7世紀の中国・唐の仏教僧。陸路インドに入って各地の寺院を訪れ、経典などを持ち帰り、大般若経はじめ1335巻を漢訳した。玄奘がもたらした経典や注釈書を基に、
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中国、唐代の仏教学者。大旅行家、大翻訳家として著名。法相(ほっそう)宗開創の祖。本名は褘(い)。俗姓は陳(ちん)氏。三蔵(さんぞう)法師の名で知られる。洛州(らくしゅう)緱氏(こうし)県(河南省陳留)の人。602年(仁寿2。ただし、このほかに600年説など諸説がある)、父慧(恵)(けい)の四男(末子)として誕生。幼にして敏、つねに古典に親しむ。11歳前後で父を失ったのち、すでに出家していた兄長捷(ちょうしょう)につき、洛陽(らくよう)の浄土寺に住する。614年(大業10)度僧の勅に応じ、人選の大理卿(たいりけい)鄭善果(ていぜんか)にその才を認められて出家。以後も浄土寺にとどまり、景(けい)法師や厳(ごん)法師より『涅槃経(ねはんぎょう)』や『摂大乗論(しょうだいじょうろん)』を学ぶ。618年(武徳1)兄に勧められ、洛陽から長安に移り、荘厳(しょうごん)寺に住したが、政変直後の長安仏教界に失望し、翌619年、兄とともに蜀(しょく)に向かい成都に至る。622年具足戒(ぐそくかい)を受けてのち、各地に高僧を訪ね、翌623年ふたたび長安に戻り、大覚寺に住して道岳(どうがく)法師より『倶舎論(くしゃろん)』を学ぶ。624年、法常(ほうじょう)(567―645)と僧弁(そうべん)(568―642)の『摂大乗論』の講筵(こうえん)に列し、両師から大いにその将来を嘱望されたが、このころより国内における仏教研究の限界に目覚め、諸種の疑点解明のためインド留学を決意し、その準備に専念する。国外出立の公式許可を得ることはできなかったが、627年(貞観1。一説に629年)秋8月、意を決してひそかに長安を出発。天山南麓(なんろく)を経由し、ヒンドゥー・クシ山脈を越えて、インド北辺から中インドに入り、630年ついにマガダ国のナーランダー僧院に至り、シーラバドラ(戒賢(かいけん))法師と対面(一説に634年)した。以後、法師について『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』を中心に学ぶこと5年に及ぶ。635年いったん師のもとを去り、東インドから南インド、さらに西インドを経由してインド半島一巡の旅を終える。638年ナーランダー僧院に戻り、師と再会。その後は近辺の諸師について学んだが、とくにジャヤセーナ(勝軍(しょうぐん))居士(こじ)について2年ほど唯識(ゆいしき)の論典を中心に学んだことが注目される。640年、東インドのクマーラ王の招聘(しょうへい)を受け、彼の王宮に1か月ほど滞在、さらに中インドのシーラーディーティヤ(ハルシャバルダナ、戒日王(かいじつおう))に招かれる。翌641年プラヤーガでの75日の無遮大会(むしゃだいえ)に参列したのち、秋には帰国の途につき、645年(一説に643年)長安に帰った。
仏像、仏舎利(ぶっしゃり)などのほか、彼が請来(しょうらい)したサンスクリット原典は、総計520夾(きょう)、657部と伝えられている。同年2月1日、高句麗(こうくり)遠征準備のため洛陽にあった太宗皇帝(李世民)に拝謁、3月に長安に戻り、弘福(ぐふく)寺に住して仏典の翻訳準備にかかる。同年5月2日『大菩薩蔵経(だいぼさつぞうきょう)』の翻訳に着手、以後、訳場を弘福寺、弘法(ぐほう)院、慈恩(じおん)寺、玉華(ぎょくか)寺に移しながらも、整備された訳経組織のもとに死の直前までつねに翻訳に従事した。訳出仏典総数は、『瑜伽師地論』『成唯識論(じょうゆいしきろん)』など瑜伽唯識の論典を中心に計75部1335巻に及び、この分量は中国歴代翻訳総数の4分の1弱に相当する。また質的な面でも、訳語の統一を図り、原文に忠実たらんとした跡がみられ、中国訳経史上に一時代を画したため、彼以降の訳を新訳(以前の訳を旧訳(くやく))とよぶ。なお、帰国直後、帝の求めに応じてまとめられたインド・西域に関する見聞録『大唐西域記(だいとうさいいきき)』は、7世紀前半の当該地方の地理、風俗、文化、宗教などを知るうえの貴重な史料として名高い。664年(麟徳1)2月5日、63歳(一説に65歳。ほか異説あり)で示寂。門下には、『成唯識論』を基本として事実上の法相宗初祖となった基(き)(窺基(きき))のほか幾多の俊才が輩出した。
[袴谷憲昭 2017年2月16日]
