翻訳|Iraq
西アジアに位置する国。正式名称はイラク共和国Al-Jumhūrīyah al-‘Irāqīyah、英語ではRepublic of Iraqという。北はトルコ、東はイラン、西はシリアとヨルダン、さらに南はサウジアラビアとクウェートに接し、南部の一部がペルシア湾(アラビア湾)に臨む。面積43万8317平方キロメートル、人口2899万3000(2007推定)、人口密度は1平方キロメートル当り66人。首都はバグダード。
古くはメソポタミアとよばれ、肥沃(ひよく)で広大なティグリス、ユーフラテス両川流域を主要部とする農業国であったが、20世紀になり豊かな石油資源を背景に工業化に積極的に取り組むようになった。政治的には1958年の革命(イラク革命)で王制から共和制に転換したが政情不安が続いた。しかし、1968年のクーデターで生まれたバース党のバクル政権は、1970年代後半から比較的安定した基盤を得た。1979年にはサダム・フセインが大統領に就任し、イラン・イラク戦争(1980~88)、湾岸危機・湾岸戦争(1990~91)を経て長期政権を維持したが、2003年のイラク戦争でアメリカ・イギリス両軍の攻撃を受け、フセイン政権は崩壊、連合国暫定当局(CPA)から暫定政府、移行政府による統治機関を経て、新政府が2006年に発足した。
[原 隆一・吉田雄介]
イラクは大別して三つの地域に分けられる。国土の中央部を流れるティグリス、ユーフラテス両川流域、北から北東を限るクルディスターン地方の山岳地域、ならびに西部、南西部を占めるシリア・アラビア台地の砂漠地域である。なかでもティグリス、ユーフラテス両川流域のメソポタミア平原はイラク総面積の82%を占め、イラクの自然環境のなかでもっとも重要な意味をもっている。この両川流域は、ティグリス川沿岸のサマッラー、ユーフラテス川沿岸のヒートを結ぶ線でさらに上流域と下流域に分けられる。上流域は標高500メートル前後の起伏の多いジャジーラ丘陵となり、流出口のない無数のワジ(涸(か)れ谷)のつくった小盆地を形成している。下流域は沖積平野となり、両川からの灌漑(かんがい)によりイラクの農業の中心地帯となっている。ティグリス、ユーフラテス両川が合流したあとのシャッタル・アラブ川沿岸はアシの生い茂る沼沢地帯を形成している。クルディスターン山地はイラン、トルコの国境に接し、イランのザーグロス山脈に連なる急峻(きゅうしゅん)な褶曲(しゅうきょく)山脈で、標高3000メートルを超える高山もみられる。ティグリス川の本流やその支流の大ザーブ川、小ザーブ川などが流下し、大小ザーブ川の谷が貫く平原一帯が古代のアッシリアの地である。イラクの西部、南西部を占める砂漠地帯は、ユーフラテス川下流低地からしだいに高くなり、標高1000メートルまでの高原を形成している。北部がシリア砂漠の延長であり、南部のヒジャーラ砂漠はサウジアラビアのネフド砂漠の北縁となっている。砂漠地帯にはメソポタミア平原に向かって多くのワジが刻まれ、最大のワジ・ハウラーンは全長480キロメートルに達する。
気候は、低地では5月~10月の乾燥し暑さの厳しい夏と、12月~3月の比較的温暖で湿潤な冬との対照的な二つの季節がある。山地では冬は寒さが厳しい。バグダードの年平均気温は22℃であるが、7月の平均気温は34.2℃で、日中は日陰でも43℃に達する。このため住民は暑さを逃れるため昼間は地下室で過ごす。最低平均気温は1月の8.5℃で気温差は大きい。1921年7月8日バスラで観測された58.8℃は世界最高記録である。降水量は、クルディスターン山地では年間400ミリメートルを超えるが、南西部へ向かうにつれてしだいに減じ、バグダードでは150ミリメートル前後にすぎない。砂漠地帯ではさらに乾燥し、農耕の不可能な不毛の地となる。ティグリス、ユーフラテス両川をはじめとしてその大小の支流は、クルディスターン山地やトルコの山地、高原の降水を集め、豊かな水量に恵まれている。
[原 隆一・吉田雄介]
メソポタミアは世界最古の文明を擁した地である。紀元前3000年、シュメールは自らの文字をもつ独自の文化を築いていた。続いてユーフラテス川流域にバビロニア王国、新バビロニア王国が、ティグリス上流にアッシリア王国が興って栄えた。しかし、前539年イランのアケメネス朝ペルシアが征服して以後、イラクはアレクサンドロス大王、パルティア、ササン朝ペルシアなど外部勢力の侵入、支配を受けた。7世紀なかばイスラム教がアラビア半島におこり、イスラム教徒団はイラクを支配していたササン朝軍を破り新時代を開いた。ウマイヤ朝時代にはイスラム帝国の中心はシリアに置かれたが、749年からアッバース朝時代が始まると、首都はイラクのクーファ、そしてバグダードに置かれ、唐の長安、ビザンティン帝国のコンスタンティノープルと並ぶ繁栄を享受した。その後この王朝はしだいに勢力を失い、イラン、中央アジア、エジプト、北アフリカに続々と独立政権ができ、経済上の中心もエジプトに奪われることになった。1258年アッバース朝はモンゴル軍に滅ぼされ、バグダードは殺戮(さつりく)と破壊によって荒廃した。さらに14世紀末にティームールの率いるモンゴル軍が攻め寄せ、生命線ともいえる灌漑施設を破壊した。1534年から第一次世界大戦に至るまで約400年の間、イラクはオスマン・トルコの属州としてその支配下に置かれた。その間トルコ軍とサファビー朝のイラン軍との戦いの戦場となることも多かった。
第一次世界大戦の際にはトルコがドイツ、オーストラリア側について参戦し、イギリス・インド軍がバスラ付近に上陸、1918年トルコを制圧しイラクの大部分を占領した。このころ国内では民族運動が高まり、多くの地域で反乱が生じた。1920年サン・レモ会議でイラクの委任統治権を認められたイギリスは、メッカのハーシム家のファイサルを国王として迎え委任統治を実施した。ファイサル国王はその後たびたびイギリスとの条約を改定し、独立への歩を進め、1932年国際連盟に加入して念願の独立を果たした。第二次世界大戦そして戦後の混乱ののち、石油収入で国民経済も潤い始めた1953年、若いファイサル2世が即位した。国王の完全な支持のもとでヌーリー・アッサイードが首相として独裁的な敏腕を振るい、政局も安定するかに思われた。しかし1958年7月、アブドゥル・カーリム・カセム准将の率いる軍事クーデターが成功し、国王、皇太子、多くの皇族と首相らが殺害され共和国政権が樹立された。
