日本大百科全書(ニッポニカ) 「マーガリ殺害事件」の意味・わかりやすい解説
マーガリ殺害事件
まーがりさつがいじけん
中国雲南省とビルマ(現ミャンマー)との国境付近でイギリスの領事館員が殺害された事件。1874年イギリスは、ビルマ、雲南から揚子江(ようすこう)上流に至る貿易路開拓のため、ブラウン大佐を隊長とする193人の探検隊を派遣した。イギリスの芝罘(チーフ)領事館付き書記生マーガリAugustus R. Margary(1846―75)は清(しん)朝発行の旅券を携えイラワディ川上流のバーモに待機する同大佐と合流、75年2月雲南に向かったが、曼允(まんいん)付近で中国人従者4人とともに殺害された。イギリス側は雲南巡撫岑敏英(じゅんぶしんびんえい)、中国側は蛮人を主謀犯人といい両者は対立した。イギリス公使ウェードはこれを利用して天津(てんしん)条約の改訂を強硬に推し進め、76年の芝罘条約でその目的を達し、殺害に関しては賠償金6万両を支払わせている。
[三石善吉]
『坂野正高著『近代中国政治外交史』(1973・東京大学出版会)』