翻訳|Lamaism
チベット仏教に対する俗称。インド仏教の正統を継承するものであるが,この俗称のために異端もしくは変容のはなはだしい仏教であるかのように誤解されている。ラマbla maは〈師〉を意味する。〈ラ〉は〈生命の根元〉をいう名称。〈マ〉はそれを託された人の意味。密教ではとくに師と弟子の密接な関係を重視するところから,チベット仏教の特徴と誤解され,また,中国でチベット仏教の僧を〈剌麻(喇嘛)〉と呼び慣わしたところから,日本でもこの呼称が一般化した。
チベット人が仏教と接触したのは,ソンツェン・ガンポ王の晩年,唐とネパールから迎えられた王妃がそれぞれ,ラモチェ(小招寺),トゥルナン(大招寺)の2寺を建立したのに始まる。崇仏の習慣は王室に残され,710年にこの国に至った金城公主の影響でさらに盛んになった。その夫である王の晩年,タクマルに2寺が建てられ,仏教を学ぶために若者が数人唐に遣わされて成都浄衆寺の金和尚(無相)から禅の教えを受けて帰国したといわれる。ついで立ったティソン・デツェン王(742-797)は761年に仏教の国教化を決意して,使を唐やネパールに送り,インドの名僧シャーンタラクシタ(寂護)を迎え,パドマサンババ(蓮華生)の協力をえて775年からサムイェー大僧院群の建立にかかり,779年にチベット人の僧に初めて説一切有部の具足戒を授けて僧伽を発足させ,その指導下で梵語仏典を主とする訳経事業が始められた。786年敦煌が陥落すると,その地から招かれた漢人僧摩訶衍(まかえん)が利他行を重視した不思不観の禅の教えを流行させたので,インド系仏教徒との間で宗論が起った。王はインドから寂護の弟子の巨匠カマラシーラ(蓮華戒)を招いて摩訶衍を論破させ,インド仏教を正統とした。
この論争では,中国仏教は,他を救うことを目的とした大乗仏教から自ら救われることのみをいう教えに変質していると指摘され,さらに,人間は本来仏の素質をもっているとする如来蔵思想の一つの傾向から禅宗の実践ではインド仏教の瞑想法に特有な教理に凝念する態度が捨てられ,不思不観が勧められたので,それでは般若の智慧が得られないとして非難された。
蓮華戒は,その師寂護とともに,外界の真相は直覚されるものではなく,推論によってしか把握されないとしたうえで,外界の事物の上に想定される極微(原子)には一個のものとしての特質が認められないとし,さらに,それを認識する主体にもそのような特質がありえないとして〈空〉の教理を主張した。彼らは唯識(瑜伽行)派の考え方を中観派流に考え直すことも求めたが,瑜伽行中観派と呼ばれてチベット後代の仏教思想一般に大きな影響を残した。
王没後の8世紀末に多少の混乱もあったが,9世紀に入ると,僧団指導者たちが国政の頂点に立ち,ティデ・ソンツェン(742-815)王のもとに王公高官を集めて先王のときサムイェーで行ったように崇仏を誓わせ,また,訳経用語を統一して翻訳仏典を校訂させた。815年幼王ティツク・デツェン(806-841)が立つと,僧たちの指導で821年に唐との和平が実現し,824年もしくは836年ころには《大蔵経》の主要経典をほとんど訳出して,このことを示す《デンカル目録》が編纂された。その他,僧1人に隷家7戸を与える特権を設け,造寺,造仏につとめたため,財政負担がかさみ,国論が分かれ,このためティツク・デツェンのあとを継いだダルマ王が殺害された。翌843年王位継承をめぐって王室は南北に分裂し,崩壊した。
