ダウエスデッケル(その他表記)E.F.E.Douwes Dekker

改訂新版 世界大百科事典 「ダウエスデッケル」の意味・わかりやすい解説

ダウエス・デッケル
E.F.E.Douwes Dekker
生没年:1879-1950

インドネシア民族主義運動の指導者。のちにスティアブディD.Setiabudiと改名。植民地文学者ムルタトゥーリの遠い親戚に当たり,東部ジャワの港市パスルアンにオランダ人を父とし,ドイツ人とジャワ人の混血児を母として生まれた。バタビア(現,ジャカルタ)のオランダ人高等学校を卒業した後,南アフリカボーア戦争に従軍し,イギリスの捕虜としてセイロン刑務所に2年服役し,1903年にジャワに帰った。07年ごろから政党結成を志し,ブディ・ウトモ設立に際しては青年たちを支援した。12年に新聞を創刊し,また同年末に東インド党を結成した。植民地政庁はこれを危険視し,13年に彼を含む幹部3人を東インド以外へ追放した。5年後に帰国した彼は引き続いて文筆活動を行ったが,政治活動の表面からは退いた。太平洋戦争直前の41年1月,日本との協力を疑った東インド政庁は彼を南米スリナムに追放したが,インドネシア独立後は民族英雄の一人に列せられた。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ダウエスデッケル」の意味・わかりやすい解説

ダウエス・デッケル
Douwes Dekker, E. F. E.

[生]1879
[没]1950
インドネシア民族主義運動指導者。別名スティアブディ。欧亜混血児で,ムルタトゥリ遠縁にあたる。ジャーナリストとして活動を始め,チプト・マングンクスモスワルディ・スーリヤニングラットらとともにインド党を結成した。インドネシア民族英雄の一人。

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世界大百科事典(旧版)内のダウエスデッケルの言及

【ムルタトゥーリ】より

…オランダの文学者。本名はダウエス・デッケルEduard Douwes Dekker。遠洋航路の船長の子としてアムステルダムに生まれ,しばらく商館に勤務したのち,1838年父の帆船で東インドに赴いた。…

【東インド党】より

…1912年9月6日に結成されたオランダ領東インド(現,インドネシア)の政治団体。欧亜混血のジャーナリストE.F.E.ダウエス・デッケル,ジャワ人の医師チプト・マングンクスモ,ジャワ貴族の出身でのちのタマン・シスワ学校創立者スワルディ・スルヤニングラットという3人の卓越した民族主義運動指導者が発起人となり,〈オランダ領東インドのすべての住民〉を対象としていたが,実際には欧亜混血人がメンバーの大半を占めていた。政治団体であることを明言していたので,オランダ東インド政庁はその党則を認可せず,翌13年3月にこれを非合法団体と見なし,同年スワルディが当局を批判するパンフレットに発表した風刺論文〈もし私がオランダ人であったなら〉を理由に,3人の指導者をジャワ島外に追放した。…

【ムルタトゥーリ】より

…オランダの文学者。本名はダウエス・デッケルEduard Douwes Dekker。遠洋航路の船長の子としてアムステルダムに生まれ,しばらく商館に勤務したのち,1838年父の帆船で東インドに赴いた。…

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