1958年クーデターで君主制から共和制に変わったイラクのカセム政権は、バグダード条約(後の中央条約機構CENTO(セントー))から脱退、中立主義的かつソ連寄りの政策を推進した。その後、国内では、軍部の反乱、共産党勢力の増大、クルド人の反乱、対外的には、イランとのシャッタル・アラブ川の領有権問題、クウェート併合などをめぐって、指導者層に対立が起こり政情不安が続いた。そして1963年2月バース党将校団によるクーデターでカセム政権は崩壊した。新政権の大統領アレフはまもなく軍と協力して、バース党勢力の一掃に成功した。この結果、親エジプト派が台頭し、単一政党「アラブ社会主義者連合」の設立、重要企業の国有化など一連の社会主義的政策が打ち出された。何度かの政変ののち、1968年7月穏健派のアハマッド・ハッサン・バクル将軍らによるクーデターでバース党政権が成立した。バクルが大統領に就任し、9月には暫定憲法が公布された。しかしバース党内の内紛は激しく、クーデター未遂事件は後を絶たなかった。1972年ソ連との友好協力条約に調印、ソ連の影響下に置かれたイラクと、アメリカの勢力下にあるイランとの対立という図式が定着した。こうした情勢を背景に、かねてより懸案のイラク石油会社(IPC)の国有化を断行したが、それに伴う大幅な原油生産量の減少は国民経済を圧迫した。しかし一方、西側大手石油資本との紛争は国内世論の統一と民心の結束に役だち、バクル政権の安定に寄与した。
1973年10月、第四次中東戦争を機にパーレビ国王のイランと国交を回復し、1975年両国間の国境紛争に終止符を打った。これによりイランは、イラク領内で自治権を要求して武装決起した少数民族のクルド人への支援を停止した。同時にイラク政府軍はクルド人に総攻撃を加え、15年間にわたったクルド人の解放闘争はいちおう鎮圧された。中東諸国のなかでもっとも親ソ的だとされたイラクとソ連の関係は、1978年に入ってから悪化した。対外政策の相違やソ連一辺倒からの脱皮といった原因のほかに、ソ連によるイラクのクルド人への支援もイラク政府を刺激した。1978年エジプト・イスラエル平和協定や1979年イラン革命など激動の中東情勢のなかで、1979年7月、11年間の長期政権を維持した大統領バクルが健康上の理由で引退、後任には実質上実権を握ってきたサダム・フセイン革命評議会副議長が就任した。以降、共和制のかたちをとりながらも、実質は大統領フセインの独裁体制が強化されていった。
1980年9月、革命後の混乱にあるイランとの間で、国境問題に端を発したイラン・イラク戦争が勃発(ぼっぱつ)した。戦争は長期化し、双方多大なる人的・物的損害を出して、1988年8月に停戦に至った。また、1990年8月にはイラク軍がクウェートに侵攻した。これに対して国連安全保障理事会はただちに対イラク経済制裁、クウェート併合無効を決議した。1991年1月17日、アメリカを主体とする多国籍軍による湾岸戦争が始まり、ハイテク兵器の攻撃によってイラク軍は潰走(かいそう)、26日にクウェートは解放された。4月11日、停戦が成立。戦後、イラク北部のクルド人自治区には、クルド人を保護すべくイラク軍の飛行禁止空域を定めて「安全地帯」が設置された。しかし、1996年8月にはクルド民主党(KDP)とクルド愛国同盟(PUK)との対立から、KDPの支援要請を受けてイラク軍がクルド人自治区に侵攻した。直後に、アメリカが武力行使を決定、イラクの防空施設に計44発の巡航ミサイルを打ち込み、イラク軍は数日で撤退した。また、湾岸戦争後の経済封鎖によって国内経済・産業は壊滅的な打撃を受け、治安も極度に悪化。1996年12月にはフセインの長男ウダイが襲撃される暗殺未遂事件が起こった。2002年には大量破壊兵器をめぐる国連査察が再開されるなどしたが、フセインは非協力的な態度をとり続け、国際的に孤立していく。2003年3月アメリカの最後通告に対してフセインは亡命を拒否、同月20日アメリカ・イギリス軍のイラク攻撃によりイラク戦争が始まった。同年4月には、アメリカ・イギリス両軍が首都バグダードをはじめとするイラク国内の主要都市を制圧、フセイン政権は崩壊し、フセインもまた12月にアメリカ軍に拘束された。
2003年4月のフセイン政権崩壊後、イラク全土は、アメリカ・イギリスによる連合国暫定当局(CPA)の占領統治に入った。同年7月イラク人よりなるイラク統治評議会が誕生したが、占領統治体制の最高決定機関はCPAであった。その後、2004年6月1日に、国連、CPA、統治評議会の協議により、評議会メンバーのなかからアヤド・アラウィが首相に、ガジ・アジル・ヤワルが大統領に就任、閣僚も決まり、イラク暫定政権が発足(統治評議会は解散)。同年6月28日には、CPAからイラク暫定政権への主権移譲がなされた。同時にCPAは解散し、ここにアメリカ・イギリスの占領統治は終了するが、アメリカ・イギリスを中心とする多国籍軍は暫定政権からの要請を受ける形をとって駐留し続けていた。2005年1月、国民議会選挙が行われた結果、イスラム教シーア派勢力が勝利し議席の過半数を占める。同年4月、国民議会は、イラク移行政府の大統領としてクルド人指導者(クルド愛国同盟議長)のジャラル・タラバニJalal Talabaniを選出、タラバニは大統領に就任し、シーア派のイブラヒム・ジャファリIbrahim Jafariを首相に指名、移行政府が発足した。
2005年10月には国民投票によって新憲法が承認された。同年12月には新憲法に基づく国民議会選挙が実施され、2006年4月に国民議会で改めて議長および大統領の選出、大統領による首相指名が行われ、同年5月にイラク新政府が発足した。議会は一院制で議席数は275。そのうち230は州ごとの比例代表制、45は少数派を優先した全国区の比例代表制で選ばれる。任期は4年。議会で選出される大統領の任期も連動して4年である。元首は大統領であるが、首相が行政権を握り、国軍の最高司令官を兼ねている。地方行政は首都バグダードやクルド人自治区3州を含む18州で構成され、2009年1月に14州において地方議会選挙が行われた。
