係を物語っている。広大な地域のため自然、民族、社会ともに複雑を極め、いわゆる「多様性」を強く示すが、同時におのずから共通な性質も存在して「統一性」も現れる。この「多様性のなかの統一性」ビネカ・トンガル・イカBinneka tunggal Ikaが建国の一つのモットーでもあり、有利な地理的条件を生かして世界政治のなかで重要な役割を演じようというのが国策となっている。面積190万4569平方キロメートル、人口2億3162万7000(2007推定)で、人口は世界第4位にあたる。首都はジャカルタ。

 国旗は横に二筋の赤と白で、これはもとヒンドゥー教の神ビシュヌの特性で勇気と純潔を象徴し、中世のマジャパヒト王国時代から用いられたといわれる。国章もヒンドゥー教の神鳥であるガルーダが翼を広げた姿を示し、その足元には「多様性のなかの統一」のモットーを記述してある。国歌は「インドネシア・ラヤ」(大インドネシア)でスプラトマンの作詩・作曲。1928年の民族青年の集会で初めて歌われた。平和と民族統一の願いが込められている。

[別技篤彦・賀陽美智子]

自然

地形

インドネシアは地形的にも世界でもっとも複雑な構造を示す地域の一つである。それぞれアジア、オーストラリア両大陸の延長部にあたる浅いスンダ棚(ほう)、サフール棚の両海棚(かいほう)の間に挟まれているが、北西からはヒマラヤ山系の延長であるテチス構造線が延び、スマトラ島、ジャワ島をはじめ小スンダ列島の島々を形成し、同時に激しい火山活動を伴う。また東部ではフィリピンからニューギニア島方面を貫く環太平洋構造線が通って、モルッカ諸島、スラウェシ島北部などに火山活動を引き起こす。インドネシアの火山数は130に及び、活火山は78もあり、そのなかにはスマトラのクリンチ火山、ジャワのメラピ火山、ブロモ火山、スメル火山、バリのアグン火山などの火山が知られる。またスンダ海峡のクラカタウ火山、スンバワ島のタンボラ火山のように、かつて世界的規模の爆発をおこしたものもある。1815年のタンボラ火山の噴火は1883年のクラカタウ火山のそれをしのぎ、有史以来最大規模の爆発の一つとされる。こうした状態のため地盤も大部分は不安定で、地震も頻発し、海底地形も複雑で、諸所に深い海溝を含む。しかし一方では、これら火山は肥沃(ひよく)な土壌を生むもととなって、人間の生活に有利な条件を与えてきたことも忘れてはならない。

 島嶼(とうしょ)的地形と火山の連なるインドネシアでは、一般に大陸部のような大河やそのデルタは存在しない。むしろこの地域でまず人間の居住地として選ばれたのは、低地より丘陵地、山間の高原や盆地であった。そこが歴史的にも開拓の中心となった例はスマトラ島、ジャワ島など各地に多い。熱帯的気候もそこでは若干和らげられるうえに、流水灌漑(かんがい)による水田開発にも有利だったからであろう。スマトラ島東岸やカリマンタン南岸には比較的大きな川が乱流しているが、若干の河港都市などの存在を除けば、まだ人口希薄で開発程度は低い。

[別技篤彦・賀陽美智子]

気候

インドネシアの気候は、赤道直下の雨林型(熱帯雨林気候)と、その南北に広がる熱帯モンスーン型(熱帯季節風気候)とに大別される。気温は全域が常時高温で年平均25~27℃、年間の較差もきわめて小さい。しかし高い火山が多いので垂直的に気温差が著しくなる。パプア州(イリアン・ジャヤ)の4000~5000メートル級の高山では氷河や万年雪がみられるが、ジャワ島でも2200メートルのブロモ火山付近では年平均16℃、700メートルのバンドン高原でも22℃となる。これらは、近代に海岸低地の大都市の住民のため高地に多くの休養地を発達させたり、あるいは垂直差を利用して各種の気温に適する農作物を栽培させるのに有利な条件となった。降水量は赤道直下の地域では常時降雨型で年平均4000ミリメートルにも及ぶが、モンスーン型の地域では雨期と乾期の差異が明瞭(めいりょう)である。この二つの季節はそれぞれ4月、11月を交代期としている。インド洋からの南西風をまともに受けるスマトラ島南西岸、ジャワ島西部では、雨期の降水量が多く、低地ではしばしば氾濫(はんらん)するが、東部の小スンダ列島ではしだいに降水量は少なくなる。また小スンダ列島方面は乾期の南東風が強いので乾燥度も高くなる。しかし一般的には島国なので、アジア大陸の熱帯部分に比べるとしのぎやすい特色があげられる。

[別技篤彦・賀陽美智子]

生物相

高温多湿のインドネシアの気候は、その植物分布にもよく反映している。全群島は緑の植物に覆われ、このため「赤道にかけられたエメラルドの首飾り」というような形容詞さえ生まれた。しかし先に記したような気温の垂直差に応じて、その植物相も海岸低地のマングローブ樹林、常緑雨林から、3000~4000メートルの山地の高冷地的植物に至るまで複雑である。ジャワ島の高山地域ではアルプスにみられるようなエーデルワイスの花さえみられる。一般に植物の種類も莫大(ばくだい)で、被子植物のみで2万5000種もあり、ヤシの木だけでも100余種に上る。直径1メートルにも及ぶ世界最大の花ラフレシアもインドネシア特有のものである。森林被覆の割合はパプア(イリアン・ジャヤ)、カリマンタンなどでは全面積の80%にも及ぶ。しかしその他の島では開拓の進展に伴ってしだいに原生林は少なくなり、第二次林に覆われる所が多くなった。

 インドネシアの動物分布は、地理的位置のうえから、アジア、オーストラリア両系のものにまたがる。西部諸島ではアジア系のものが多いが、マカッサル海峡からロンボク海峡を連ねるいわゆるワラス線(ウォーレス線)を境に、東部諸島ではオーストラリア系の特質が著しくなり、有袋類も現れてくる。さらにスラウェシ島東岸とチモール島東端(東チモール領)を結ぶ線はウェーバー線とよばれ、若干の動物、たとえばシカの分布の境界とされている。インドネシアには各種の特殊な生物が存在するが、類人猿(オランウータン)、バンテン(野牛)、ジャワサイ、野生の小ウマ、あるいはコモドオオトカゲ(コモド島などにみられる)などは著名。インドネシアの民話も、これら豊富な動物が登場するのが特色である。ジャワ島西端部やコモド島は野生動物の保護地区に指定されている。またニューギニア島方面のゴクラクチョウ、カリマンタンのサイチョウなどをはじめとする貴重な鳥類や、昆虫類も多い。

