ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「チャールキヤ朝」の意味・わかりやすい解説
チャールキヤ朝
チャールキヤちょう
Chāḷukya
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南インドの王朝。都と時代を異にする三つの王統に分かれる。まず、前期西チャールキヤ朝は、6世紀中葉、プラケーシン1世の活躍によって台頭し、カルナータカ州北部のバーダーミを都としてデカン地方を支配した。7世紀前半のプラケーシン2世は、北方ではカナウジのハルシャ王の侵入を打ち破り、南方ではカダンバ朝を屈服させ、南東方はパッラバ朝の地にも侵入した。しかし晩年はパッラバ朝軍に、逆に都を落とされた。続くビクラマーディティヤ1世は王国を再建し、パッラバ朝の地深く侵入した。その後は概して平和が続いたが、8世紀中葉、封臣ラーシュトラクータ家が王位を簒奪(さんだつ)し、王朝の支配はとだえた。それを復活したのは10世紀後半のタイラ2世で、その王統は後期西チャールキヤ朝とよばれる。都は北西方のカリヤーニに移された。一方、南東方タミル地方では、パッラバ朝にかわってチョーラ朝が台頭しており、後期西チャールキヤ朝は南インドの覇権を求めてチョーラ朝と争った。11世紀末から12世紀初頭のビクラマーディティヤ6世の治世には平和が続き、宮廷詩人ビルハナが活躍したが、その後文弱な王が相次ぐ間に封臣が勢力を伸ばし、1190年ごろヤーダバ家とホイサラ家の挟撃を受けて滅亡した。前期西チャールキヤ朝のプラケーシン2世は、東部アーンドラの地を征したのち、その支配を弟ビシュヌバルダナにゆだね、そこにベーンギーを都とする東チャールキヤ朝の支配が開始された。この王統は、長い間続いた婚姻政策の結果、1070年にチョーラ朝と合体するまで継続した。
バーダーミおよびその付近に残る6~7世紀のヒンドゥー教諸寺院は、ドラビダ様式の最初期の発展を示すものとして美術史上に名高く、後期西チャールキヤ朝期に建立された諸寺院は、ドラビダ様式中、とくにデカン様式として発達した形をよく示している。
[辛島 昇]
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