フセイン政権崩壊後、治安対策や復興支援活動のためイラクに駐留していた多国籍軍は2008年末の国連安全保障理事会決議の期限切れを機に各国部隊が撤退を進めた。また、2009年1月にはイラク、アメリカ間で有効期間3年の地位協定が発効した。この地位協定には2011年末までに駐留アメリカ軍をイラク全域から撤退させること、2009年6月末までにイラク治安部隊が各州で治安権限を回復するのに合わせて都市部や村からアメリカ戦闘部隊を撤収、アメリカ軍側が任務外で重大な罪を犯した場合はイラク側が第一次裁判権をもつこと等が盛り込まれている。この協定に基づきアメリカ軍は2009年6月に都市部からの撤退を完了した。軍、警察などイラク治安部隊の兵力数は約36万。そのうちイラク軍は陸軍16万3500、海軍1100、空軍1200(2008)となっている。
2004年7月、フセインと旧政権幹部を裁く特別法廷が開廷し、2005年10月にはフセインの初公判が開かれた。本人は罪状認否で無罪を主張したが、2006年11月イラク高等法廷(特別法廷から改称)は人道に対する罪でフセインに死刑(絞首刑)判決を下した。同年12月26日には死刑が確定、同30日に刑が執行された。審理中の案件を残した刑執行には旧政権を握っていたイスラム教スンニー派をはじめ国際社会からも疑問視する声があがった。イラク国内は2003年5月にブッシュが大規模戦闘の終了を宣言した後も混乱が続きテロが頻発、一時は内戦状態となり200万人を超えるイラク難民が発生した。
[原 隆一・吉田雄介]
イラクは1958年の共和制革命以来、基本的には社会主義化を進めながらも、経済分野では政経分離によって西側諸国との協調を推進した。しかしながら、1990年のイラク軍のクウェート侵攻以来、国連による経済封鎖が続き、2003年のイラク戦争によりイラク経済は壊滅的打撃を受けた。これにより、イラク国内の経済生活や工業生産はきわめて厳しい状況にある。なお、1996年12月には経済制裁が部分的に解除され、食料と医療品の購入という人道目的に限定して、半年で20億ドル分の石油輸出が再開されている。
湾岸戦争以前には世界第5位の原油生産量(1989)を誇っていたイラク経済は、まさに石油に依存していた。この状況は国際社会への復帰後も変わらないものと推測される。財政収入に占める割合は、石油が圧倒的に多く、85%に及んでいる。1972年から1975年にかけてイラク石油会社IPC(イギリス、アメリカ、オランダ、フランス資本)およびその関連会社を国有化した政府は、積極的な石油政策に取り組んだ。新油田の探査、開発や、キルクーク、アイン・ザラハ、ズベールなど主要油田の拡張プロジェクトを推進した。こうした開発努力の結果、1975年当時240万バレル(日産)であったイラクの産油量は、1979年前半に330万バレルを記録した。大幅な増産と、1979年に入ってからの石油輸出国機構(OPEC(オペック))による原油価格の値上げで、石油収入は増加の一途をたどった。
農業部門の就業人口は全就業者の7.9%(2005)にすぎない。国土面積の半分以上を不毛地が占め、耕地面積は13%(2000)にとどまる。しかも天水耕作が可能な土地は年降水量が400ミリメートルを超える北部の山岳地帯だけである。主要な農業地帯であるメソポタミア平原では灌漑(かんがい)に頼っている。土地生産性は低くその向上のためさまざまな努力が払われている。1958年から農地改革が実施され、その過程で集団農場化、機械化が推進された。ダム建設、灌漑施設の整備、新農地開拓、品種改良などの農業開発も盛んである。しかし農業部門は開発投資の効果が現れるのが遅く、一方で消費需要の増大に伴い、農産物輸入は増え続けている。主要な冬作物は小麦、大麦、亜麻(あま)、豆類で、夏作物は米、綿花、タバコ、トウモロコシ、キビ、野菜などである。ティグリス、ユーフラテス両川下流域ではナツメヤシが栽培され、その生産量は世界有数である。近年の穀物生産量は1996年の約300万トンから2000年の約80万トンに激減している。1998年から2年連続で干ばつが発生したことと、経済制裁により、農業機械、肥料など生産資材の確保がむずかしくなったことが原因と考えられる。
製造業の就業者に占める比率は17.5%(1990)程度で、イラク経済の主要部門になるというところまでは達してしない。食品加工、織物、れんが製造、製革などの伝統産業に加えて、セメント、石油精製、石油化学、鉄鋼、機械など近代工業もおこった。とくにオイル・ブーム後の1970年代なかばから政府は積極的に工業化に取り組んだ。その結果、石油精製工業の伸びはずば抜けて高く、食品工業、非金属建材工業なども急増した。
経済開発は王制以来数次にわたる五か年計画が作成されたが、絶えざる政変で計画の中断や遅れが目だった。1981年から1985年までの第五次五か年計画も実質的に実行されなかった。その後の経済計画は湾岸戦争、イラク戦争などによって混乱している。
イラク戦争以前の貿易は、石油(原油と石油製品)が全輸出の99%を占めていた。輸出先はアメリカ、ブラジル、トルコ、日本の順(1989)に多かったが、2001年の輸出先はアメリカ、イタリア、フランス、スペインの順となった。おもな輸入品は機械類、輸送機械、穀類、鉄鋼、繊維品であったが、経済開発ブームで、それまでの消費財から、鉄、非鉄金属品や機械など中間材、投資材に重点が移っていった。1989年の輸入相手国は、アメリカ、ドイツ、イギリス、日本、フランス、トルコと続き、貿易収支は24億7700万ドルの黒字であった。しかし、経済制裁が課せられたため貿易は限定されており、2001年の輸入相手国はアメリカ、オーストラリア、中国、イタリア、ヨルダンの順で、おもな輸入品は食料品、医療品、消費財であった。新政府発足から1年を経た2007年(速報値)の国内総生産(GDP)は624億ドル、1人当り国内総生産は2109ドルとなった。イラクの石油埋蔵量は1150億バレル(2007)で世界3位。平均産油量は日量215万バレル(2007)となり、2008年には日量231万バレルを記録し、生産、輸出ともイラク戦争直前を上回るようになった。