[別技篤彦・賀陽美智子]

地誌

ジャワ島

ジャワ島はあらゆる意味でインドネシアの中心である。面積は全国土の7%ほどにすぎないが、手ごろの大きさの島であるうえに東西の歴史的交通路にも近く、火山脈が島を縦走して土地は肥沃(ひよく)で生産物に富み、その豊饒(ほうじょう)さは、すでに2000年前プトレマイオスの世界地図にも、「ヤバディウ」の島として記されていたほどである。したがって今日も全国人口の60%近くがここに集中し、人口密度は1平方キロメートル当り974人(2001推計値より)である。主として農業に生きる島としては世界最大の稠密(ちゅうみつ)性を示すが、その農業的土地利用度はすでに限界に達している。ジャワ島では、第二次(続成)マレー人(新マレー人)に属する3民族が、島の各部を占拠して居住する。中部から東部にかけては、ジャワ島でもっとも古くから開けた所で、ジャワ人が住むが、彼らは現在のインドネシアの指導的民族で、ジャワ島人口の60%を占める。早くからインド文化を吸収して多くの王国が栄え、独自の文化、芸術を発展させてきた。これに対し西部のプリアンガン山地帯はスンダ人の居住地で、その人口はジャワ島の約20%を占め、歴史的にジャワ人と対立してきた。宗教的には今日ジャワ人より熱心なイスラム教徒である。さらに、属島のマドゥラ島からジャワ島東部にかけてはマドゥラ人が居住する。彼らは勤勉な労働者で、歴史的にはジャワ人と融和する程度が強かった。そしてこれら3民族はそれぞれの民族語を使用し、性格や習俗でもかなりの差異がある。このほかジャカルタ、スラバヤのような海岸都市は、ジャワ島各地、群島各地からの民族の集合からなっており、住民の性格にも特殊なものがある。

[別技篤彦・賀陽美智子]

スマトラ島

スマトラ島は世界第五の大島であるが、テチス構造線が通って高い山系や火山が連続する西海岸と、スンダ棚の一部をなして広大な低湿地の連なる東海岸とに大別される。この低湿地にはバタン・ハリ川、ムシ川、インドラギリ川などの大河が流れるが、マラッカ海峡に面するため、その河口には早くから外来文化が流入し、パレンバンなどの河港都市の発達もあった。スマトラ島の民族分布は、地域的にはむしろジャワ島より複雑である。北端部にはアチェー人が居住し、ここはインドネシアでもっとも早くイスラム化された所で、民族性も勇敢であり、20世紀初めまでオランダ支配に抵抗した地方として知られる。トバ湖を中心としてはプロト・マレー人(古マレー人)のバタック人の居住地であり、彼らは久しく孤立的な社会を形成してきたが、近代にキリスト教と教育が普及し、いまは商人や医師など近代的職業で活動する者が増えた。西海岸中部の高原を中心としてはミナンカバウ人が住む。彼らはスマトラ最大の民族集団で母系社会の遺制を残し、特有の家屋をつくるが、現在はジャワ人と並んでインドネシアの指導者を多く出している。さらに東海岸一帯には狭義のマレー人が分布し、かつてはいくつかの小王国を形成した。マラッカ海峡を隔てたマレー半島方面のマレー人と同一系統である。このほか北部山地にはガヨ人、アラス人、南部地方にはランポン人などが居住している。

 スマトラ島はかつては密林に覆われる所が多かったが、20世紀になってから欧米資本の進出により、北東部のメダンを中心にタバコ、ゴムの大農園が開かれ、また東海岸低地の油田開発によって状況は大きく変わってきた。この状況は若干の変動はあったものの第二次世界大戦後も変わらず、戦時中800万にすぎなかった人口は4000万を超え、「第二のジャワ」として大きな発展を遂げつつある。

[別技篤彦・賀陽美智子]

スラウェシ島

スラウェシ島(セレベス島)の特異な形状は、テチス、環太平洋の二大構造線の活動の結果生じたものであるが、地域的にはマカッサル(1971~1999年はウジュン・パンダン)を中心とした南西部半島と、メナドを中心とした北東部半島の2地域だけがよく開けた所となっている。南西部にはブギス人、マカッサル人などの諸集団が居住し、古くから船乗りや商人として東南アジア各地に活躍し、郷土では水田農業を発展させていた。北東部には種族的にこれとやや異なるミナハサ人が住み、これも農・漁業に従うが、近代以後はほとんどキリスト教徒となってヒンドゥー的、イスラム的なインドネシア他地域とは異なった地域文化の性格をみせている。これらに対し、スラウェシ島中央部の山地地帯はプロト・マレー系のトラジャ人の居住地で、特有の文化を残している。ここにはまだ十分な開拓は及んでいない。

[別技篤彦・賀陽美智子]

カリマンタン

カリマンタン(ボルネオ島)はスマトラ島をしのぐ世界第三の大島であるが、インドネシア領となっているのはその70%である。北部のマレーシア領との境には分水嶺(ぶんすいれい)をなす高い山脈が連なるが、海岸に向かっては低地が広がり、ことに南部は一大湿原を形成する。これら低地の間をカプアス川、バリト川、マハカム川などの大河が流下するが、こうした巨大な地形、赤道直下の雨林型気候、さらに火山性の肥沃な土壌を欠くことなどのため、開拓は十分に進まず、人口も希薄である。海岸近くには外来のマレー人、ジャワ人、中国人などが居住するが、カリマンタン本来の先住民はプロト・マレー系のダヤク人で、奥地で多数の部族に分かれて住み、狩猟や焼畑農耕に従事する者が多い。カリマンタンは大部分が密林に覆われて自然力が優越する地域であるが、1960年以降は東部の一部でみられるように、油田、森林資源の開発や南部海岸地域でのゴム栽培などで、部分的に開けた地域が増えつつある。

