チベット仏教(読み)ちべっとぶっきょう(英語表記)Tibetan Buddhism

日本大百科全書(ニッポニカ) 「チベット仏教」の意味・わかりやすい解説

チベット仏教
ちべっとぶっきょう
Tibetan Buddhism

チベット系統の仏教のこと。チベット系仏教は、チベット本土のみならず中国、ロシア、モンゴリアブータンシッキムラダックネパールなど広範囲な地域に宗教文化圏を形成する。かつては、これをラマ教喇嘛教)と総称してきた。

[川崎信定]

ラマの語義

ラマbla maはチベット語で師匠、上人(しょうにん)の意。チベットの仏教は、インドの後期密教(タントラ仏教)のグルguru(師匠)信仰の影響を受けて、師匠を尊崇し師匠から弟子への伝承を重んずる傾向が強い。またダライ・ラマ、パンチェン・ラマをはじめとする活仏(かつぶつ)に対する信仰も顕著である。「ラマ教」とはこれらの事実に印象づけられた中国人・西洋人のつけた呼称である。元(げん)・明(みん)代の中国文献ではチベット僧のことを剌麻(らま)または喇嘛(らま)と記す。日本では江戸幕府の書物奉行(ぶぎょう)近藤守重(もりしげ)(重蔵(じゅうぞう))にラマの語源を考証した『喇嘛考』(1812?)1冊があり、1877年(明治10)には真宗大谷(おおたに)派の僧小栗栖香頂(おぐるすこうちょう)が『喇嘛教沿革』3巻を著している。西欧ではケッペンの『ラマの聖職者支配と教会』(1859)においてラマイスムスLamaismus(ドイツ語)として使われたのがもっとも古い語例とされる。ただしチベット人自身は自分たちの宗教をチョエ(法)、サンギェキテンパ(釈尊の教え)とよび、自分たちを仏教徒を意味するナンパとよんで、仏教から逸脱した特異な妖教(ようきょう)を印象づけるおそれのある「ラマ教」の呼び名を嫌うので注意を要する。

[川崎信定]

歴史

仏教伝来以前からチベットには、呪術(じゅじゅつ)的な要素が濃厚なボン教がある。

 チベットには伝説上に27神王があり、その最後のハ・トトリニェンツェン王の宮殿に天から経文と仏塔を納めた箱が降ってきたという。この王から5代後に出たソンツェンガンポ王は7世紀前半に大臣の子トンミサンボータなど少年たちを仏教学習のためインドに派遣し、チベット文字創案の端緒を開かせたり、経典翻訳の本格化、16か条の道徳憲法の制定をなしたと伝えられるが、時代的にも日本の聖徳太子とほぼ同時期にあたるためその事績の類似は興味深い。王はまた唐朝、ネパール王朝から后(きさき)を迎え、両王妃によりそれぞれラサに仏教寺院が建立された。8世紀なかばチソンデツェン王は国力を増大させ、インドから大学僧シャーンタラクシタ(寂護(じゃくご))を招き、霊力ある密呪者パドマサンババ(蓮華生(れんげしょう))の協力のもとにサムエ寺を建立し、授戒や翻経(ほんきょう)など仏教普及の基礎が据えられた。中国禅僧大乗和尚(ハシャン・マハーヤーナ)とインド僧(カマラシーラ)との論争(794年とされるサムエ寺の法論)を経て中国禅の勢力が放逐され、インド系統の仏教が正統の国教として地位を獲得した。その後もインドの翻訳僧を迎え仏教は興隆したが、9世紀中葉のランダルマ王の破仏により衰退した。チベット仏教史では、以上までを前期弘通(ぐづう)時代とし、1042年インドから入国したアティーシャの仏教復興運動以降を後期弘通時代として区分する。アティーシャは正法護持と戒律復興を唱えたが、その思想的影響のもとにカーダムパ派(カーダム派)が設立された。そのほかにも顕密融合(けんみつゆうごう)のカーギュッパ派(カギュ派)、サキャパ派(サキャ派)、チョナンパ派(チョナン派)や、旧来の仏教の活性化としてのニンマパ派(ニンマ派)、シチェパ派(シチェ派)などの諸宗派が生まれた。マルパによって広められたカーギュッパ派のミラレパの苦行体験と彼の詩は民衆に広く親しまれたし、また13世紀にはサキャパ派のパクパパスパ。八思巴(はすぱ))が元朝の帝師(ていし)として絶大な影響力を行使した。

