チャールキヤ朝(読み)チャールキヤちょう(英語表記)Chalukya

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「チャールキヤ朝」の意味・わかりやすい解説

チャールキヤ朝
チャールキヤちょう
Chāḷukya

6世紀からインド,デカン地方および南インド地方に勢力を及ぼした王朝バーターピ (バーダーミ) に都した前期 (あるいは西) チャールキヤ朝 (543~757) ,ベーンギーに都した東チャールキヤ朝 (7~11世紀) ,カルヤーニに都した後期チャールキヤ朝 (975~1189頃) の3つの王統が数えられる。西チャールキヤ朝は6世紀にデカン南部のカルナータカ地方に興り,7世紀前半プラケーシン2世 (在位 608~642) の時代には北はナルバダー川,南はカーベリ川にいたるデカン全土と南インドを支配する大勢力となった。彼は有名なハルシャバルダナとナルバダー川をはさんで対峙し,その侵入を許さなかった。しかし,その後南インドの強国パッラバ朝との長期にわたる抗争に疲弊し,西チャールキヤ朝は滅亡した。他方,プラケーシン2世の弟ビシュヌバルダナはデカン東部,アーンドラ地方を支配していたが,独立してゴーダーバリ川下流のベーンギーに都した。この王朝は東チャールキヤ朝と呼ばれるが,西チャールキヤ朝の滅亡後も存続し,11世紀には南インドの強国チョーラ朝と合体した。また 975年には,西チャールキヤ朝の系統をひく勢力が,西チャールキヤ朝の跡を継いだラーシュトラクータ朝を滅ぼして,新しい王朝を始めた。これが後期チャールキヤ朝で,デカン西部のカルヤーニに都したが,南インドの強国チョーラ朝と争いを繰返し,12世紀末には弱体化し,ヤーダバ朝 (1187~1312) ,カーカティーヤ王国 (1000~1326頃) ,ホイサラ朝などに分裂,1189年頃滅亡した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「チャールキヤ朝」の意味・わかりやすい解説

チャールキヤ朝
ちゃーるきやちょう
Chalukya

南インドの王朝。都と時代を異にする三つの王統に分かれる。まず、前期西チャールキヤ朝は、6世紀中葉、プラケーシン1世の活躍によって台頭し、カルナータカ州北部のバーダーミを都としてデカン地方を支配した。7世紀前半のプラケーシン2世は、北方ではカナウジのハルシャ王の侵入を打ち破り、南方ではカダンバ朝を屈服させ、南東方はパッラバ朝の地にも侵入した。しかし晩年はパッラバ朝軍に、逆に都を落とされた。続くビクラマーディティヤ1世は王国を再建し、パッラバ朝の地深く侵入した。その後は概して平和が続いたが、8世紀中葉、封臣ラーシュトラクータ家が王位簒奪(さんだつ)し、王朝の支配はとだえた。それを復活したのは10世紀後半のタイラ2世で、その王統は後期西チャールキヤ朝とよばれる。都は北西方のカリヤーニに移された。一方、南東方タミル地方では、パッラバ朝にかわってチョーラ朝が台頭しており、後期西チャールキヤ朝は南インドの覇権を求めてチョーラ朝と争った。11世紀末から12世紀初頭のビクラマーディティヤ6世の治世には平和が続き、宮廷詩人ビルハナが活躍したが、その後文弱な王が相次ぐ間に封臣が勢力を伸ばし、1190年ごろヤーダバ家とホイサラ家の挟撃を受けて滅亡した。前期西チャールキヤ朝のプラケーシン2世は、東部アーンドラの地を征したのち、その支配を弟ビシュヌバルダナにゆだね、そこにベーンギーを都とする東チャールキヤ朝の支配が開始された。この王統は、長い間続いた婚姻政策の結果、1070年にチョーラ朝と合体するまで継続した。

 バーダーミおよびその付近に残る6~7世紀のヒンドゥー教諸寺院は、ドラビダ様式の最初期の発展を示すものとして美術史上に名高く、後期西チャールキヤ朝期に建立された諸寺院は、ドラビダ様式中、とくにデカン様式として発達した形をよく示している。

[辛島 昇]

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