[別技篤彦・賀陽美智子]

小スンダ列島・モルッカ諸島

小スンダ列島、モルッカ諸島は、また特殊な地域を構成する。バリ島から東に進むにしたがって自然的には乾燥度が強くなり、サバナ的景観を示す所もある。バリ人はジャワ人に類似し、優れた水田農耕民であるが、現在インドネシアで純粋なヒンドゥー教信仰を残す唯一の民族であり、このため島は習俗や文化できわめて特殊なものに富むことで知られる。これから東方の諸島の住民は種族的にプロト・マレー系、メラネシア系の要素が強まり、焼畑耕作などが支配的となっている。さらにモルッカ諸島は古来各種香料の独占的生産地として著名であり、この点では他の小スンダの島々と異なって早くから外来文化と接触した。現在モルッカ諸島の中心はアンボン島にあるが、ここに住むアンボン人はオランダ統治下にキリスト教徒となったことで知られる。

[別技篤彦・賀陽美智子]

西イリアン

西イリアンは世界第二の大島ニューギニア島の西半部をさし、行政上はパプア州(旧イリアン・ジャヤ州)を成す。自然的には複雑で、ことにその脊梁(せきりょう)山脈には4000~5000メートル級の高山が並び、その南斜面は広大なディグル川流域の大湿原が展開、しかも全島の大部分が赤道雨林に覆われ、「緑の砂漠」とさえいわれる。ネグロイド系のパプア人が先住民であるが、点在する開拓地を除けばまだ人口はきわめて希薄である。しかし1960年以降は西端のチェンドラワシ半島を中心に油田の採掘も始まった。さらに1990年代に入ると、資源開発や水産業、海運業の振興にも力を入れている。

[別技篤彦・賀陽美智子]

歴史

インドネシアは太古からその優れた環境のため、人類の居住、発展地となってきた。いわゆるジャワ原人(ピテカントロプス・エレクトゥス)をはじめ、モジョケルト人、ソロ人など原始人類の遺物が、ジャワ島を中心に発見されているのはその証拠である。

[別技篤彦・賀陽美智子]

ヒンドゥー系諸王国の興隆

現在のインドネシア住民の大部分は種族的にはマレー民族系であるが、これにはプロト・マレー人、第二次(続成)マレー人の2大別がある。その差異のもっとも大きな要素は外来文化の受容度にあるといえよう。インドネシアでもとくにその西部のジャワ島、スマトラ島には西暦紀元前後からインド商人の東進に伴い、ヒンドゥー教、仏教を中心とするインド文化が流入してきた。水稲栽培の技術をはじめ、サンスクリット系の文字、文学も伝えられ、従来の原始文化のうえに新しい民族文化が開花することになったのである。やがて政治的にも多くのヒンドゥー系、仏教系の国々が興った。5世紀にはタルマ王国(西ジャワ)、6世紀にはカリンガ国(中部ジャワ)が現れ、また同じころスマトラ島のパレンバンでは仏教系のシュリービジャヤ王国が栄えた。その勢力は8世紀には中部ジャワに及んでシャイレーンドラ王国の興隆をきたし、壮大なボロブドゥールの仏跡もそのもとで建設された。またボロブドゥールと並ぶ壮麗なヒンドゥー教遺跡のプランバナン寺院群も9世紀につくられ、中部ジャワはまさに当時の東南アジアの文化の一大中心となった。しかしその後、文化の中心は中部ジャワから東部ジャワへと移り、11世紀以来エルランガ、シンゴサリ、ケディリなどヒンドゥー教系諸王国の発展をみた。またモルッカ諸島の特産物であるニクズク、チョウジなどの香料も古くから外国人商人を引き付けてきたが、ジャワ島はその貿易の中継地としても栄えていた。13世紀の末、元(げん)のフビライはこの南海の富裕な島をねらってジャワ島に大遠征軍を派遣したが、戦いに敗れて逃げ帰った。ジャワ島ではこの勝利によって強大なヒンドゥー教のマジャパヒト王国の興隆をみるに至る。この王国は名宰相ガジャ・マダの指導下に、ほぼ現在の東南アジア島嶼(とうしょ)部の全域を支配し、インドネシア史の黄金時代を出現させた。

[別技篤彦・賀陽美智子]

オランダの植民地時代

しかし当時は西からイスラム勢力も東進しつつあり、彼らはスマトラ島北端のアチェー(現ナングロ・アチェー・ダルサラム)、マラッカ海峡を制するマラッカ、カリマンタン北岸のブルネイなどに基地を獲得しつつ15世紀中ごろにはモルッカ諸島に到達し、一方、ジャワ島の沿岸都市にも勢力を拡大してきた。マジャパヒト王国はこの攻勢によって滅び(1527)、ジャワ島には新たにデマク(のちマタラム)およびバンテンの二つのイスラム王国が興った。このころポルトガル、イギリス、オランダの西欧諸国が相次いでインドネシア地域に進出し、香料貿易の独占と植民地獲得を目ざして互いに激しい競争を展開した。しかし結局この地域ではオランダの全面的勝利に終わった。

 オランダは西ジャワのジャカトラ港に新たにバタビア城を建設し、東インド会社の中心的基地とした(1602)。会社は初めは香料など特産品の独占を目的としたが、しだいに領土的支配に乗り出し、以後3世紀半に及ぶ植民地支配体制を確立した。19世紀の初めにはヨーロッパ情勢の変動によって一時イギリスに占領されたが(1811~1816)、ウィーン会議でふたたびオランダ領として返還された。オランダの植民地となったインドネシアは「オランダ領東インド」とよばれた(名実ともに全域を支配したのは1915年以後とされる)。