[原 隆一・吉田雄介]
住民は多くの民族からなっているが、アラブ人が全体の80%近くを占めている。少数民族のなかではクルド人がもっとも多く、総人口の約20%近くを占める。北西のクルディスターン地方に主として居住し、イラン、トルコ、シリアにまたがるペルシア系住民である。民族も言語もアラブ人とは異なり、自治権を要求して長い間中央政府と対立してきた。このほかに北イラクのトルコ人、中央部のイラン人をはじめ、トルクメン人、アッシリア人、アルメニア人、ヤジーディ人、シャバーク人、サバ人、ユダヤ人などが居住している。
言語は公用語であるアラビア語がもっとも広く話されている。しかし北部ではクルド語とトルコ語のほうが一般的で、アッシリア語、アルメニア語、ペルシア語の方言も東部の部族の間で話されている。
宗教もイラク住民を分ける重要な要素である。総人口の95%以上がイスラム教徒であり、スンニー派とシーア派にほぼ二分される。スンニー派はバグダードやバスラの市民をはじめとするアラブ人やクルド人、シーア派はその聖地カルバラ周辺のアラブ人やイラン人などで全人口のほぼ60%を占める。キリスト教徒はネストリウス派、グレゴリウス派、ギリシア正教、アルメニア正教など、各派あわせて20万以上いると推定される。そのほか若干のユダヤ教徒もいる。
首都のバグダード、バスラ、モスルの三大都市をはじめとして各都市は急速に発展し近代化が進んだ。しかし2003年のイラク戦争により、大きな被害を受けた。農村地域では、住民の住居は日干しれんがを積み上げたもので、電気も水道もない暮らしが普通である。娯楽といえば露天の喫茶店に集まり、トルコ・コーヒーなどをすすりながら会話を楽しむぐらいなもので、こうした単調な生活を破るようにイスラム教の祭礼や結婚式などが盛大に行われる。
教育制度は1970年代に大きく前進し、1974~1975年、小学校から大学までの教育の全過程での無料化と、私立学校の廃止と公立化が決定された。さらに6~12歳の初等教育が義務教育となっていたが、これを中等教育まで3年間延長することが検討されていた。こうした政府の積極的な施策によって国民の識字率は上がり、2000年には74.2%(男84.1%、女64.2%)となった。
しかし、イラク戦争はこの国の教育にも大きな被害をもたらした。2004年のイラク政府調査によると700校以上が空爆によって破壊され、3000校以上が略奪の被害にあった。そのためイラク全土の学校で椅子(いす)、机をはじめ基本的な学用品の不足に陥っている。初等教育には430万人が登録されているが、推定80万人以上が通学していないとする、イギリスのNGOの報告もある。
[原 隆一・吉田雄介]
世界最古の文明が栄えたこの国には遺跡、古建築が多い。メソポタミア南部、ユーフラテス川流域にはウル、エリドゥ、ウルクなどのシュメール古代遺跡、バグダードの南にはバビロニア、新バビロニアの首都として栄華を誇ったバビロンの遺跡もある。これらの遺跡の数々の出土品はバグダードのイラク博物館に所蔵されている。バビロニア帝国ののちに興ったアッシリア帝国の舞台はティグリス川の上流、北部イラクであった。その代表的遺跡は北部の中心地モスル近郊のニネベとニルムード、そして南約60キロメートルのアッシュールの城壁や宮殿跡である。アッシリア帝国崩壊後、移住してきたベドウィンによってつくられたハトラの町の遺跡はアッシュールの南にある。ササン朝ペルシアの冬の首都クテシフォンはバグダードの南東約30キロメートルの地点にあり、古代遺跡中最大のアーチをもつ王宮跡が残っている。
新バビロニア帝国滅亡以来、ペルシアに文化の中心を奪われたメソポタミアは、8世紀バグダードを中心とするアッバース朝文化が花開いた。バグダードやその北120キロメートルのサマッラーには王宮跡、モスク、モスクの尖塔(せんとう)、螺旋(らせん)状尖塔などがある。こうした古代文化の遺跡は政府の考古文化局の管轄下にあり、発掘、調査、研究が進められている。イスラム教シーア派の始祖アリーとその息子フセインの墓所のあるナジャフとカルバラーのモスクは単なる遺跡にとどまらず、いまも聖地として信徒の厚い信仰を集めている。なお、イラン・イラク戦争、湾岸戦争以前は、イラン、パキスタンなど諸外国からも巡礼者が多数訪れていた。
[原 隆一・吉田雄介]
1964年(昭和39)に日本イラク貿易協定が調印され対日輸入制限が撤廃された。1974年8月には経済協力協定が締結され、日本が20億ドルの借款を供与する見返りに、イラクから10年間に原油9000万トン、石油製品7000万トンの安定供給を受けることになった。以来日本とイラクの経済関係は急速に深まり、1977年度には輸入依存度に占める日本の比重は20%で第1位となった。しかし、その後日本の比重は低下し、1989年度の対日輸出は、アメリカ、ブラジル、トルコに次いで4番目で8%であった。またイラクの日本に対する輸入依存度は5%であった。2007年の対日輸出は10億1800万ドル、輸入は1億2000万ドルとなっている。
