改訂新版 世界大百科事典 「マジャパイト」の意味・わかりやすい解説
マジャパイト
Majapahit
1293年から1520年ごろまで,ジャワ東部を中心として栄えたインドネシア史上屈指の大国。ジャワのヒンドゥー諸王朝中,最大にして最後のものである。
シンガサリ朝最後の王クルタナガラが暗殺された1292年に,その女婿ビジャヤは最初,奪者ジャヤカトワンに降伏して,スラバヤ付近に注ぐブランタス下流域の土地を与えられた。この土地に生えていたマジャという木の実が苦かった(〈パイト〉は〈苦い〉の意)という故事から,マジャパイトという地名が生じた。翌年中国の元の大軍が,先年クルタナガラ王から受けた侮辱に報復するためにジャワに到着したとき,ビジャヤは巧みな外交折衝により元軍と提携してジャヤカトワンを討ち,次いで元軍に敵対した。元軍は征服を断念して去り,ビジャヤはマジャパイト王国初代の王クルタラージャサ・ジャヤワルダナ(在位1294-1309)として即位した。彼およびその子ジャヤナガラ王(在位1309-28)の時代は反乱がやまず,ジャヤナガラは若い親衛隊長ガジャ・マダの活躍で危険を脱したこともある。しかし1328年に暗殺され,その異母妹トリブワナー(在位1328-50)が跡を継いだ。この間にガジャ・マダは順調に昇進して30年には5人の閣僚の筆頭であるマハーパティ(宰相)の座に就いた。トリブワナーの男子が第4代の王となり,ラージャサナガラと称したが,彼は〈若き雄鶏〉を意味するあだ名のハヤム・ウルク(在位1350-89)で呼ばれる。宰相ガジャ・マダは就任以来51年まで一貫して武力による大帝国の建設に努め,ハヤム・ウルク王の時代はこの国の黄金時代を現出した。王の治世をたたえる宮廷詩人プラパンチャの年代記《ナーガラクルターガマ》によれば,その勢力はスマトラ,マレー半島,ボルネオ,東インドネシアなどの各地に散在する国に及んでいたといわれる。そして77年にはスマトラのパレンバンに遠征を行い,チャンパ,カンボジア,タイ,南ビルマ,ベトナムなどと外交関係を結んだだけでなく,中国の元朝にも朝貢した。しかし,ジャワ島西部のパジャジャラン国は一度征服された後,再び独立を回復した。ガジャ・マダは裁判,徴税,公共事業などに手腕を発揮し,また法典の編纂などを行い,1364年に死去した。
以後ハヤム・ウルク王の死去(1389)とともに王国の運命はしだいに衰えた。この時期の歴史は不明の点が多いが,少なくとも1405-06年に内乱があり,50年代には王位継承をめぐる紛争があったこと,また68年には王族の反乱があったことが知られる。そして86年にいくぶん勢力を回復したが,統治の中心はマジャパイトから南西方のクディリに移り,1527年ごろジャワ北岸の新興イスラム国デマックによって征服された。この最後の約40年間をまだマジャパイト国と呼んでいいかどうかについても疑問が残されている。
マジャパイトは土地に基礎を置く農業国家であるとともに貿易国家でもあり,インドネシアの民族主義者にとって過去の栄光の象徴,また一括独立の論拠ともなった。
執筆者:永積 昭
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報