 ふたたび自国の植民地としたオランダは、強制栽培法を施行して先住民からの搾取を強行した。これは、中心地であるジャワ島で、先住民の水田にサトウキビ、コーヒー、あるいはアイ(藍)などの特産物を強制的に栽培させ、ほとんど無償同様にこれを取り上げて輸出したものである。ヨーロッパの小国オランダはこうしてインドネシアを「熱帯の宝庫」と化し、その巨大な利潤により国内の近代化を完遂して富裕な国となりえたが、先住民は貧困と飢餓に打ちのめされた。その傷跡はいまなお十分にはいやされていない。また19世紀後半からはスマトラ島、ジャワ島を中心に大農園や油田開発が行われ、これまたオランダに莫大な富をもたらした。しかもこの間、先住民社会は依然として貧困のままに放置され、教育もほとんど与えられなかった。もちろんこうした植民地政策の強化に対してはしばしば抵抗運動が起こり、1825~1830年のジャワ戦争、19世紀末~20世紀初めまでのスマトラ島のアチェー戦争など大規模なものがあったが、いずれもオランダにより武力で鎮圧された。オランダ領東インドは、1942年の日本軍のインドネシア進攻まで続いた。

[別技篤彦・賀陽美智子]

独立運動の高揚

こうしたなかで、インドネシア人の民族主義的運動も20世紀に入るとしだいに活発となった。その原動力となったのはジャワ貴族の娘カルティニであった。彼女の思想に刺激されて組織的な政治運動も始まり、オランダ側の弾圧に屈せず、植民地体制からの離脱に向かって努力が続けられた。第二次世界大戦による日本のインドネシア占領、オランダ政権の崩壊は、民族独立の希望に絶好の機会を与えた。さまざまの経過はあったが、日本降伏後の1945年8月17日、国民党の指導者スカルノはインドネシア共和国の独立を宣言した。続いて植民地再支配を目ざすオランダ軍との長い激しい戦いを経て、1949年末、オランダから正式に主権の返還をかちとった。オランダはなお西イリアン(現在のパプア州)については執着を示したが、これも1969年の国民投票でインドネシア領となり、さらに1976年にはポルトガル領として残っていたチモール島北東部(現在の東チモール)をも自国領としたが、国連はこれを認めず、その後にいわゆる「東チモール問題」が残されることになった。東チモールは2002年独立。インドネシアは西欧勢力の侵略以来国土を回復するまでに370年余を費やしたことになる。

[別技篤彦・賀陽美智子]

スカルノ、スハルト体制

独立達成後のインドネシアの政治は、初代大統領スカルノの指導下に、パンチャ・シラ(建国五原則)に基づいて強いナショナリズムを背景として進められた。しかし広大な領土と多数で複雑な民族をもつこの国の統一は容易なものではなかった。アジア・アフリカ会議の開催、マレーシアとの対決政策、西イリアンの奪回など、国民の目を外に向けさせる対外的活動では華々しいものがあったが、それと対照的に国内経済の建設は十分でなく、インフレによる民衆の生活苦も増大した。またスカルノが利用した国内の共産党勢力はしだいに大きくなり、これが1965年の「九月三〇日事件」の勃発(ぼっぱつ)となって彼の失脚を招くことになった。彼にかわって大統領となったスハルトは、国内経済の安定と発展を第一の目標とし、外資導入に努め、また共産党勢力を徹底的に排除した。そして強力な軍隊を背景として32年間にわたり政権を維持した。しかし、1997年7月に起きたタイの通貨バーツ急落の影響を受けてインドネシア・ルピアが大幅下落、国内経済が急激に悪化したことをきっかけに、スハルトの長期政権に対する市民・学生などの反発が激化、1998年5月、ついにスハルトは大統領を辞任、長期政権に幕を下ろした。

[別技篤彦・賀陽美智子]

ポスト・スハルト

スハルトのあとを引き継いだのは、スハルト政権のもとで20年間閣僚を務め、スハルト退任当時に副大統領であったバハルディン・J・ハビビである。ハビビはスハルト一族や側近を排除した新内閣を結成、経済面での立て直しをはじめ、報道や集会の自由を認めるなど次々に改革に着手したが、1999年10月の大統領選挙には不出馬を表明、短命政権に終わった。大統領選挙は、国民協議会第一党の闘争民主党党首で初代大統領スカルノの長女メガワティ・スカルノプトリと、イスラム団体「ナフダトゥル・ウラマ」の議長、アブドゥルラフマン・ワヒドAbdurrahman Wahid(1940―2009)の対決となった。ハビビが不出馬を表明したため、イスラム勢力に加えてスハルト政権与党のゴルカル(GOLKAR、職能代表団体の略)がワヒドを支持したことにより、ワヒド政権が発足した。メガワティは副大統領となった。しかし2001年に入り、ワヒドの不正資金疑惑などが起こり、ワヒドと議会の関係が悪化。7月特別国民協議会において弾劾審議にかかることになったがワヒドは出席を拒否、一時は非常事態宣言を発令するなど抵抗をみせたが、本会議により罷免された。憲法により副大統領メガワティが第5代大統領に就任、副大統領は開発統一党(開発党)党首ハムザ・ハスHamzah Haz(1940― )となった。メガワティは大統領直接選挙制などの内容を入れた憲法改正を実行したほか、各種改革に取り組み民主化が進められたが、物価上昇や未解決の汚職問題等で国民の信頼を失っていった。2004年の大統領選ではワヒド、メガワティ両政権下で閣僚を務めたスシロ・バンバン・ユドヨノが当選、第6代大統領に就任した。

 1999年8月には、東チモールの独立をめぐる住民投票が実施され、78.5%の支持で独立が決定した。投票後、反対派の暴動が起き混乱があったが、10月には国連東チモール暫定統治機構(UNTAET)が設置され、インドネシア国民協議会は、10月20日の本会議で東チモール併合を無効とすることを決めた。その後、2002年5月に東チモールは正式に独立した。アチェー特別地域でも独立の動きがあり、住民投票の実施を求める大規模な集会が同年11月に開かれた。アチェーは1945年インドネシア独立後、インドネシアからの分離、独立を主張。1976年独立を目ざすゲリラ組織、自由アチェー運動(GAM)が独立を宣言。ゲリラ戦を中心とする武装闘争が続いていた。2000年6月GAMとワヒド政権は期限つきで停戦に合意。2001年1月まで延長されたが、その後崩壊状態となった。同年7月インドネシアはアチェーに広範な自治権を認める法律を可決、2002年1月州名をナングロ・アチェー・ダルサラムと改称。同年12月、政府とGAMはジュネーブで和平協定に調印した。しかし、これもまた崩壊状態となった。2003年5月、東京において再度和平協議が行われたが交渉は決裂し、インドネシア政府はGAM掃討作戦を実施、多数の死傷者が出た。2004年12月に起きたスマトラ島沖地震・津波により当地域が甚大な被害を受け、世界から注目されたことがきっかけとなり、2005年1月よりヘルシンキで和平協議が再開、同年8月和平文書調印が行われた。なお、インドネシアではその後も大規模地震が発生しており、なかでも2006年5月のジャワ島中部地震では多くの被害者が出ている。