経済以外の分野でも協力関係が深まった。1978年3月には、日本イラク文化協会が設立され、日本イラク航空協定が調印された。これによりイラク航空の東京乗り入れ、日本航空南回りヨーロッパ線の一部および中東線のバグダード寄航が実現した。湾岸戦争以前は、政治家、文化・スポーツ団体、遺跡発掘隊の派遣など幅広い交流が行われ、イラクの経済開発計画に関連して、日系企業が多くのプロジェクトに参加した。しかしながら、湾岸危機以降、日本はイラクに対する経済制裁を実施し、1991年には在イラク日本大使館を閉鎖した。湾岸戦争の前後で、日本とイラクの関係は大きく変わったが、1999年以降、国会議員や外務省局長クラスのイラク訪問が行われ、対話は閉ざされなかった。湾岸戦争以前に約1900億円に達していた対イラク経済協力は停止したが、国際機関を通じた人道援助は継続された。しかし、2003年のイラク戦争では、日本は米英を支持する立場をとった。外交関係は維持するが、外交官の常駐は行わず関係事務は在ヨルダン日本大使館で扱う、という状況が続いたが、イラク戦争の大規模戦闘が終結した2003年5月、閉鎖していた在イラク日本大使館を再開。ところが同年11月、イラク北部のティクリートで日本人外交官2名(奥克彦参事官、井ノ上正盛書記官)と、同行した現地職員1名が襲撃を受け、死亡するという事件が発生した。一方、政府は2003年12月に「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」に基づく対応措置に関する基本計画を決定。国連安保理決議1483号の要請にこたえ、イラクに自衛隊を派遣することとし、2004年、イラク南部のサマーワに断続的に計約550名の部隊を送った。しかし、イラクの治安は悪化の一途をたどり、過激派武装勢力による外国人拉致(らち)および殺害が相次いでいる。2004年5月には、バグダード近郊で日本人フリージャーナリスト2名(橋田信介、小川功太郎)と同行のイラク人通訳1名が襲撃・殺害された。また同年10月には、バグダードを訪れた民間人1名(香田証生(こうだしょうせい))が、イスラム原理主義テロ組織、アルカイダ系とされる組織に拉致・殺害され、イラク戦争開戦後に犠牲となった日本人は5名となった。その後、治安維持権限が多国籍軍からイラク側に移譲されるに伴い、2006年に陸上自衛隊が撤収。2008年12月には航空自衛隊が撤収を開始(完全撤収は2009年2月)して自衛隊によるイラク復興支援活動は終了した。
[原 隆一・吉田雄介]
『『世界文化地理大系11 西アジア』(1955・平凡社)』▽『『世界地理風俗大系12 西アジア』(1964・誠文堂新光社)』▽『前嶋信次編『西アジア史』(1972・山川出版社)』▽『『文化誌 世界の国6 イラン・イラク・アラビア』(1974・講談社)』▽『岩永博編『イラク――その国土と市場』(1978・科学出版社)』▽『マロワン著、杉勇訳『メソポタミアとイラン』(1978・創元社)』▽『『世界の民族15 中央アジア・西アジア』(1979・平凡社)』▽『水口章著『イラクという国』(1993・岩波ブックレット)』▽『メアリー・M・ロジャース著、東真理子訳『目で見る世界の国々60 イラク』(2002・国土社)』▽『国末憲人著『イラク戦争の深淵――権力が崩壊するとき、2002~2004年』(2007・草思社)』▽『小倉孝保著『戦争と民衆――イラクで何が起きたのか』(2008・毎日新聞社)』▽『高橋英彦著『イラク歴史紀行――チグリス・ユーフラテス物語』(NHKブックス)』▽『小玉新治郎著『西アジアの歴史』(講談社現代新書)』▽『酒井啓子著『イラクとアメリカ』(岩波新書)』▽『岸谷美穂著『イラクの戦場で学んだこと』(岩波ジュニア新書)』
基本情報
正式名称=イラク共和国al-Jumhūrīya al-`Irāqīya/Republic of Iraq
面積=43万5244km2
人口(2010)=3200万人
首都=バグダードBaghdad(日本との時差=-6時間)
主要言語=アラビア語,クルド語
通貨=イラク・ディナールIraqi Dinar
アジア南西部の共和国。日本の奄美諸島から北関東とほぼ同緯度の北緯30゜から37゜の間に位置し,北はトルコ,西はシリアとヨルダン,南はサウジアラビアとクウェート,東はイランに境を接する。メソポタミア文明の故地として知られる。
トルコ東部に発するティグリス川とユーフラテス川とによってつくられる沖積平野が国土の4分の1を占めるが,北部のティグリス川とその支流小ザーブZāb al-ṣaghīr川の上流,および北東部のザグロス山脈に連なるイランとの国境地帯は,山岳地帯である。また西部はシリアとサウジアラビアにまたがる砂漠で,国土の約半分を占める。ティグリス,ユーフラテス両川はバグダード以南で極端に平坦となり,特にナーシリーヤNāsirīya,アマーラ`Amāra,クルナQurna間の広大な地域で湖水・湿地帯をつくり,クルナで合流してからはシャット・アルアラブ川となってペルシア湾に注ぐ。
気候は三つの型に分かれ,北部山岳地帯は地中海性気候で年間降雨量は400~1000mm程度,山岳地帯と砂漠の間,沖積平野はステップ気候で200~400mmの降雨量がある。しかし国土の7割が熱帯砂漠性気候で,降雨量は50~200mmである。降雨のほとんどが冬期に集中し,またトルコ山岳部の春先の雪どけ水が流入するため,毎年ティグリス川は4月,ユーフラテス川は5月に増水の頂点に達し,しばしば洪水を引き起こしてきた。気温は,北部山岳地帯では夏でも35℃をこえないが,砂漠性気候の地域では夏の日中気温は45~50℃となる。
人口は1992年統計で1895万人で,うち6割強が都市人口である。また人口の過半数が20歳未満である。住民の約8割弱はアラブで,15~20%のクルドのほか,トルコマンTurkman人,アッシリア人,アルメニア人が存在する。公用語はアラビア語とクルド語。イスラム教徒が95%を占め,その半数以上がシーア派である。シーア派はバービルBābil州以南の中南部地域とバグダードに多く,スンナ派アラブはバグダード以北モースル以南の中部地域に多い。クルドは大半がスンナ派であるが,一部フェイリーFaylīyyaと呼ばれるシーア派もいる。クルド人の居住地は主に北部のドゥホークDahūk,アルビール`Arbīl,スライマーニーヤSulaymānīyaのクルディスターン3州に集中しているが,キルクークにも多く,同様に同地に多く居住するトルコマン人との間にしばしば対立が発生する。キリスト教徒にはネストリウス派,カルデア教会,ギリシア正教会,アルメニア教会,カトリック,プロテスタントなどの信徒がいる。なお,南部水郷地帯には少数ながら古代キリスト教徒であるサービアṣābi'a教徒が居住する。
