スワルディスルヤニングラット(英語表記)Soewardi Soerjaningrat

改訂新版 世界大百科事典 の解説

スワルディ・スルヤニングラット
Soewardi Soerjaningrat
生没年:1889-1959

インドネシアの民族主義者,民族教育運動の指導者。1928年の数えで40歳の誕生日を機にキ・ハジャル・デワントロKi Hadjar Dewantaraと改名したので,デワントロの名前でも知られる。ジョクジャカルタにあるパク・アラム王家に生まれ,ジャカルタ医学校中退後ジャーナリストとなった。1913年〈もし,われオランダ人なりせば〉の論稿が筆禍事件となり,19年までオランダで追放生活を送った。ジャワへ帰還後は教育・文化活動への関心を強め,22年にジョクジャカルタでタマン・シスワ学校を設立した。日本軍政中から独立後にかけて教育・文化関係の要職についたものの,終生タマン・シスワ学校の最高指導者として尽力し,インドネシア的な民族教育のあり方,人間像のあり方,人間関係のあり方について,各方面に多大な影響を及ぼした。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のスワルディスルヤニングラットの言及

【インドネシア協会】より

…1923年から1930年代末期までオランダで反植民地主義政治活動を行ったインドネシア留学生の団体。前身は1908年に設立された東インド協会Indische Vereenigingで,一種の親睦団体であったが,スワルディ・スルヤニングラットチプト・マングンクスモらが13年にオランダに到着して,この団体に参加したため,徐々に政治色を強めた。17年には将来オランダ領東インドに就職するオランダ青年を主とする連合団体に加盟したが,立場の相違から19年に脱退し,23年1月に東インド協会をインドネシア協会と改称した。…

【タマン・シスワ】より

…1922年7月,インドネシアのジャワ島のジョクジャカルタで,スワルディ・スルヤニングラット(キ・ハジャル・デワントロ)を指導者として設立された民族主義的な私立学校。タマン・シスワは〈学童の園〉を意味する。…

【東インド党】より

…1912年9月6日に結成されたオランダ領東インド(現,インドネシア)の政治団体。欧亜混血のジャーナリストE.F.E.ダウエス・デッケル,ジャワ人の医師チプト・マングンクスモ,ジャワ貴族の出身でのちのタマン・シスワ学校創立者スワルディ・スルヤニングラットという3人の卓越した民族主義運動指導者が発起人となり,〈オランダ領東インドのすべての住民〉を対象としていたが,実際には欧亜混血人がメンバーの大半を占めていた。政治団体であることを明言していたので,オランダ東インド政庁はその党則を認可せず,翌13年3月にこれを非合法団体と見なし,同年スワルディが当局を批判するパンフレットに発表した風刺論文〈もし私がオランダ人であったなら〉を理由に,3人の指導者をジャワ島外に追放した。…

※「スワルディスルヤニングラット」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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