ドルジエフ(その他表記)Agvan Dorzhiev

改訂新版 世界大百科事典 「ドルジエフ」の意味・わかりやすい解説

ドルジエフ
Agvan Dorzhiev
生没年:1853-1938

20世紀初頭,内陸アジアで特異な政治力を発揮したロシア籍のラマ僧。ザバイカルのホリ・ブリヤート族出身。チベット名をガワン・ドルジェNgag dbang rdo rjeという。1873年チベットのラサへ遊学,ダライ・ラマ13世の知遇をえる。当時イギリスはチベット進出の機会をうかがっていたが,ドルジエフはイギリスの対抗勢力であったロシアへの接近策をダライ・ラマへ進言し,その実現に努めた。しかし彼の活動は,イギリス軍のチベット侵攻(1904)の原因となった。1911年清朝が崩壊し,モンゴル,チベットが独立を宣言すると,ドルジエフは〈汎ラマ教主義〉的信念にもとづきダライ・ラマの代理としてモンゴルへ赴いて,12年12月〈蒙蔵条約〉を締結,対等な独立国家として相互承認した。ロシア革命後も20年代前半まではブリヤートで宗教・文化活動家として活躍した。モンゴル文字のラテン字化運動でも著名である。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ドルジエフ」の意味・わかりやすい解説

ドルジェフ
Dorjeff

ロシア国籍のラマ僧。ブリヤート・モンゴル出身。チベット名はガワン・ロプサン Ngag dbang blo bzang。ウルガガンデン寺で教育を受け,1884年の N.プルジェワリスキーの探検隊に加わっていた。のちチベットのデプン寺に留学,ダライ・ラマ 13世 (→トゥプテンギャツォ ) の学問相手となり,信頼を得て側近となった。当時ダライ・ラマ 13世はイギリスの門戸開放要求に抗して親ロシア政策をとったが,その命で 1900,01年の2回,ロシア皇帝ニコライ2世のもとに使いした。このためイギリス側を刺激し,04年に F.ヤングハズバンドの率いるイギリス=インド軍のラサ進駐を招き,ダライ・ラマとともに外モンゴルに亡命した。

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百科事典マイペディア 「ドルジエフ」の意味・わかりやすい解説

ドルジエフ

ロシア籍のラマ教(チベット仏教)僧。ザバイカルのホリ・ブリヤート族出身で,チベットではガワン・ドルジェと呼ばれる。ダライ・ラマ13世の信頼を得,英国のチベット進出に対抗してロシアへの接近策を進言,英軍のチベット侵攻(1904年)のきっかけを作った。清朝崩壊(1911年)を受けて独立を宣言したモンゴル,チベットで,汎ラマ教主義を唱え,1912年,ダライ・ラマの代理として,モンゴルとの間にチベット・モンゴル条約を締結した。1920年代前半までブリヤート地方で活動したが,1937年逮捕され翌年死亡。モンゴル文字のラテン語化運動も知られている。

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