現在の政体は共和制。議会(1980年成立)は任期4年の一院制をとるが立候補資格に体制支持が義務づけられ,御用議会となっている。最高意思決定機関は〈革命指導評議会〉(RCC)で,その議長が大統領を兼任する。憲法は,1958年革命で王制下憲法が廃棄された後,1970年に暫定憲法,90年には恒久憲法の策定が行われたが,湾岸戦争の混乱で実際には実施に至っていない。1970年代と96年以降の一時期,一部の親政府派クルド勢力や共産党,アラブ民族主義勢力に政権参加を認めて形式的な複数政党制を採用したが,実質的にアラブ社会主義バース党の一党独裁体制をとる。1974年にクルディスターン3州が自治区に設定されたが,その権限はきわめて限定されている。
イラクは1921年イギリス委任統治下で王国として成立,32年に正式に独立したが,イギリス・イラク条約によってイギリスの間接統治は続き,ヌーリー・アッサイードら親英派の旧オスマン軍人・官僚を中心とした政権が続いた。これに対して1930年代後半以降,イギリスの対アラブ,特にパレスティナ政策に反発するアラブ民族主義勢力や,王制下の封建主義政策によって生じた階級格差の拡大を問題視する共産主義・社会主義勢力が生まれた。他方,民族的,宗教的,部族的に複雑な構成をもつイラク社会の早急な国民統合と治安維持を図るため,王制下各政権はイラク国軍の強化に努めた。33年にはアッシリア人への弾圧,35-36には徴兵反対暴動を起こした南部部族の反乱鎮圧に国軍が起用され,国軍は国内治安維持に欠かせない存在として認識されるようになった。その結果36年のバクル・スィドキーBakr ṣidqīによる軍クーデタを契機として軍人の政治介入が頻繁となり,41年には民族主義軍人がラシード・アリー・アルキーラーニーを擁して反イギリス政権を樹立したが,この政権はイギリスの直接軍事介入により短期間で崩壊した。
第2次大戦後の冷戦構造のもとでイラクは反ソ・ブロックの要としてバグダード条約機構の推進者となり,議会内リベラル野党勢力,民族主義勢力,共産主義勢力が政府の対イギリス従属姿勢に対する反発を強めた。特に52年のエジプト革命,56年の第2次中東戦争でのナーセル・エジプト大統領の威信確立に刺激を受けた軍人の間に,クーデタによるイギリス支配からの脱却への志向が強まった。58年には王制下の矛盾が噴出する形で王制打倒・共和制革命が発生し,その結果カーシム`Abd al-Karīm Qāsim将軍が政権を掌握した。カーシムは大衆動員力を持つ共産党,および軍内に影響力を持つアラブ民族主義勢力を支持基盤に社会主義体制を基本とした体制を確立した。しかしクーデタ実行時の協力者であるアーリフ`Abd al-Salām `Ārifとその支持者たるアラブ民族主義勢力との間に,エジプトとの国家統合問題をめぐって齟齬(そご)を生じ,民族派を排除して共産勢力に依存する姿勢をとった。カーシムに排除されたアラブ民族主義軍人は63年クーデタを起こし,アーリフ兄弟によるアラブ民族主義政権を築いた。しかし63年にアーリフに協力して政権参与しながらすぐに政権を追われたバース党は,68年に一党独裁を目指してクーデタを敢行,アフマド・ハサン・アルバクルAḥmad Ḥasan al-Bakr(1914-82)によるバース党政権を確立した。
イラクの産業別GDPは,1991年段階で公務員など社会サービス部門が最も大きく(26%),次いで運輸・流通(23.6%),農林水産業(23.1%),製造業(11%)である。また就業人口別に見れば,社会サービス部門を除いて運輸・流通(38.9%)が最大で,次いで製造業(37%),農林水産業(9.6%)である。油田開発開始以前のイラクは,もっぱら農業国として湾岸地域で重要な位置を占めていた。オスマン朝支配の末期には特に南部のナツメヤシが同地域における主要輸出産品で,また灌漑米作地帯としての南部,天水による小麦生産を行う北部・中部は穀倉地帯として重視されていた。オスマン朝末期およびイギリス委任統治下では,政府は南部・北部の有力部族への支配を強化するために,部族支配層に従来の部族共同所有地の私有を認める政策をとった。そのため,精神的・軍事的指導者だった地方部族長は封建的地主へと性格を変化させ,広大な土地所有者となり,多くは不在地主となって王政下での支配階級を形成した。地主権力の大きさを支える要因の一つにイラク農業における膨大な灌漑投資の必要性があり,特に南部農村ではポンプ灌漑への全面的依存,塩害を防ぐための恒常的な措置が不可欠である。その一方で小作人と化した部族民は農村での貧困にあえぎ,1940年代以降大量の離村農民となって都市部に流入,スラムを形成して社会問題となった。
共和制革命以降は,大土地所有を禁止する農地改革が58年,70年に実施された。特にバース党政権下で実施された70年改革後は,農地は主として国有農場,社会主義協同農場として再編された。しかしいずれの改革においても,土地接収は順調に実施されたものの分配に遅延が見られ,十分な効果をあげなかったことから,農業生産の飛躍的向上にはつながらなかった。70年代以降の石油輸出額の増加に伴う政府投資の増大をもってしてもこうした状況は改善されず,また政府開発計画自体が工業投資・公共事業投資を優先したため,1950年代に自給可能だった農業生産は70年代にはその3割を輸入に依存せざるをえなくなった。またGDPにおける農業の占める比率は湾岸戦争まで5~8%でしかなかった。80年のイラン・イラク戦争開始後は,戦場が南部国境地域に集中したことから,南部農地への投資はますます低下し,その結果塩害が進行するまま放置された土地が増えている。また80年代後半には政府財政の悪化から農業分野での民営化が進み,効率の悪い国営農場,協同農場の民間払い下げが進められた。