王朝が滅び,国家による援助と規制とがなくなると,禁制のタントラ仏教(密教),禅宗,ボン教が復活して民間に蔓延し,一部に混交もあったが,その間に仏教信仰のゆるがぬ基盤が固まった。11世紀に入ると,東北チベットに吐蕃(とばん)王家の末裔が建てた青唐王国が興り,仏教は昔日の繁栄をとり戻した。同じころ,西チベットに移っていた南朝系の子孫も勢力を回復して仏教再興に手を貸した。中央チベットでは諸氏族の勢力が安定してくると,混乱した仏教に対する批判と反省が生まれ,北朝系の末裔が援助して,各地に僧団を再興させた。そのころ招かれて西チベットに至っていたインドの名僧アティーシャを,後のカダム派の開祖ドムトゥン等が中央チベットに案内した。アティーシャは大衆部の戒を受け,中観帰謬論証派の見解をもって当時流行の無上瑜伽タントラの実践に熱心であったが,彼を招いてその弟子となった人々は,多く無上瑜伽タントラ以上を修めようとしないで,顕教のみを学んだものもあった。アティーシャの傾向に近い態度をとった人々も俗人にしか許されない無上瑜伽の実践をさけて,僧団の構成員としての具足戒をしだいにとるようになった。彼等は11世紀以前の混乱期における破戒無愧の仏教に懲りて,吐蕃時代以来の寂護,蓮華戒によって説かれた瑜伽行中観派の仏教をもっぱら奉じた。
当時インドでは無上瑜伽タントラが流行して,インドに留学してそれらをチベットに広めたマルパ(1012-97)や,その弟子ミラ・レーパ(1040-1123)などと,サキャ派のように吐蕃時代のタントラ仏教と新しい無上瑜伽タントラを併せ説いたもの,吐蕃時代の無上瑜伽タントラと南宗禅由来の見解を継承した古派,捨身供養をタントラ仏教的観想法によって意義づけたシチュー派などが発生した。アティーシャの傾向に近い弟子の系統から,後にガンポパ(1075-1153)のような無上瑜伽タントラ系の不思不観の瞑想法をとり入れるものも現れた。この一派は多くの追随者を集めたので,カギュー派と呼ばれ,アティーシャの弟子一般をカダム派と呼んだのと区別される。
サキャ派も顕教上の見解としては瑜伽行中観派の立場を保っていたが,密教の実践を本旨とした。しかし,1204年にチベットに亡命して,インド仏教最後の伝統を伝えたシャキャシュリーバドラ(1127-1225)に接触した後は,従来の密教のみの立場を改めて顕教,つまり仏教教理の哲学的研究にも熱心な宗派に変わった。14世紀にはタントラ仏教を学ぶものの間にもプトゥン(1290-1364)のような優れた学者が現れ,現実には中国や日本のように瑜伽タントラの実修を重んじ,無上瑜伽タントラのもつ問題点の克服に関心を寄せはじめた。当時流行した《時輪タントラ》由来の瞑想法にも関連して,すべての人間にあるとされる〈如来蔵〉,つまり仏となる素質が経典に説かれた真意は何にあるのかとの議論がおこった。後年,ターラナータを出すチョナン派では,〈如来蔵〉は真理として恒常不変に実在するものであると主張し,大乗仏教でいっさいのもののあり方にはそのもの固有の特質がないとされた〈空〉の原則に背く説明を示した。これに対してプトゥンは,他人の人格を尊重しみずからが修道にひるむことのないように督励するための手段としてこの〈如来蔵〉が説かれたのであり,真理の実体視は仏教では認められないと説明した。チベット仏教では,この見方が正統の説とされ,もちろん,中国や日本に見られるようないわゆる〈本覚思想〉にいたっては古派以外では論じられなかった。
チベットがモンゴル人に侵されたとき,当時チベット仏教界第一の学者であったサキャ・パンディタがクテン(闊端)王のもとに呼ばれてその命令を受け,さらに元朝になると,その甥のパクパ(1235-80)がフビライの信任をえて帝師となり,チベットの寺院社会のために多くの特権をとりつけ,その発展に貢献した。代々帝師を宮廷に送りこんだサキャ派は経済的にも潤ったが,後宮がタントラ仏教の卑猥な面を喜ぶのに迎合してその滅亡を早めた。このことを戒めとしていた明朝も,永楽帝時代にチベットに対して積極的な懐柔政策をとりはじめると,特に青海やカム(喀木)地方で寺院を擁していた民族が,通貢の利得をねらって宮廷に入りこみ,約1世紀にわたって後宮の猥褻(わいせつ)な要請におもねり,歴代皇帝を惑乱して,チベット仏教を淫祠邪教とするぬぐいがたい印象を中国に残した。
