ビジャヤ
Vijaya
生没年:?-1309
インドネシア,マジャパイト王国の建設者。在位1293-1309年。即位後の名はクルタラージャサ・ジャヤワルダナKertarajasa Jayavardana。シンガサリ王国最後の王クルタナガラの親戚かつ女婿であったが,1292年に奪者ジャヤカトワンがクルタナガラ王を殺し,国を奪った。ビジャヤは最初マドゥラ島に逃れたが,やがて表面は恭順の態度を示してジャワに帰り,ブランタス川下流の地を与えられて,ひそかに復権の機会をうかがった。93年になると,先王クルタナガラがモンゴル人の元朝の使節を侮辱したことから派遣された元の水軍がジャワに到着した。ビジャヤは元軍を利用して首都を奪回した後,元軍を退去させて新しい王朝を開き,ブランタス川下流のマジャパイトに都した。彼は領土拡張を好まず,95年には元とも国交を回復した。しかし彼の治世の間は内乱が絶えず起こり,国内はあまり安定しなかった。
執筆者:永積 昭
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内のビジャヤの言及
【シンハラ人】より
…人口は1099万(1981),総人口1485万中74%を占める。5世紀ころに記されたシンハラ王朝の《[マハーバンサ](大王統史)》では,北インドで父親のライオン(シンハ=獅子)を殺して王位についたシンハバーフ王の長男ビジャヤVijayaが,700名の部下とともに母国から追放され,スリランカ島に漂着した。同じ日に釈迦が涅槃に入ったとされ,シンハラ王朝と仏教との結びつきが強調されている。…
【スリランカ】より
…[ブラーフミー文字]による古代シンハラ語の刻文は,さらに古く前3世紀にまでさかのぼることができる。インドの西海岸から700人の部下とともに漂着したビジャヤVijayaが,先住民族を征服し,シンハラ王朝を建てたのは,前483年と伝えられている。南インドのマドゥライから700名の女性を招き,生まれた子孫が今日のシンハラ人の出自であると信じられている。…
【チャンパ】より
…第7王朝(900‐986)から第9王朝(1044‐74)にかけて,その美術はさらに洗練され,カウターラ(ニャチャン)のポナガールの塔などが今日に伝える建築様式と,チャキエウ出土の彫刻美が示すように,12世紀までにチャンパ美術はその頂上期を迎えた。 10世紀末,新興の前レ(黎)朝ベトナムに侵攻されて第7王朝は甚大な損害を被り,第8王朝は1000年にインドラプラを放棄してビジャヤVijaya(ビンディン)に遷都した。ベトナムの圧迫はその後も執拗に続き,69年にはリ(李)朝ベトナムによってビジャヤが一時攻略され,12世紀には西方から侵攻したアンコール朝にも支配された。…
【ビンディン】より
…このためベトナム戦争中しばしば付近は戦場となった。チャンパ王国の旧都ビジャヤが付近にある。【別技 篤彦】。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」