工業部門では,19世紀半ばから日乾煉瓦,皮革,紡織,セッケンなどの製造業があった。伝統的産業として,渡河船製造業がティグリス,ユーフラテス流域の地方小都市で栄えていたが,19世紀末以降の河川交通の発達,橋梁建設の進展によって没落し,失職した若年層の多くは都市に流入して新設のイラク国軍に吸収された。工業の近代化が進むのは第2次大戦以降で,戦後の工業製品に対する需要増と石油収入増大に支えられて工業投資の伸びをみた。1960年代以降は石油化学,肥料製造,鉄鋼,セメント産業を中心に,バスラ周辺に巨大コンビナート群が建設された。70年代以降は石油輸出による収入安定化によって,輸入代替産業の育成,促進の必要性が薄れたが,80年代後半にはイラン・イラク戦争の長期化により軍事物資の国産化の必要が生じ,軍事産業委員会を核として各種大量破壊兵器の製造に力点が置かれた。石油以外の工業のGDPに占める比率は,1970~80年代を通じて5~10%程度である。
イラク経済の柱となる石油が発見されたのは1909年で,27年にキルクークで最初の商業生産が行われた。その利権は1925年以降イギリス系企業(1925年イラク石油会社,32年モースル石油会社,38年バスラ石油会社)に与えられ,1930年代に地中海沿岸に至るシリア経由パイプラインによる原油輸出が開始された。第2次大戦以降は50年代以降の原油生産の増大,52年からの利権料支払での折半方式採用により,石油収入は着実に増加していった。石油収入が飛躍的増大をみたのは73年以後である。政府は1960年代から主要産業の国有化政策を進め,72年にイラク石油会社の完全国有化を実施した。そして同年から始まった石油価格急騰の恩恵を受けて,石油輸出額は72年の14億ドルから74年には70億ドルに急増した。さらにイラン革命を契機とする79年の第2次石油価格高騰によって,79年に214億ドル,80年には263億ドルとなった。輸出ルートも1977年にトルコ経由のパイプラインが建設されたほか,85年以降サウジアラビア経由,トルコ経由第2パイプラインが新設され,現在パイプラインのみで315万バレルの輸出能力を持つ。それに伴い石油生産能力は1970年代初めの日量240万バレルから70年代末には400万バレルに増大した。現在石油埋蔵量は1000億バレルで,サウジアラビアに次いで世界第2位である。
執筆者:冨岡 倍雄
イラク社会は民族的にも宗派的にも複雑なため,その分裂と統合が常に問題となってきた。北部のクルド人は1920年代から部族長を中心とした自治・独立運動を繰り返し,50年代末から現在に至るまで政府に対する一大圧力団体となっている。政府が75年に大掃討作戦を行った結果,バルザーニーBarzānī一族を中心とした反政府勢力は打撃を受けて分裂したが,88年の政府による対クルド化学兵器攻撃への反発から再編され,湾岸戦争後には独自に自治選挙を実施,92年に自治政府を樹立した。
アラブ・シーア派が多く居住する南部は,1950年代末までは大土地所有制度に起因する貧富の格差が顕著となった地域であり,共和制革命後も十分な開発政策がなされず,相対的な貧困状態に置かれた。加えてナジャフ,カルバラーといったシーア派聖地を中心としてイスラム知識人のネットワークが堅固に維持され,歴史的に中央政府の世俗近代化政策に抵抗する拠点となってきた。特に50年代以降共産主義,社会主義運動の伸長,近代世俗教育の広がりから,イスラム知識人の間に危機感が高まり,イスラム復興主義運動が発生した。70年代以降は,相対的貧困に対する経済的不満をイスラム知識人の活動が代弁する形で,南部および都市貧困地域を中心に運動が政治化・武装闘争化した。その結果,イラン革命,イラン・イラク戦争開始以後は,政府によるシーア派住民に対する弾圧が強化された。湾岸戦争直後の91年3月には,クルドとともに南部シーア派住民の多くが反政府暴動に加わったが,その報復として政府は92年以降南部湿地帯の乾燥化政策を進め,南部農地の水利体系を破壊した。
イラク社会は歴史的に部族集団の自立性が強く,その多くが20世紀前半に地主化して中央政府への従属を進めたものの,社会的紐帯としての部族意識は堅固に残っている。共和制革命以降の社会経済政策の結果,国民の生活水準の平準化が進み,中産階級の比率の高い社会が構成され,伝統的部族意識は近代市民社会の萌芽の中で衰退の方向にあった。しかし1980年代以降フセイン政権が自らの勢力基盤確立のために地縁閥を多用したことから,再び部族意識が政治的社会的動員手段として再認識され,湾岸戦争以降は部族社会の復活が顕著になっている。
イラクの出版・文化活動については,その萌芽はアラブ世界の中でも早く,オスマン朝末期に初めてのアラビア語紙《ザウラーZawrā'》が発行された。オスマン帝国の衰退とイギリス支配のもとでアラブ文芸復興運動が活発となり,アラブ民族主義運動の文化的基盤を形成した。バース党政権成立以後の出版・文化活動は完全な情報統制下に置かれ,日刊紙として党機関紙《アッサウラal-Thawra》,政府機関紙《ジュムフーリーヤal-Jumhūrīya》,軍機関紙《カーディシーヤal-Qādisīya》が発行されている。湾岸戦争以降はフセイン大統領長子のウダイUday Ṣaddām(1964-2003)が主宰する《バービル》紙が発刊され,政府批判を通じて閣僚人事を左右している。なおウダイは青年向けテレビ放送をも持つ。
文化政策においても政権基盤の強化を目的とした大衆文化操作が行われ,フセイン大統領と新バビロニア帝王のネブカドネザルを同一視するなど,フセイン個人独裁の正当化のために歴史的人物,行事の再評価が行われている。イスラムについては,バース党はアラブ文化の重要な特質の一つとして評価しつつも世俗主義を党政策の基本としてきた。しかし湾岸戦争中に,フセイン政権はアメリカの攻撃に対してジハード(聖戦),殉教などの宗教的意味づけを強調し,以後国旗に〈神は偉大なり〉の文言が加えられた。
イラクの教育制度は共和制革命以降,義務教育制を導入して6・3・3・4制をとる。またバース党政権は,教育機関を通じての党思想教育の徹底と将来の国家エリート育成のためにすべての教育を無料化した。私立学校は1970年代にすべて国有化されたものの,80年代末期から戦時下での徴兵回避のために進学希望者が増大したことから,私立大学設立が許可された。