15世紀初めころ,ツォンカパと呼ばれる天才的な僧が現れて,ラサの東方40kmの地にガンデン大僧院を建て,ゲルー(〈徳行〉),あるいは黄帽派ともいわれる一宗を開いた。青海の西寧近くに生まれ,中央チベットに出て,西寄りのツァンに赴き,サキャ派のレンダーワ(1349-1412)などに師事して顕密2教,特に中観帰謬論証派の哲学やタントラ仏教を学んだ。この派では,先にみた瑜伽行中観派を含む自主論証派が,一般の人に知覚される現実の世界をその固有の様相の下で生滅するものと認めたのに従わないで,この現象世界も幻のように現れているだけで,言葉に寄せられた観念と相応する実体的な生滅が現実にあるわけではなく,真実の世界と区別されないと主張した。ツォンカパは,小乗仏教以来の僧団の戒律を重んじて,中観帰謬論証派の立場からタントラ仏教の解釈学を徹底させ,そこに含まれていた戒律に触れる性的実践との関与をいっさい絶った。その上で顕教による般若波羅蜜の修習を終えた者のうち,きわめて優れた素質のあるものが,利他行を完成するためにこの世で一切智者(仏)の境地に到達しようとするとき,無上瑜伽タントラの実習が許されるとした。
この結論は,小乗,大乗,金剛乗の三乗を統合しようとするアティーシャ以来のインド仏教最終期の懸案に答えたものであったから,その宗旨は〈新カダム派〉とも呼ばれた。ツォンカパの示した膨大な著作はインド大乗仏教の多年の宿題に対する一つの優れた答案であったが,以後にサキャ派のコラムパ・ソナム・センゲ(1429-89)やシャキャ・チョンデン(1428-1507)などから反論や批判が寄せられ,傾聴すべき意見も示された。17世紀後半に至るとジャムヤン・シェーペー・ドルジェ(1648-1722)が現れて,ツォンカパの見解をその由来とともによく祖述した。ついで現れたチャンキャ・ルルペー・ドルジェ(1717-86)は,清の乾隆帝に仕えてその宗教政策を扶翼したが,ツォンカパ思想のすぐれた解明者として,その批判説の多くを排除し,すぐれた祖述者の役割を果たした。
チベット仏教はインド仏教以来の救う者としての教団仏教の伝統を保ち続け,高踏的な立場に立った。他方,民衆の方は加護を求めるのみの存在として高級な教理とはまったく無縁のままに,トゥルナンの釈迦牟尼仏などの仏像や著名な転生活仏に信仰を寄せ,マニ輪を回して仏を念じ,貧困の中から布施に励み,もっぱら教団社会を支える存在として俗信の中に生きた。そのような無知と表裏一体の信仰の上に転生活仏などの特異な社会ができあがったのでもあった。
執筆者:山口 瑞鳳
黄帽派(ゲルー派)ラマ教がチベットの外へ最初に広まった地方はモンゴリアである。16世紀中ごろから黄帽派信仰が内モンゴリア西部のモンゴル貴族の間に流行しはじめ,ついに1578年大酋アルタン・ハーンは青海湖畔でダライ・ラマ3世に謁してその施主となるにいたった。ハーンの黄帽派への帰依はモンゴリアへのラマ教弘通の重大な機縁となった。ハーンはそのおりダライ・ラマに対しみずからの都のフフホトに一寺を建立することを誓ったが,これが今に残るイフジョー(大召)である。これを皮切りにフフホトにラマ廟の建立があいつぎ,清代には20を超えるラマ廟があったという記録がある。清朝政府はそれらを統轄するため掌印ラマを置いたが,このラマの歴代はイフジョーに駐錫するものとされた。清朝は内モンゴリアのラマ教界全体の統轄者として17世紀末以来チャンジャ・フトクトを置き,この歴代活仏のために彙宗寺と善因寺を建立してこれに駐錫せしめた。このほかにも清朝はチベット族,モンゴル族を懐柔するため,盛んにラマ廟を建立したが,なかでも名高いのが北京の雍和宮と承徳の外八廟である。
以上のように,モンゴリアでラマ教が最も早く定着したのはフフホトであるが,ここはその後モンゴリアの奥地へのラマ教伝播のための基地となった。例えば外モンゴリアの場合,最初に黄帽派に帰依したのはアバダイ・ハーンとされるが,この王はフフホトから来た隊商からアルタン・ハーンの信仰のありさまを聞いて初めてラマ教に関心を引かれ,ついにアルタン・ハーンに請うてゴマンナンソというラマ僧を派遣してもらい,この僧のおかげで信仰に入ったという。次いでアバダイ・ハーンは1587年にフフホトの近くでダライ・ラマ3世に謁し,その施主となることを誓った。このときハーンはダライ・ラマから一体の仏像を授けられたが,帰郷後これを安置するために一寺を建立した。これが外モンゴリア最古の今に残るエルデニ・ズーである。17世紀後半にアバダイ・ハーンの曾孫にボグドゲゲンと呼ばれる活仏が出て,ダライ・ラマ5世の指導の下に黄帽派の普及に尽力した。清朝もこの活仏を手厚く保護したので,その晩年に当たる18世紀初めには,外モンゴリアでのその勢威は並びないものとなった。ボグドゲゲンは以後8代続き,1924年に廃止されるまで,外モンゴリアの政教両界の長の権威をほしいままにした。
