インドネシア,ジャワ島中部の都市。Jogjakartaとも綴る。ジョクジャカルタ特別行政区の主都。人口39万2239(2003)。たえず噴煙をはくメラピ山(2911m)南麓の沃野に位置し,標高115m。ウィノンゴ,チョデなどの川が市を貫く。古くからヒンドゥー・ジャワ文化の中心地として栄え,マタラム・イスラムの王都が置かれたこともあり,日本の京都に比べられる落ちついた古都である。戦後1946-49年の混乱期には一時インドネシア共和国の首都ともなった。
ジョクジャカルタは8世紀以来ヒンドゥー・マタラム王国の根拠地となり,スリウィジャヤから来たと思われるシャイレンドラ朝の勃興につれて,780-850年ころ町の北西約40kmの地に,仏教遺跡ボロブドゥールが造られた。やがてシャイレンドラに代わったマタラム王国のサンジャヤ朝は市の東方17kmの地にプランバナンのヒンドゥー教遺跡群を残した。サンジャヤ朝シンドク王は天災または伝染病のために929年ころ都を東ジャワのクディリに移した。《ジャワ年代記》によれば,16世紀後半にジョクジャカルタ南東郊外のコタ・グデにキヤイ・グデ・パマナハンなる者が勢力を得,その子セナパティが再びマタラムの国号をもつ王国(マタラム・イスラム)を建てたと伝えられる。しかし彼およびその子パネンバハン・クラピアクについては不明の点が多い。コタ・グデの王宮には高い城壁が設けられたと伝えられ,現在もマタラム歴代王の墓所がある。クラピアクの子は1613年に即位してのちにスルタン・アグンと称した。オランダの根拠地バタビア(現,ジャカルタ)の攻撃に失敗した彼は,進路を東に転じてジャワ島の大半を征服したが,王都は彼の代に南方のカルタに移され,以後プレレッド→カルタスラ→スラカルタと,次第にジョクジャカルタから遠ざかった。1749年にマタラム王パクブウォノ2世が死去すると,その子パクブウォノ3世と前王の弟マンクーブーミとの間に王位継承の争いが起こった。オランダ東インド会社は前者を支持して戦ったが,勝敗が決しないので後者と交渉し,1755年に合意に達した。これによりマンクーブーミはマタラム王国の南西半分を得てジョクジャカルタに都し,スルタン・アマンクブウォノ1世と称することを認められた。その後1813年にスルタンの家系からさらにパクアラムPakualam家が分家し,スラカルタのススフナン家,その分家のマンクーヌゴロ家とともに4土侯と総称され,ある程度の自治を認められた。1825年から30年にかけて,スルタン・アマンクブウォノ3世の長男ディポネゴロは,王位継承権を無視されたことなど,オランダの支配に対する不満から反乱を起こし,多くの同志を集めて一時ジョクジャカルタ地区を制圧して,ヨーロッパ人や華僑多数を殺した。しかし,次第に形勢は逆転し,ディポネゴロは和平交渉中に捕らえられて追放され,反乱は終わった。この結果,ジョクジャカルタのスルタンは1831年の協定により,いっさいの外領をオランダに譲り,その代りに年金を得ることになった。オランダの支配はますます浸透し,新市街にはオランダ風の建築などもできてオランダ人居住者も多くなった。20世紀初頭の民族主義運動においてジョクジャカルタ,ことにパクアラム家の果たした役割は大きい。ブディ・ウトモ,イスラム同盟などの諸団体の一中心となり,タマン・シスワ,ムハマディヤらの教育・宗教運動もここから興った。このようにジョクジャカルタは,ジャワ族統一の象徴という性格をもつ都市といえよう。