イラク地方はかつて〈二つの河の間の土地〉,すなわちメソポタミアと呼ばれ,シュメール,アッカド,バビロニア,アッシリア,新バビロニアなどのメソポタミア古代文明国家が栄えたことは,周知のとおりである。新バビロニアはアケメネス朝ペルシアに滅ぼされたが,その後アレクサンドロス大王の西アジア征服を経てパルティア王国,ササン朝とペルシア系王朝支配が続き,後者はバグダード南方のクテシフォンを首都にした。
イラク地方は637年,第2代正統カリフのウマルの治下にイスラム世界に組み込まれた。第4代正統カリフのアリーはクーファを首都としたが,657年シリアを拠点とするムアーウィヤと対立,その後暗殺された結果,ダマスクスを首都とするウマイヤ朝が成立した。アリーの支持者はアリーの党派(シーア派)と呼ばれ,その反ウマイヤ活動によってアッバース朝のウマイヤ朝打倒に利用された。アッバース朝はバグダードを都としたため,バグダードはイベリア半島,東アフリカ,インド,ジャワ,中国,さらには北の諸河川を通じてスカンジナビアに連なる世界貿易の中心地となり,イスラム文明の黄金時代が築かれた。アッバース朝の衰退とともに10~11世紀にはイラン系ブワイフ朝とトルコ系セルジューク朝が相ついでバグダードに入城したが,カリフ制は形式上は存続した。しかしフレグ(フラグ)の率いるモンゴル軍によってアッバース朝は名実ともに滅亡する。そしてティムール朝,サファビー朝などの異民族王朝の支配を受けた後,16~17世紀のサファビー朝とオスマン帝国との抗争を経て1638年に最終的にオスマン帝国の属州となった。しかしその支配は安定せず,18世紀初頭から19世紀前半までオスマン朝中央政府から自立したマムルークの支配が続いた。また地方では,南部はムンタフィクMuntafiq,カアブKa`bなどの部族連合が,北部はジャリールJalīl家,バーバーンBābān家などの名望家が実質的に支配していた。
19世紀後半以降,オスマン朝政府は中央集権化・近代化政策を推進したが,欧米列強の中東への本格的進出の過程で,イラクはイギリスの覇権拡大に対するオスマン帝国の最前線となった。第1次大戦が勃発すると,イギリスはオスマン朝下で不満を持っていたアラブ軍人,知識人に接近,そのアラブ民族意識を利用してオスマン帝国の内部からの切り崩しを図った。しかしイギリスはアラブ独立運動に協力的な姿勢を見せつつフランスとサイクス=ピコ協定を結んで戦後の中東分割を策した。このため,シリアでハーシム家のファイサル(1世)とともにアラブ王国樹立を支えた〈イラク誓約協会〉の間にイギリスへの不信が生じた。また1917年のイギリスのバグダード占領以降,イギリス支配に対する反感が国内各地で広がり,19年にイギリスが将来のイラク直接支配を確定するための国内世論調査を開始すると,独立防衛協会Haras al-Istiqlālなどの政治組織が生まれて反英活動が活発化し,中南部を中心とする反英暴動が起こった。21年にファイサルを国王とするイラク王国が生まれたが,トルコとの間で帰属が未決着だったモースル州は25年にイラクの主権下となった。
執筆者:酒井 啓子
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ティグリス,ユーフラテス両川下流域のメソポタミアを中心とする地域。狭義には現在のイラク共和国をさす。メソポタミア文明の中心地。紀元前3000年頃からシュメール文明が興り,アッカド,バビロニア,サーサーン朝による支配をへて,637年にイスラーム化。第4代正統カリフ,アリーはクーファを都とした。アッバース朝治下8世紀にはバグダードが建設され,以後イスラーム文化の中心地となったが,1258年にモンゴル軍により破壊されると,イラク全体の政治的地位も低下した。その後,オスマン帝国の地方行政組織に組み込まれるが,イギリスの委任統治をへて,1921年にバグダード,マウシル,バスラ州が合体する形でハーシム家のイラク王国がつくられ,32年に独立した。58年に王制が廃止され,イラク共和国となる。68年にバース党が政権を掌握。79年にサッダーム・フセインが大統領に就任すると,独裁化が顕著になり,同年イランとの戦争を開始(イラン‐イラク戦争),90年にはクウェートを占領したが,翌91年には多国籍軍により追い出される(湾岸戦争)。90年以降国連経済制裁下に置かれる。2003年,大量破壊兵器の所有やテロ支援などを理由に,アメリカ軍などが攻撃,バース党政権は崩壊した。民族的にはアラブ人が多数派だが,クルド人やトゥルクメン人なども多い。ムスリムが圧倒的だが,ナジャフ,カルバラーなどシーア派の聖地があり,宗教的には南部を中心にシーア派が多数を占める。キリスト教徒も少なくない。世界有数の産油国でもある。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…もっとも,その発生過程,そこでの土地経営形態は,水資源の存在・管理形態,農業の集約度,商品作物の浸透度,中央権力のあり方,遊牧民社会の影響等々の自然・社会・経済・歴史的環境の違いによって,ともすれば一括して論じられることの多いアラブ地域内においても,相当な変異が見られた。 シリア,パレスティナ,イラク地方については,その多くの地域において,直接耕作者はムシャーmushā‘と呼ばれる,ある種の土地割替を伴う共同体的耕作慣行のもとで土地耕作にあたり,その上に,徴税請負権を中心とした地方有力者,遊牧民首長など,いわば領主階層の諸権利が重ね合わされていた。19世紀に入り商品作物栽培の普及,近代的土地所有観念の導入と相まって,特定の階層への土地集積現象が見られたが,その過程はおおむね,それまでの旧領主階層が近代的大地主として,共同体的慣行のもとで土地耕作にあたっていた直接耕作者をまるごと小作人あるいは農業労働者として再組織するという過程であった。…
※「イラク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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