 一方で、近年テロ事件が頻発しており、とくに2002年10月バリ島クタ地区において発生した、東南アジアを中心に活動するテロ組織「ジェマー・イスラミア」(JI)の犯行とされる爆弾テロ事件では、180人以上の死者が出た。政府はテロ対策の施策を強化しているがその後も2003年、2004年とジャカルタで大規模な爆弾テロが発生している。

[別技篤彦・賀陽美智子]

政治・防衛・外交

政治体制

インドネシアは大統領を国家元首とする単一国家である。2002年の憲法改正によって、大統領直接選挙制が導入された。2004年7月に新制度による大統領選挙が行われ、ユドヨノが勝利、同年10月に大統領に就任した。任期は5年で3選は禁止となっている。国会は議席数550で、議員の任期は5年。2002年の憲法改正前は任命により国軍や警察に議席が割り振られていたが、任命議席は廃止され、全員が国民の投票により選ばれる民選議員となった。2004年4月に総選挙が行われている。また、2002年の憲法改正で地方代表議会が新設された。議席数は128で、議員は国会の総選挙にあわせて各州から直接選挙で4人ずつ選出される。立法権はないが、国会に法案を提出することはできる。一方、国の基本政策を定め、憲法改正前は大統領を選出する責任をもつなど大きな権限があった国民協議会はその権限を失い、大統領選挙の結果や国会の決定を承認するなど、国会議員と地方代表議会議員の合同会議として存続することになった。

 地方行政も、2001年に新しい地方自治制度が導入され、州知事、県知事、市長などの行政の長もすべて国民(有権者)の直接投票による選挙で選ばれることになった。2005年6月に初めての直接投票による地方選挙が実施された。

[別技篤彦・賀陽美智子]

防衛

スカルノ時代以来、政権を維持するために軍隊(国軍)を使って監視、抑圧が行われ、軍人(国軍将兵)の政治やビジネスへの関与が頻繁に行われてきた。2004年9月、国会はその弊害を除くために軍人の政治、ビジネスへの関与を禁止し、地方行政レベルまで監視要員を配置する領域管理システムを廃止する国軍法案を可決した。現在、陸軍は兵力約28万5000(2006)、海軍は兵力約6万5000(2006、海兵隊を含む)、空軍は兵力約4万(2006)で、イギリス、オーストラリア、アメリカなどから供与された航空機を主としている。このほか、予備役として40万の兵力がある。

[別技篤彦・賀陽美智子]

外交

外交面ではスカルノ時代と異なってスハルトはむしろ柔軟な対外政策をとり、各国の経済的援助を取り付けようとした。中国とは「九月三〇日事件」以来関係が凍結していたが1990年8月国交回復。ロシアとも外交関係は結んでいる。共産主義についてはきわめて警戒的である。一方、近隣諸国とはASEAN(アセアン)(東南アジア諸国連合)を形成しており、しだいにその中心的存在としての地位を確立しつつある。

 外交の基本方針は、ASEANと連帯し、非同盟・積極自主外交である。西側諸国との協力関係も重視している。主要援助国は、日本が54.4%と突出しており、次いでオーストラリア、オランダ、ドイツ、アメリカとなっている(2005)。

[別技篤彦・賀陽美智子]

経済・産業

住民の大多数はなお農村居住であり、自給的農業が経済生活の基盤をなしている。これには二つの基本的なパターンの差がある。一つは、ジャワ島、バリ島、スマトラ島の一部、その他第二次(続成)マレー人の居住地を中心とする水田(サワー)耕作で、他はおもに前記以外の地域のプロト・マレー人の居住地を中心とする焼畑(ラダン)耕作である。米は国民の常食としてもっとも重要な地位を占めるが、その収穫面積からいえば水田と焼畑の割合はほぼ7対1にあたる。人口の激増に伴い、その増産には大きな努力が払われ、1960年代から1970年代にかけて政府は農業生産向上のために病虫害の撲滅方法などを指導する制度であるビマス計画、インマス計画を実施し、これによって1970年代末には米の年産額は2000万トンを超えた(その60%まではジャワ島の生産による)。第二次世界大戦前の平均600万トンに比べると著しい増産である。1997年には5110万トン、2006年には5445万トンとなったが、なお十分でなく、かなりの量を輸入に頼っている(45万6000トン。2006推計)。しかしインドネシアでは米の代用食としてトウモロコシ、キャッサバ、いも類などが、以前から畑地あるいは水田の裏作としてつくられ、地域的に重要な自給食糧となってきた。そのほか各種の果実、豆類もつくられ、これらの食糧が、巨大な人口を飢餓にさらすことなくいちおう維持させる要因となっている。

 オランダ植民地時代には特有の熱帯的自然条件、あるいは大量低廉な労働力を利用するプランテーションが各地で発達し、ジャワ島のサトウキビ、茶、コーヒー、スマトラ島のゴム、タバコ、東部諸島のココヤシなどはインドネシアの経済的繁栄の象徴でもあった。しかしすでに製糖業は、第二次世界大戦前において世界経済の影響を受けて大きな打撃を被っていたし、その他のプランテーション産物も戦後は激しい民族主義の攻勢のもとに不振の状態に陥った。従来の外国人所有の大農園は接収され国有化されたが、軍人が多く管理者とされたこともあって、科学的発展や経営法で以前ほどの能率をあげえず、また大農園の占めていた土地は自給食糧の生産地と変えられたりした。現在、プランテーションの面積は全耕地の3%強にすぎない。さらにゴム栽培にしてもむしろ農民の小規模栽培によるものが多くなった。それでもインドネシア経済のなかでは、農園生産物は外貨獲得上重要な一つの源となっている。天然ゴム(世界の24%、第2位)、ココア豆(世界の14%、第3位)、コーヒー(世界の8%、第4位)、茶(世界の5%、第6位。以上いずれも2006年の統計)、ほかにやし油などが主要な輸出用農産物であり、政府も農業多角化の一つとしてこれら農産物の増産に努めている。森林資源もまた豊富で、木材製品は重要輸出品である。