『慧立本・彦悰箋・高田修訳注『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』(『国訳一切経 史伝部11』所収・1940・大東出版社)』▽『前嶋信次著『玄奘三蔵――史実西遊記』(岩波新書)』▽『桑山正進・袴谷憲昭著『人物中国の仏教 玄奘』(1981・大蔵出版)』
中国,唐代初期の僧。西域,インドへの求法僧で,一般には三蔵法師として知られる。俗姓は陳氏。洛陽に近い陳留郡(河南省)緱氏県に生まれた。13歳のときに出家し,兄の長捷法師のいた洛陽の浄土寺に住んで経論を学んだ。まもなく隋・唐王朝交代期の混乱期にあい,618年,兄とともに長安に入ったが,兵乱のために学僧の多くが蜀(四川省)に逃れて仏法の講席ひとつさえなかったので,ついに蜀におもむき空慧寺に入った。622年(武徳5)に具足戒をうけ,まもなく成都から長江(揚子江)を下って荆州に出,相州,趙州をへて落着きを取り戻した国都の長安に舞い戻り,大覚寺に住んで道岳,法常,僧弁といった学僧から俱舎論や摂大乗論の教義を授けられた。しかし,多くの疑義を解決することができず,かくなる上は親しく原典につき,本場の学者から回答をうるにしかず,とりわけ仏教哲学の最高峰たる十七地論つまり瑜伽師地論を得たいものだと,インド留学を決意するにいたった。
唐の法律では国外への旅行が禁止されていたので,志を同じくする僧数名とともに願書を出したが却下された。しかし,他の僧はあきらめたのに,玄奘だけは国禁を犯して求法の途についた。629年(貞観3)のことである。涼州,瓜州を通り,伊吾に至ったとき高昌国王の使者に会い,その懇請で高昌に向かい,ここで国王の大歓迎をうけ,インドへ往復する20年間の旅費などの寄進をうけた。ついでクチャより天山山脈を越えて北路に出,西突厥(とつくつ)の統葉護可汗に会い,アフガニスタンをへて北インドに入り,中インドのマガダ国ナーランダ寺に至った。仏教学の中心であったこの寺に5年とどまり,戒賢論師について《瑜伽師地論》をはじめとする無著・世親系の瑜伽唯識の教学をきわめ,さらにインド各地に求法と仏跡巡礼の旅をつづけて,多数の仏典をえて帰路についた。ヒンドゥークシュ山脈とパミール高原を越え,ホータンを通り,17年ぶりの645年に,今度は大歓迎されて長安に帰った。
インドから将来したのは,仏舎利150粒,仏像8体,経典520夾,657部で,これらは弘福寺に安置された。太宗はおおいに喜び勅を下してただちに訳経に従事させ,故郷に近い少林寺で訳経したいとの希望はうけいれられなかったが,はじめは弘福寺で,のちには大慈恩寺で訳経に専念した。彼が20年間に訳出した大乗小乗の経論は,《大般若波羅蜜多経》600巻をはじめ,《瑜迦師地論》《俱舎論》など75部,1235巻に達した。その訳風は忠実に逐語訳をなす特徴をもち,新訳と称され,クマーラジーバ(鳩摩羅什)らの旧訳と区別される。門下の窺基,円測,普光らにより新訳経論に依拠した法相宗,俱舎宗が興った。弟子の弁機に編述させた旅行記《大唐西域記》12巻は,彼の伝記である《大唐大慈恩寺三蔵法師伝》10巻ともども,正確無比な記述によって,7世紀の西域,インドを知る貴重な文献であるとともに,小説《西遊記》の素材となったことでも有名である。西安南郊の興教寺に墓所がある。
執筆者:礪波 護
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602~664
唐の仏僧。陳留(河南省偃師(えんし)県)の人。629年陸路インドにおもむき,マガダのナーランダー寺をはじめインド各地の寺院を歴訪して,645年陸路で帰国。以後訳経に従い,76部1335巻を漢訳した。これによって中国唯識宗(法相宗(ほっそうしゅう))が開かれ,唐初の仏教界の中心を占めた。『大唐西域記』はその旅行記であり,門弟の手で伝記『大慈恩寺三蔵法師伝』が書かれている。
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…仏教ではイーシュバラにその属性を示す修飾語〈見守るものavalokikā〉をつけてアバローキテーシュバラAvalokiteśvaraとしたものと思われる。正規の梵語を知る玄奘(7世紀)はこれを〈観自在〉と訳した。初期の漢訳者は〈観世音〉とか〈光世音〉とか訳したが,彼らはこの名の中に〈音svara〉や〈光ruc〉の語が含まれていると信じたらしい。…
…サンスクリット本は散逸し,チベット訳,漢訳が現存する。漢訳は,菩提流支訳《深密解脱経》と玄奘訳《解深密経》各5巻の2種あるが,後者が多く用いられる。成立は300年ころと考えられ,中期大乗経典に属する。…