 14世紀末、アムド地方に出たツォンカパは、俗権と結び付いて退廃化し祈祷密呪を偏重する旧来の仏教の改革を開始した。彼はアティーシャの法脈を継承することを宣言し、僧侶(そうりょ)の徳行を重んじ、密教の基本としてまず般若(はんにゃ)・中観(ちゅうがん)の教理の徹底的学習を主張する顕密兼修の新カーダムパ派(別名ゲルクパ派、ゲルク派。「善き行いの者」の意)をラサ郊外のガンデン寺におこした。旧来の宗派の僧が紅帽(こうぼう)をかぶり紅帽派とよばれるのに対し、ツォンカパの新派は黄帽(こうぼう)を用い黄帽派とよばれる。カーギュッパ派からはカルマパ派(カルマ派)が分派して地方諸侯・貴族勢力と結んで教圏を拡張させ、ゲルクパ派はこれと対抗してモンゴル諸部族との結合を強め政治権力も掌握していった。カルマパ派は、独身である教団宗主(そうしゅ)の地位継承のために転生活仏(てんしょうかつぶつ)という生まれ変わり制度を創始し、他宗派も採用した。なかでもゲルクパ派における宗主・ガンデン寺座主(ざす)はダライ・ラマの称号でよばれ、第5代のガワンロサンギャツォが1642年にチベット全土の聖俗二権を掌握するに及んでチベットを支配する法王の号となった。現在の第14代ダライ・テンジンギャツォは1959年にインドに亡命し北インドのダラムサラにチベット亡命政権を樹立して今日に至り、その指導のもとにインドをはじめ世界各地にチベット仏教各宗派の伝統保持のためのチベット人コロニーや文化センターが設立されている。一方、中国の西蔵自治区には当局の規制にもかかわらず、長年の仏教伝統と習慣が民衆の間に根強く残っている。

 チベット仏教は、インドの大乗仏教の高度に発達した教理と密教修法の最終段階を継承したものであり、インドで仏教が滅んだのちにも独自の発展を遂げ今日まで受け継いでいる。膨大な西蔵大蔵経(チベットだいぞうきょう)と、蔵外(ぞうがい)文献とよばれるチベット人による貴重な著作も現存し、チベットは仏教研究者のための宝庫となっている。

[川崎信定]

『R・A・スタン著、山口瑞鳳・定方晟訳『チベットの文化』(1971・岩波書店)』『山口瑞鳳著『チベット』上下(1982、83・東京大学出版会)』『田中公明著『チベット密教』(1993・春秋社)』『立川武蔵・頼富本宏編『シリーズ 密教(第2巻)チベット密教』(1999・春秋社)』『多田等観著『チベット』(岩波新書)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「チベット仏教」の意味・わかりやすい解説

チベット仏教
チベットぶっきょう
Tibetan Buddhism

ラマ教とも呼ばれるが,それはヨーロッパ人のつけた俗称で誤解されやすい。8世紀後半に国教としてインドのナーランダ僧院系の仏教が有部律とともに導入され,シャーンタラクシタカマラシーラは瑜伽行中観の教えを説き,禅を排し,タントラ仏教の普及を警戒した。9世紀中頃,吐蕃王国が滅びると,拘束を解かれてタントラ仏教が普及し,ポン教との習合も行われ,低俗化をきわめた。 10世紀末頃からこのような傾向の反省が始り,カム地方に伝えられた有部律が中央チベットに再びもたらされ,西チベット王の周辺にも同じ反省に立つ人々がインド,ネパールに仏教を学び,ビクラマシーラからアティーシャを招いたが,大衆部律を受けず,無上瑜伽タントラの実修はためらった。これとは別に無上瑜伽の実修に挑んだ新旧3派があってタントラへの関心は衰えなかった。しかし,カーダム派はもとより,カーギュ派も 12世紀中頃教団化して初めて発展し,サキャ派シャキャシュリーバドラの影響を受け,新しい戒のもとに顕教重視型の新傾向に転じて栄えた。そのうちのあるものは中観帰謬論証派の教えを奉じ,ツォンカパの教学形成に深く関与した。ツォンカパの宗教改革はアティーシャの理念を受継ぎ,諸派のうちに雑然として受入れられた戒律,顕教,密教を三乗会通の体系にまとめ,無上瑜伽タントラを教団仏教の枠にはめて処理したものであった。こののち勢力を拡大した黄帽派は政治的な理由によってその他の諸派と対立したが,1642年ダライ・ラマ政権を樹立して黄帽派絶対優位の社会をつくり,転生者ダライ・ラマに黄帽派を実質的に代表させるにいたった。チベット仏教の特質は,中国仏教のようにそれを大きく変容させる文化的基盤がなかったので,いわばインド仏教の移植に近く,また,中国仏教が8世紀以前のインド仏教に由来したのに対して,むしろ,その後のものに由来し,インド仏教がその末期にかかえていた問題を引継ぎ,その解決を迫られ,答案を示したものである。

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