 地質状態の複雑なインドネシアでは地下資源の分布も多様で、とくに近代では石油、錫(すず)、ボーキサイトなどの大規模な採掘が始まって、世界有数の鉱業生産国となった。しかしその生産はやはり植民地体制と結合し、現地経済の自主的独立性あるいは工業化に寄与するものではなかった。この意味では石油が現在のインドネシアでもっとも重要な資源の一つである。石油資源はスマトラ島がもっとも豊富で、ナングロ・アチェー・ダルサラム、ジャンビ、パレンバン各州を中心に良質の油田があり、ついでカリマンタン東部のバリクパパン、タラカン地区の油田がある。ジャワ島では東部地方の油田が知られている。これら各油田は第二次世界大戦前からオランダ、アメリカ系の石油会社の手で盛んに開発が進められていたが、1960年以後は国家企業に移され、プルタミナ社を中心に経営されている。インドネシアの石油増産は、アジアでは中国に次いで多く、採掘区域は海底にも及び、1998年には年産7481万キロリットルを記録したが、以後減産し、2007年(推定)では4863万キロリットルとなっている。原油、天然ガスなどの輸出は全輸出額の19%になっている。また石油会社の納める税金は国家活動の大きな支えとなっている。このほか地域的にはスラウェシ島東岸、西イリアンなどにも豊富な石油の埋蔵があるという。

 錫はバンカ島、ビリトゥン島、シンケプ島などのいわゆる「錫群島」を中心に18世紀初頭から採掘されてきたが、産額が減少する傾向にある。しかし低品位の砂錫(すなすず)の利用が開発され、主要鉱業の位置を保っている。このほか、ボーキサイトはビンタン島で採掘され、鉄鉱も西ジャワ、カリマンタン南東部、スマトラ島南部などで新しい埋蔵が発見されている。

 水産業は古くからジャワ島、スマトラ島の沿岸を中心に行われてきた。ここでは鮮魚は高温のため腐りやすいので、塩干魚につくるのが一般的であり、これとも結び付いてマドゥラ島、ジャワ島東岸では製塩業も盛んである。近海にはマグロをはじめ好漁場が多い。アンボン、メナドなどはその中心基地となっている。これに加えてインドネシアでは養魚池を利用する海岸・内陸漁業も盛んで、食生活での貴重な動物性タンパク質の供給源となっている。漁獲高の総量は558万トン(2005)に達している。

 工業化は、現在のインドネシア政府が国の近代化のためもっとも力を注いでいる政策の一つである。オランダ植民地時代は、ジャワ島を中心に小規模の軽工業が成立していたにすぎなかった。独立後は各種工業の育成に着手したが、それらはなお繊維、食品、たばこなどの消費物資の生産が主で、経営規模もさほど大きくはなかった。しかし工業の基礎としての大規模な水力発電は、西ジャワのジャティルフール川、東ジャワのブランタス川、スマトラのアサハン川などで実現している。そしてスハルト政権成立後は、いわゆるペリタ計画(五か年計画)が1969年から始まって、外国資本の積極的導入により、工業生産はかなり活発となった。これによって建設された工場はいずれもインドネシア側との合弁の形をとっているが、造船、紡織、金属、製材、肥料、薬品、紙類、ガラス、電気機械、セメント、自動車、タイヤなどの各部門にわたっている。工場の3分の1近くはジャカルタ周辺に集まっている。しかしなお工業部門での生産高は全国総生産の10%に達せず、その就業人口も全人口の10%ほどにすぎない。こうしたなかで、スマトラのアサハン川総合開発による工業の発展は注目される。これは、アサハン・アルミ・プロジェクト(アサハン計画)といい、インドネシアと日本との共同プロジェクトである。アサハン川上流に最大出力51万3000キロワットの発電所を建設、この電力で年産22万5000トンのアルミニウム精錬工場を建設するものである。1975年に両国が「マスターアグリーメント」に調印して計画が確定、1982年生産開始となった。2003年末までの22年間に400万トンのアルミ地金が生産され、そのうち250万トンが日本に輸入されている。

 1997年7月のタイ・バーツの急落に連動したインドネシア・ルピアの大幅下落によって、完全変動相場制へ移行。同年10月および1998年4月に経済改革問題で国際通貨基金(IMF)と合意、経済構造の改革に取り組んだ。

 貿易は経済の復興と発展に伴い、著しく伸びてきた。輸出高は総額1140億ドル(2007)に上り、その主要品は原油を筆頭に液化天然ガス、木材、石油製品、生ゴム、コーヒー豆、錫などである。輸入高は総額744億ドルで、機械類、原油、鉄鋼、自動車、石油製品、米、薬品などがおもなものである。2006年の貿易の相手国では、輸出で日本(22%)、EU(12%)、アメリカ(11%)など、輸入でシンガポール(16%)、中国(11%)、EU(10%)などが中心である。こうした最近の経済的発展は国内総生産(GDP)にもよく反映しており、1人当りのGDPは2002年の930ドルから2007年には1947ドルに上昇した。これは石油など資源価格の高騰も寄与している。

[別技篤彦・賀陽美智子]

交通

インドネシアは植民地時代から東南アジアではもっとも交通の発達した地域であったが、交通網はやはりジャワ島に集中している。ジャワ島では至る所道路網が整っており、スマトラ島にも及ぶ。北のナングロ・アチェー・ダルサラムと南のランポンを結ぶ縦貫国道もある。国内の自動車(4輪以上)保有台数は2300万台(2002)、乗用車、トラック、バスのほか、おびただしい数の小車両がある。鉄道は延長約7900キロメートル、ジャワではよく発達しているが、現在はその改修などが急務とされている。海上交通では多数の良港があり、島嶼(とうしょ)間の交通は国営のペルニ社が経営する。さらに広大な領域の結合には航空も重要な役割を果たしており、国営のガルーダ・インドネシア航空をはじめ国内線のムルパティ・ヌサンタラ航空などの各社がこれに従事している。ジャカルタのスカルノ・ハッタ国際空港には世界各地から航空機が乗り入れており、スマトラのメダン国際空港やバリのデンパサル国際空港などとあわせて空からの重要な門戸となっている。このほか各種通信機関についても近代化が進められている。

