インドネシアの政治家。1901年6月6日東部ジャワに生まれる。高校生時代から民族運動に関心をもち、1920年バンドン工科大学入学時には「ブン・カルノ」(兄弟スカルノ)として知られた。1928年インドネシア国民党を結成、「民衆主義(マルハエニズム)」を唱えた。1929年植民地当局に逮捕されたが、反帝国主義・民族解放を訴えた法廷証言でかえって民族指導者としての名声を確立した。1942年日本軍によって釈放され、オランダ留学組のM・ハッタらとともに対日協力による独立を目ざした。日本の降伏直後の1945年8月17日独立を宣言、初代大統領に就任した。対オランダ独立闘争の過程で政局の主導権は抗日派の手に帰し、象徴的大統領として不遇の数年を送った。1955年第1回アジア・アフリカ会議(バンドン会議)を主催、非同盟中立外交の一方の雄として脚光を浴びたが、内政面では多党乱立ゆえの短命内閣が続いた。かくして1957年、内政混乱の原因は西欧型議会政治にあるとし、村落民主主義の伝統に立脚した「指導民主主義」を提唱、共産党・軍部という二大超議会勢力との提携を強めた。1958年反スカルノ派のスマトラ反乱を鎮圧、翌1959年余勢をかって「指導民主主義」体制への移行を強行した。1950年代末~1960年代初頭にかけて、国内での絶大な権力掌握をてこにオランダからの西イリアン解放闘争を展開、1963年これを達成、終身大統領となる。息継ぐ間もなく「マレーシア粉砕」という対決路線を選び、1965年冒頭には国連からも脱退。この間「北京(ペキン)・ジャカルタ枢軸」ともいうべき対中接近が進行する一方、国際的孤立と経済危機の深刻化を招いた。同年彼の健康悪化に伴い共産党と陸軍の権力闘争も激化、左派による「九月三〇日事件」といわれるクーデター未遂事件が発生した。1966年3月抵抗むなしくスハルト将軍率いる反共陸軍への実権移譲を余儀なくされ、1967年には大統領職を解かれ、1970年6月21日失意のうちに病没。近年に至り、建国の父として再評価する動きもある。
また、長女のメガワティ・スカルノプトリは1987年、国会議員に当選。2001年には第5代大統領に就任している。
[黒柳米司]
『田口三夫著『アジアを変えたクーデター――インドネシア9・30事件と日本大使』(1984・時事通信社)』▽『白石隆著『スカルノとスハルト――偉大なるインドネシアをめざして』(1997・岩波書店)』▽『『スカルノ自伝』(角川文庫)』
インドネシア民族主義運動の指導者,インドネシア共和国初代大統領。1901年6月6日,スラバヤでジャワ人の父とバリ人の母の間に生まれた。スラバヤの高等学校を卒業後,バンドンに遊学して26年にバンドン工科大学を卒業,建築技師の資格を得た。卒業当時のインドネシアは共産党の蜂起(1926-27)が失敗し,新しい知識人による民族主義の胎動が始まっていた。スカルノはその中で新世代のチャンピオンとして登場した。植民地政府に対する非協力と即時独立を唱える彼は,投獄(1929-31)と流刑(1933-42)の生活を続けたが,独立の闘士としての声望が高まり,日本軍政中に政界に復帰すると民族第一の指導者の地位を確立した。45年8月17日,ハッタ(後の初代副大統領)とともに,〈インドネシア民族を代表して〉独立宣言に署名してこれを読み上げ,翌18日にはインドネシア共和国初代大統領に選出された。次いで19日には大統領内閣を組閣したが,同年11月以降,行政権は首相の掌握するところとなり,スカルノの実質的権限は後退した。
しかし,1950年代後半に至って各種の政党間の離散集合による政党政治が破綻をきたすとともに,彼のもつ国民的支持の獲得能力と各種の政治勢力間の調停能力とによって,その権力を著しく強化した。こうして,50年代末以降,〈指導された民主主義〉を掲げて,代議制による政党政治を停止し,軍と共産党の力の均衡の上に立ち,国際的には反帝反植民地主義(ネコリム)の路線を推進した。ナサコム(民族主義,宗教,共産主義の三者の団結)をはじめとする数多くの力強いスローガンを次々と創出して民族主義を謳歌したが,65年の九月三〇日事件を契機に,軍と共産党の均衡が一挙に崩れると,陸軍,イスラム派,学生,旧社会党系の知識人(シャフリル派)らの攻撃を受けて権力を剝奪されていった。66年3月には実質的な権力はスハルトに移り,67年3月には大統領職を停止され,さらに翌68年にはスハルトが正式に第2代大統領に就任した。晩年はボゴールで軟禁状態のうちに過ごした。スカルノは,誕生期にあったインドネシア民族の統一と団結の体現者であり,彼自身〈人民の代弁者〉であることを生涯を通じて自任していた。スカルノ没後十数年たった現在,〈民族の誇り〉としてのスカルノに対する思慕の念は,民衆の間でなお強靱に生きつづけている。