市の伝統文化は南部にある王宮(クラトン)に負うところが大きい。これは1755年から建設が始められたもので,最奥部はなおスルタン一族の居所となっているが,他のおもな建物は観光客に開放されて王朝の貴重な遺品をみることができる。王宮の外側には宮廷従者の住宅などが並び,古い城下町の面影をよく残している。王宮前の広場を隔ててソノ・ブドヨ博物館があり,中部ジャワの文化的遺産を展示している。市はバティック(ジャワ更紗),銀細工,木彫品,さらに舞踊,ガムラン音楽など伝統芸術の宝庫である。特にバティックの工芸家多数が住んで新旧さまざまの製品を作り出し,コスモネガラ街には展示センターもある。南郊のコタ・グデは銀細工の中心を形成し,絵画も第2次大戦後特に発展してその展示場も設けられるなど,新旧おしなべて芸術的雰囲気が市にみちている。さらに国立ガジャ・マダ大学をはじめ,インドネシア・イスラム大学や国立図書館,進歩的教育団体であるタマン・シスワの本部もあり,学術・教育の一大中心ともなっている。王宮の西にはかつての離宮である水城(タマン・サリ)の遺跡があり,その一部は近年復元された。南海岸のパラントリティスは王朝と結びつく伝説の南海の女神ニヤイ・ロロ・キドールで知られ,メラピ山中腹のカリオランはジョクジャカルタの避暑地として有名。ジョクジャカルタはジャカルタから空路で1時間の距離にあり,近年は各地からの観光客でにぎわう。
執筆者:別技 篤彦+永積 昭
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インドネシア、ジャワ島中部の都市。ジョクジャカルタ特別地域の中心都市。ジョグジャカルタYogyakartaともいう。人口約47万0800(2001推計)、42万7801(2018推計)。絶えず噴煙を吐くメラピ火山南麓(なんろく)の平野に位置する。ウィノンゴ、チョデなどの川が市を貫いて流れる。肥沃(ひよく)な平野の中にあって古くからヒンドゥー文化の中心として発達し、その落ち着いた雰囲気は日本の京都に比べられる。ボロブドゥール、プランバナンなどの世界的に有名な文化遺跡にも近い。18世紀以後マタラム王国の首都となり、市の南部はいまもスルタンの王宮(クラトン)で占められ、それを中心に各種の建物、従者の住宅が建ち並び、昔ながらの城下町のおもかげを残す。王宮前の広場の北西を占めるソノブドヨ博物館は中部ジャワの文化的遺産を展示する。また王宮のやや西に水の王宮(タマンサリ)の遺跡も残る。市はジャワ更紗(さらさ)(バティック)、銀細工、彫刻などの伝統工芸品生産で知られ、ガムラン音楽、ワヤン劇などの古典芸術も保存され、古都としての雰囲気に富む。独立戦争当時(1946~1949)、一時インドネシアの首都となった。学問的レベルの高い国立ガジャマダ大学をはじめ、国立イスラム研究所もあってジャワ学術の一中心をなしている。南方のイモギリにはマタラム王国歴代の廟(びょう)がある。
[別技篤彦]
16世紀末以来、ジャワ中東部を領したマタラム王国は、王位継承の争いと、これに乗ずるオランダ東インド会社に圧迫され、しだいに勢力を失ったが、1755年には、スラカルタ、ジョクジャカルタの東西二つの独立国に分けられ、西半部にはスルタン・ハメンクブオノSultan Hamengkubuwono Ⅰのジョクジャカルタ統治が始まった。両家の関係は、その後もしばらく緊張が続いたが、ジャワ戦争(1825~1830)以後、オランダ政府は両家の領地を削り、新たに境界線を定めて不和に終止符を打った。ジョクジャカルタのスルタン領は、スラカルタのスフーナン領とともに、その後も侯領地vorstenlandenとして間接統治が認められ、第二次世界大戦に及んだ。
[中村孝志]
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中部ジャワに位置する人口約40万の都市。マタラム王国の発祥の地。その後同王家から分立したスルタン王家とパクアラム王家の王都となり,今日も両王家が存在。スラカルタと並んで中部ジャワの政治,文化の中心地である。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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