[別技篤彦・賀陽美智子]

社会

インドネシア社会は多民族からなり、各方面で多様性を示すが、その就業人口の割合をみると、15歳以上の就業人口9517万7000人(2006)のうち、農林業や狩猟、漁業に従事しているものが4232万3000人と、全体の44.5%を占め、なお圧倒的に農民層が多く、そこにインドネシア社会に共通な特質をみることができる。外来の諸宗教の浸透にもかかわらず、信仰や思惟(しい)形式の基盤としてのアニミズムの強さ、村落社会を中心とする共同体的相互扶助制(たとえばゴトン・ロヨンなど)の存在、そこでの住民の日常生活を規制する特有の慣習(アダト)の存在などはその例である。またとくにジャワ社会においては、伝統的に王族・貴族の血統を引く者(ンダラ)、インテリ・識字層(ウォン・ティリ)、それ以外の一般庶民層(アバンガン)の3階層の区別があり、それぞれに世襲の伝統的職業に従ってきた。都市もその数は少なかったものの、農村社会に対しては別個のものとして存在し、その構成員も貴族、識字層に加えて商人層および外国人層が強い要素をなした。現在ではこうした封建的な階層の差異はとくに都市やその周辺では減少しつつあるものの、先に記したように新たに経済的所得の差異に基づく階層差が著しくなってきた。植民地時代のオランダ人支配層にかわって、いまやインドネシア人の官僚と軍人、さらに中国系外国人などが上層部を形成し、これに対して大都市の裏通りにあるスラムは、絶えず周辺から流入する不法占拠者などによって拡大し、社会不安の温床となりがちである。

 宗教は憲法上は自由が認められ、国教は存在しない。そして国民の87%はイスラム教とされているが、その実践には古くからのアニミズム、ヒンドゥー教などの強い影響を受けている。そしてイスラムの信仰度にも地域により差異が大きいし、熱心な信者(サントリ)と形式的な信者(アバンガン)との違いも著しい。一般的には海港都市にサントリが多く、農村部はほとんどアバンガンで占められ、後者はいわば冠婚葬祭にあたってイスラムを利用するにとどまるものが多い。熱心なイスラム信者の多い地域としては、スマトラ島北部のナングロ・アチェー・ダルサラム、西部ジャワのスンダ地方などがあげられる。キリスト教徒は全国で約1800万人といわれるが、これも地域差が著しく、その分布の多い所は、中部から東部ジャワ、スラウェシ島北部、スマトラ島のバタック地方、アンボン島などである。いずれにしても民族としてのインドネシア人には、多種の外来宗教を受容する寛容性があるように思われる。

[別技篤彦・賀陽美智子]

文化

インドネシア文化はその歴史が示すように重層文化であり、基盤をなすマレー民族文化のうえに、インド、中国、イスラム、ヨーロッパなど各種の外来要素が累積した。これらのうちあるものは表面的に文化の上部を覆うにすぎないが、とくにインド的なものは深く先住民文化と融合し、その文化的発達に大きな影響を与えた。特有のワヤン劇(影絵芝居)、ガムラン音楽、舞踊をはじめ、古典文学もみなその影響下に発展してきたものである。これらの多くは精霊崇拝、祖霊崇拝などの神秘主義と結び付いて、インド文化流入以前からインドネシア地域に存在したものであるが、インド文化はその内容や表現の方法をいっそう豊かにし、完全なものとした。ことに『ラーマーヤナ』『マハーバーラタ』などの物語は現在も広くインドネシア文化の各層にわたって浸透している。バティック(ジャワ更紗(さらさ))織の文様や金銀細工、クリス(短刀)、木彫りなどの工芸品の発達もまた同様である。さらに感受性の豊かな民族として歌謡曲なども多くの優れたものを生んだ。そのメロディはハワイ音楽のそれに類似して、マライ・ポリネシア民族としての潜在的な等質性を物語っている。一般に神秘主義はインドネシアの文化を通しての大きな特色の一つであり、それはいまなお多くの伝説、民間信仰、呪術(じゅじゅつ)の存在などに伝えられる。日常生活でも呪術師(ドゥクン)の占いなどに依存する程度はなお強い。しかし一方では、ヨーロッパ的なものとの結合で新しい文化が生み出されつつある。

 言語は種族によって異なり、日常生活ではそれぞれのことばが用いられているが、相互の交渉などのためにはマレー語が使われることが多かった。独立後これを改良したものがインドネシア語として正式の国語に定められ、その使用の強化によって国民的統一を図っている。学校の教科書も、地域を問わずすべてインドネシア語で書かれたものが使われる。

 教育は植民地時代には十分でなく、ことにオランダが故意に愚民政策をとったこともあって、識字者の数は第二次世界大戦前には国民のわずか6%にすぎなかったが、現在は教育の体系が整えられ、政府は非識字者の一掃に努めており、識字率は男性94%、女性87%(2004)である。学校制度は六・三・三・四制で、小学校6年間と中学校3年間は義務教育。その上に高等学校、専門学校、高等専門学校、大学がある。大学は国民教育省所管のものが2003年現在で国立78校、私立1846校ある。国立大学のなかではインドネシア大学、ガジャマダ大学(ジョクジャカルタ)、エルランガ大学(スラバヤおよびマラン)、パジャジャラン大学(バンドン)、工科大学(バンドン)などが有名である。なお職業能力開発のための公共の訓練センターも226校ある(2007)。

[別技篤彦・賀陽美智子]