オイラート族のラマ教もフフホトを経由して17世紀初めに初めて伝えられたものであるが,それにはフフホトの活仏トンコル・フトクトの布教によるところが大きい。オイラート文字の発明者としてモンゴル文化史上名高いザヤパンディタもこのフトクトについて出家したものである。17世紀後半には,オイラート族の統一国家ジュンガル王国の君主ガルダンがダライ・ラマ5世のために北アジアに一大ラマ教王国の樹立を目ざして活躍したが,清の康熙帝に敗れて夢はならなかった。オイラート族の一部は17世紀初めにロシア領内のボルガ川下流域地方へ移住して,ボルガカルムイクと呼ばれ,ラマ教信仰を守ったが,今はカルムイク共和国を作っている。
ザバイカル地方のブリヤート族の間に黄帽派ラマ教が広まったのは18世紀前半からであるが,普及の速さはめざましく,1846年にはザバイカル全体でラマ廟34,ラマ僧4500余人,信者12万余人を数えた。ラマ教界の統轄者としてパンディタハンボラマが1764年以来置かれ,その歴代の就任には帝政ロシア政府の承認を必要とされた。アルタイ山脈北麓のトゥバ地方は今のトゥバ共和国であるが,ここにもラマ教が外モンゴリアから伝来した。ラマ廟の建立が始まったのは18世紀70年代からで,その後1世紀半の間にその数は22に上ったとされる。以上に取り上げた諸地域は今日いずれも社会主義体制のもとで,ラマ教はほとんど廃絶に等しい状況にあったが,1980年代末ころから復活の動きがみられる。
→仏教
執筆者:若松 寛
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…村の従来のリーダーは世襲または選出のムルミmulmiまたはムキヤmukhiyaであるが,今日では選挙による行政村の長プラダン・パンチャpradhan pancaの力も増している。宗教面ではラマ教が主体であるが,シャマニズムなども見られ,ヒンドゥー的要素も入っている。【石井 溥】。…
… 一方,西部はモ,ウォンなどガンガダール水系の上流域からなるが,北西国境のすぐ外側をインドとチベットを結ぶ重要交通路が走っていることもあって,北から南下したチベット系住民を主とする。彼らはラマ教の紅帽派に属し,ブータン人口の約60%を占める。ブータン人とは一般に彼らを指し,男は丸坊主頭でひざまでの短い丹前に似た筒袖の着物に帯をしめ,また女はおかっぱ頭で裾の長い着物の上にブラウスをはおっている。…
… チベットには,7世紀にネパール,中国を経由して仏教が伝えられた。8世紀に至って,パドマサンババが密教を移入し,民族宗教であるボン教と習合してラマ教が形成された。9世紀の中ごろ,仏教は迫害を受け一時勢力を失ったが,11世紀ころから復興し,ラマ教が大いに発展した。…
…都城の建築は早くからあったらしいが,ウイグル時代より大きな都城建設がみられ,例えばウイグルのオルド・バリク,遼の上京臨潢府(じようけいりんこうふ),モンゴルのカラコルム等は大規模なものとして知られる。また16世紀以降モンゴリアにラマ教(チベット仏教)が浸透したことから,各地に多くの寺院が建設され,のちにはこれを中心に都市が発達する例も多くみられた。 モンゴリアの遊牧民の宗教は古くはシャマニズムであった。…
※「ラマ教」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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