プラケーシン(読み)ぷらけーしん(その他表記)Pulakeśin Ⅱ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「プラケーシン」の意味・わかりやすい解説

プラケーシン(2世)
ぷらけーしん
Pulakeśin Ⅱ
(?―642ころ)

インド、デカン南西部のバーダーミに都を置いたチャールキヤ朝の王(在位609ころ~642ころ)。即位後に近隣の諸国を討って領土を広げ、また北インドの覇者ハルシャ王の軍をナルマダー川河畔に破って王のデカン進出を阻止した。さらにその後、デカン南東部の征服を進め、全デカンに支配を及ぼすに至ったが、晩年に南インドのパッラバ朝との戦いに敗れて戦死した。プラケーシン2世ササン朝ペルシアホスロー2世との間に使節を交換したことでも知られる。またこの王の領内を旅した玄奘(げんじょう)は、『大唐西域記(だいとうさいいきき)』のなかで、王の強力な軍隊について数行を費やして説明している。

[山崎元一]

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世界大百科事典(旧版)内のプラケーシンの言及

【チャールキヤ朝】より

…主要な系統はバーダーミBādāmi,カルヤーニKalyāṇi,東チャールキヤの三つで,前2者を併せて西チャールキヤ朝と呼ぶ場合もある。 バーダーミのチャールキヤ朝(前期西チャールキヤ朝)は,プラケーシン1世Pulakeśin Iによって6世紀半ばにバーダーミを都として始められ,8世紀中葉まで存続した。2代,3代の王キールティバルマン1世Kīrtivarman I,マンガレーシャMangaleśaは初代の子で,王朝の版図を拡大したが,王位継承をめぐって内乱が生じると2代王の子プラケーシン2世が610年ころ叔父マンガレーシャを殺して内乱を鎮定し王位に就いた。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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