日本との関係

インドネシアは文化的にも地理的距離の近い日本とは、かなり共通したアジア的な基盤をもっている。また民族学的立場からも、日本の伝統文化の原型のいくつかはここにみられて、親近感が深い。そのうえ、歴史的にも江戸初期にはすでにジャカルタ(いわゆるジャガタラ)に多くの日本人が居住し、また長崎来航のオランダ船はすべてジャガタラを基地として往復したので、現地の事情は比較的よく伝わっていた。第二次世界大戦ではインドネシア全域が日本の占領するところとなり、その占領政策には多くの問題を残したが、民族が待望した独立の実現への契機を与えたことは確かである。第二次世界大戦後はいち早く通商協定が成立(1950)、また賠償によって新しい国づくりへ多くの寄与がなされた。正式の国交樹立は1958年(昭和33)である。当時の大統領スカルノとは日本の占領時代から深い関係があったが、とくにスハルト政権成立後、国内経済再建のため外国からの援助が多く求められると、日本は率先して、政府、民間ベースを通じて資本や技術を供与した。すでに1982年の段階で民間投資総額のみで69億ドル余りに及んでおり、各種工場の建設、治水工事などに生かされている。その後も、日本のインドネシアに対する経済協力は突出している。2003年の政府開発援助(ODA)実績では、インドネシアに対する二国間ODA支出純額の約74%を日本が占めている。2006年のODA実績は約1384億円、累積では有償資金協力4兆1659億円(1966~2006)、無償資金協力2525億円(1968~2006)、2006年度までの技術協力実績2830億円である。貿易も年々増大しており、資源に乏しい日本としてはインドネシアの豊かな原料に期待することが大きいとともに、その稠密(ちゅうみつ)な人口は市場としても大きな可能性を示している。2007年の日本への輸出は総額236億3000万ドルで主要品目としては石油、天然ガス、機械機器、合板、金属原料、魚介類などである。日本からの輸入は総額65億3000万ドルで、内訳としては機械類、電気機器、金属製品、化学製品、鉄鋼、輸送用機器などである。貿易尻(じり)は大幅なインドネシア側の出超となっており、日本は最大の貿易相手国である。

 こうした経済建設、貿易の発展に伴い、在留日本人も増え、現在1万1000人を超える(2007)が、その多くがジャカルタに集まっている。しかしまだ日本人全体としては、インドネシアの民族性、慣習、文化、歴史などについての知識に乏しく、これが現地人の対日感情にしばしばマイナスの条件となって作用していることは否定できない。これからはこの方面でのいっそうの交流が必要となろう。またインドネシアは観光地としても優れた多くの場所をもっているので、この点でもしだいに日本人に認識され、中部ジャワ、バリ島、スマトラ北東部などを訪れる人々が多くなっている。

[別技篤彦・賀陽美智子]

『永積昭・間苧谷栄著『東南アジアの価値体系2』(1970・現代アジア出版会)』『渡辺光編『世界地理3 東南アジア』(1971・朝倉書店)』『別技篤彦著『モンスーンアジアの風土と人間』(1972・泰流社)』『外務省情報文化局編『海外生活の手引 東南アジア篇Ⅰ』(1980・世界の動き社)』『安中章夫・三平則夫編『現代インドネシアの政治と経済』(1995・アジア経済研究所)』『D・R・ハリス編『インドネシア労働レポート――経済成長と労働者』(1996・日本評論社)』『ジェトロ・ジャカルタ・センター編著『インドネシア――NIES化への挑戦』(1996・日本貿易振興会)』『白石隆著『インドネシア』(1996・NTT出版)』『白石隆著『スカルノとスハルト』(1997・岩波書店)』『小池誠著『インドネシア――島々に織りこまれた歴史と文化』(1998・三修社)』『村井吉敬・佐伯奈津子著『インドネシア――スハルト以後』(1998・岩波ブックレット)』『ノーマン・ルイス、野崎嘉信著『東方の帝国――悲しみのインドネシア』(1999・法政大学出版局)』『高橋宗生編著『変動するインドネシア(2001―2005)』(2006・アジア経済研究所)』『水本達也著『インドネシア 多民族国家という宿命』(2006・中央公論社)』『小林寧子著『インドネシア 展開するイスラーム』(2008・名古屋大学出版会)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「インドネシア」の意味・わかりやすい解説

インドネシア
Indonesia

正式名称 インドネシア共和国 Republik Indonesia。
面積 191万6907km2
人口 2億6980万4000(2021推計)。
首都 ジャカルタ

アジア大陸とオーストラリア大陸との間にある島々からなる国(→東南アジア)。おもな島はジャワ島スマトラ島ボルネオ島(カリマンタン島),スラウェシ島(セレベス島)で,ほかにニューギニア島(イリアン島。東部はパプアニューギニア),小スンダ列島マルク諸島(モルッカ諸島)など,1万3000以上の島がある。南部はアルプスヒマラヤ造山帯,東部は環太平洋造山帯に属し,火山が多い。熱帯雨林気候と熱帯サバナ気候に分かれ,モンスーン(→季節風)により雨季乾季がある。オランダの植民地であったが,1945年独立を宣言し,4年間の独立戦争を経て 1949年に独立を達成した。国家スローガン「多様性のなかの統一」が示すように,住民は文化社会生活,言語,宗教などを異にする多様な民族集団から構成される。おもなものは,ジャワ島のジャワ人,スンダ人,スマトラ島のアチェ人,ミナンカバウ人,バリ島バリ人,スラウェシ島のブギス人などで,マレー系,中国系も多い。住民の 80%近くがイスラム教徒(→イスラム教)であるが,イスラム教は国教ではなく,キリスト教カトリック,プロテスタント,ヒンドゥー教,仏教を加えた五つが国家公認宗教とされる。公用語は,古くからの共通語であったマレー語を基礎とするインドネシア語。人口の半分以上が農村部に居住し,農林漁業を営む。主食は米であるが,芋類,トウモロコシを常食する地域もある。独立以後,ゴムやコーヒー,砂糖,コショウ,チャ(茶)などの 1次産品から,工業原料・燃料輸出へと産業構造の転換がはかられてきた。さらに産業のジャワ島集中から外島中心へと転換が推進されている。貿易収支は,石油輸出が拡大し始めた 1970年代から黒字に転じた。行政的には,ジャカルタ首都特別州ジョクジャカルタ特別州を含む 34州に分かれる(2014現在)。東南アジア諸国連合 ASEAN原加盟国。(→インドネシア史

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