執筆者:土屋 健治
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1901~70
インドネシアの政治家,初代大統領(在任1945~67)。東ジャワ州出身。バンドン工科大学時代から民族主義運動に参加し,1927年インドネシア国民党を創設。33年から流刑。日本軍政下で運動に復帰。45年インドネシアの独立を宣言し初代大統領となる。50年代末,議会制民主主義の行き詰まり打開のため「指導される民主主義」を唱え,陸軍と共産党の二大政治勢力のうえに立って革命の継続を主張したが,65年の九月三十日事件を契機に失脚した。今も国民的人気が高い。
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…1936年,オランダのウィッセル,コレインら3人の探検隊が初めて登頂に成功した。インドネシア独立後はスカルノ山とされ,1969年に現在名に改められた。【別技 篤彦】。…
…こうして共産党が壊滅した後に民族運動の表舞台に登場するのは,オランダから帰国した留学生を中心とする知的エリート層である。彼らは27年にスカルノを党首とするインドネシア国民党を結成し〈ムルデカ(独立)〉の合言葉に象徴される民族主義を鼓吹した。民族主義精神の高揚は翌28年10月に〈青年の誓い〉が採択されて,インドネシアというただ一つの祖国・民族・言語が高らかに宣言されたことにもよく示されていた。…
…1927年にスカルノを党首として結成された民族主義政党。インドネシアの統一と団結,インドネシアの独立を掲げ,それ以前にイスラム同盟やインドネシア共産党が主導した運動に参加した人々を再結集するとともに,各地の政治団体と各種の政党の大同団結をはかった。…
…クーデタは一時成功したかにみえたが,陸軍戦略予備軍司令官スハルト少将の機敏な指揮により政府軍は反乱軍を夕刻までに粉砕した。このクーデタの起因は明らかでなく,(1)同年6月に予定されていた第2回アジア・アフリカ会議流会以後,政界上層部の右傾化とスカルノ大統領の病気悪化説に焦慮した共産党が,蜂起するか軍部に圧殺されるかという二者択一を迫られ決起した,(2)スカルノの唱えるナサコム(民族主義,宗教,共産主義を一体化した統一戦線)体制に協力し人民革命によって政権を狙う共産勢力に危機感を抱いた将軍評議会が挑発した,(3)〈アメリカのCIAの陰謀である将軍評議会〉が企てているクーデタに対し,革命評議会が〈スカルノを守る〉ためにしかけた〈先制攻撃〉である,などの諸説がある。さらに中国がクーデタに関与したともいわれる。…
…その後,30年代を通じて穏健な民族主義路線の指導者として,国民参議会で活躍するかたわら,35年にはパリンドラ(大インドネシア党)の結成に参加し,39年のガピ(インドネシア政治連合)発足に際しては,シャリフディンらとともに中心的な役割を果たした。一方,スカルノらとの親交も厚く,フロレス島のエンデに流刑されていたスカルノの健康状態を心配して彼をスマトラへ移すために尽力し,スカルノ,ハッタ,ストモらの著名な民族主義指導者が政治舞台から去ったあとの30年代後半にはその令名を高めたが,41年1月逮捕され,4日後に拘置所で急死した。【土屋 健治】。…
…正式名称はインドネシア党Partai Indonesia。オランダ植民地政庁による投獄でスカルノらの最高指導部を失ったインドネシア国民党のうち,党を解散して新たな組織で国民党の衣鉢を継ごうとする副委員長サルトノら党内多数派によって,1931年に結成された。対オランダ非協力と大衆運動を通じた民族独立の達成,という国民党の基本路線を継承し,人民の政治的権利の拡大と経済生活の向上,民主主義の原則に基づく人民政府の樹立のために闘うことを掲げた。…
…それは他人の災厄を見ながらお高くとまっている偽善的な態度を指すものではない。非同盟とは独立,永遠的平和,社会主義といった大義への積極的貢献を指している〉というスカルノ大統領(インドネシア)の第1回非同盟諸国会議での発言が,この言葉を採用するにいたった動機と,さらにこの言葉にかけられたやや混乱した期待をよく示している。 53年ころからの〈雪解け〉によりアジア・アフリカ諸国の独自の動きは活発になり,54年4月のコロンボ会議,55年4月のアジア・アフリカ29ヵ国のバンドン会議という形で盛り上がった。…
※「スカルノ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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