ニハーワンドの戦(読み)ニハーワンドのたたかい

改訂新版 世界大百科事典 「ニハーワンドの戦」の意味・わかりやすい解説

ニハーワンドの戦 (ニハーワンドのたたかい)

642年,アラブ軍がササン朝ペルシア軍を破った戦い。639,640,641年などとする説もある。アラブ軍の主将はヌーマーンal-Nu`mān(?-642)。ニハーワンドNihāwand(ペルシア語ではネハーベンドNehāvend)はイラン高原からイラク北部に抜ける交通路上のザーグロス山中の要所である。イラクを制圧したアラブ軍に対して,イラン高原に退いた皇帝ヤズダギルド3世が最後の決戦を挑んだ。この敗北により,ペルシア軍の組織的抵抗は終わり,ササン朝は事実上滅亡した。
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百科事典マイペディア 「ニハーワンドの戦」の意味・わかりやすい解説

ニハーワンドの戦【ニハーワンドのたたかい】

642年,ヌーマーンal-Numanの率いる新興アラブ・イスラム軍侵攻を阻止するため,ササン朝のヤズダギルド3世の大軍が,イラン西部のニハーワンドNihawand(ペルシア語ネハーウェンドNehavend)で迎撃した戦い。ササン朝軍は大敗,事実上王朝は滅亡した。
→関連項目ササン朝

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世界大百科事典(旧版)内のニハーワンドの戦の言及

【ササン朝】より

…しかし,636年にはイスラム勢力の侵入が始まり,翌年カーディシーヤの戦でペルシア軍が敗北し,首都クテシフォンも奪われた。ヤズダギルド3世はメディアに移って再起をはかったが,642年にニハーワンドの戦に敗れ,651年メルブで暗殺された。王子ペーローズ(卑路斯)は中国に逃れ,唐朝の支援を受けてササン朝の回復を企てたが,成功をみないで672年に没した。…

※「ニハーワンドの戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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