…中国,陝西省西安市の南郊70kmにある仏寺。樊(はん)川の近くで,終南山を眺望する高台に位置し,玄奘(げんじよう)三蔵の墓塔を中央に,その弟子の慈恩大師窺基の慈恩塔,円測法師の円測塔の3塼塔(せんとう)が向かいあって立つことで知られる。玄奘は没後,滻水(さんすい)の東に葬られたが,5年後の669年(総章2)に少陵原に改葬されたのが寺の始まりとされる。…
…とくに中国では,インド,西域から仏典をもたらし,漢訳に従事した人々を尊称して訳経三蔵あるいは三蔵法師と呼ぶことが多い。クマーラジーバ(鳩摩羅什)や真諦などもそう呼ばれたが,最も有名なのは玄奘(げんじよう)である。とくに《大唐三蔵取経詩話》をはじめ明代の長編白話小説である呉承恩の《西遊記》が世に出てからは,三蔵法師といえば,弟子の孫悟空・猪八戒・沙悟浄をひきつれて天竺への苦難の旅をつづけた求法僧,玄奘を指すことが多い。…
…648年(貞観22)に当時皇太子であった唐の高宗が母の文徳皇后の慈恩に報いるために建立したもので,子院10余,合わせて1897間という広大な規模を誇った。〈大慈恩寺〉という寺額を賜り,たまたまインドから帰国した玄奘を迎えて上座とし,翻経院で訳経に専念させた。玄奘を大慈恩寺三蔵法師とよぶのは,そのためであり,玄奘の高弟の窺基は,この寺で法相宗を広めたので,慈恩大師とよばれる。…
…中国,唐の求法僧玄奘(げんじよう)の西域インド旅行記。12巻。…
…唐詩 唐代の宗教,思想界において全盛をきわめたのは,インド起源の仏教であった。唐初にインドへの求法の旅をして,膨大な仏典をもたらした玄奘(げんじよう)は,帰国後に《大唐西域記》を著すとともに,76部1335巻に及ぶ大翻訳事業を完成し,その忠実な逐語訳は〈新訳〉と称されている。南北朝時代にあっては,中国固有の儒教とは異質の珍しい教学として,知識教養の宝庫として迎えられる傾向の強かった仏教であったが,末法思想が興って以後の隋・唐時代になると,生活に密着し,宗教的な情熱に燃えた実践的な宗教として,特色ある中国仏教が形成されたのであった。…
…仏教研究の中心として5~12世紀に栄えた学問寺があった。7世紀前期には玄奘が,7世紀末期には義浄がここで学んだ。玄奘によると,グプタ朝のクマーラグプタ1世(在位415ころ‐454ころ)が創建し,グプタ後期の諸王やハルシャ・バルダナ王(在位606ころ‐647)も次々と僧院を造営し,数千人の僧徒がいたという。…
…サンスクリット原典(大品・小品の2種)のほか,チベット語訳と7種の漢訳が現存する。一般に唐の玄奘(げんじよう)の訳する276字の漢訳(小品に相当)が知られ,同じ玄奘の《大般若経》600巻の精髄とみられた。 内容は,表題のとおり,広大な般若経典の心髄をきわめて簡潔にまとめたもので,観自在菩薩(観音)が般若波羅蜜多(完全なる智慧)の行を修めて五蘊(ごうん)(存在の五つの構成要素)が空(無実体)であると悟ったことから説き起こし,仏弟子舎利子に対し,いっさいの存在が空であることを説き,最後に真言を説いている。…
…おもな部派としては,上座部の系統で北インドに勢力のあった説一切有部(略称有部),化地部(けじぶ),法蔵部など,西インドに勢力をもった犢子部(とくしぶ)などがあり,有部からさらに経量部(きようりようぶ)が分出した。犢子部からも正量部(しようりようぶ)その他が分出したが,正量部は後世(玄奘(げんじよう)の滞在した7世紀ころ)中インドに進出して大きな勢力をもっていた。他に雪山部(せつせんぶ)があり,根本上座部を自称している。…
…中国仏教十三宗の一つ。中インドのナーランダ寺で戒賢に師事した玄奘(げんじよう)が,唐初に帰国して伝えた護法(ダルマパーラ)の《成唯識論(じようゆいしきろん)》の学説に基づき,《解深密経》《瑜伽論》などを所依の経論として,慈恩大師窺基(きき)が開宗した宗派。唯識宗,慈恩宗などともよぶ。…
…釈迦が涅槃のとき,正法を付嘱され,この世にとどまって正法を護持することを命じられたという羅漢の像は,中国,日本などで絵画や彫刻にあらわされた。その絵画化は中国の六朝時代に始まっているが,唐時代に玄奘(げんじよう)によって《法住記》が訳出され,十六羅漢の名称,所在地などが明確となり,信仰が始まった。その後,仏教の教主釈迦への信仰が,法身から実在の釈迦へと移り変わるにつれて,羅漢信仰は盛んとなり,中国では宋以後,日本では平安時代以降,十六,十八,五百羅漢などのおびただしい作品が描かれ,現存遺品も数多い。…
※「玄奘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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