ドイツの劇作家レッシングの演劇評論集。1767年4月に創設されたハンブルク国民劇場の文芸部員となったレッシングが、同年5月~69年3月に発表。全104節。初めは劇団機関誌連載の劇評の形をとったが、回を追うにしたがい、作品・俳優評を超えた戯曲・演技論の色を濃くしていき、第50節以降はもっぱら演劇の本質にかかわる理論的解明に力点が置かれた。とくに誇張を排した自然で人間的な演技を説き、フランス古典主義演劇を否定してシェークスピア劇を推奨し、またアリストテレスの悲劇論を再解釈するなど、ドイツ演劇の革新と国民演劇の樹立に大きな役割を果たした。
[大島 勉]
『奥住綱男訳『ハンブルク演劇論』全二冊(1972・現代思潮社)』
…〈演劇批評〉の略語とも考えられるが,日本では一般に,〈演劇批評〉はより広義に,戯曲,演出など演劇表現全般に関する批評,評論をいい,〈劇評〉の方は上演された演劇の具体的な舞台成果を,おもに俳優(役者)の演技を中心に直接的に批評する場合をいう。
[近代以前の日本]
〈劇評〉という言葉は明治以後に使用され普及したもので,江戸時代にはその用例を見ない。ただしすでに平安時代に劇評のスタイルをとった戯書《新猿楽記》(1060年ころ成立)が見られる。…
…G.E.レッシングは,18世紀に生まれた市民劇の立場に立って,古典悲劇に批判を加え,はじめて国際的な評価を受けるような劇作を残した。《ハンブルク演劇論》は,劇評という枠を越えた実践的な理論的著作である。彼が晩年の傑作《賢者ナータン》を発表するころ,ゲーテ,レンツ,クリンガーなどの若い世代が,理性より感情の優位を主張する疾風怒濤(しつぷうどとう)(シュトゥルム・ウント・ドラング)の文学運動を開始した。…
…また,W.シェークスピアの作品が,悲劇性と喜劇性を同じ作品のなかで同時に示していることはよく指摘されるが,よく観察すると,それは交互におこるのではなく,喜劇的な要因が,悲劇的な相関関係のなかに深く根をおろしており,それがコントラストの効果を生みだしているのである。 18世紀にはG.E.レッシングがその著《ハンブルク演劇論》のなかで,悲喜劇の外形的な定義だけでなく,内的な意味づけを行い,深刻さが笑いを,悲しさが喜びを,あるいはその逆が達せられた場合,悲喜劇の最高の形が得られるとしている。彼の喜劇《ミンナ・フォン・バルンヘルム》はその理想に近づいている。…
…60‐65年,ブレスラウ駐留のプロイセン軍司令官の秘書を務めながら,スピノザ哲学,原始キリスト教,教父神学,古代美術など多方面の教養を身につけ,これが芸術論《ラオコオン》(1766),喜劇《ミンナ・フォン・バルンヘルム》(1767),後年の神学論文として結実。67年,初めてハンブルクに誕生した〈国民劇場〉の座付き劇評家となり,劇場は短命に終わったが,自身の体験と思索を《ハンブルク演劇論》(1767‐69)に記録し,演劇の多くの基本問題を論究。70年,ブラウンシュワイク公国の小都市ウォルフェンビュッテルの図書館長に任ぜられ,《エピグラム考》(1771),市民悲劇《エミーリア・ガロッティ》(1772)を発表後,ハンブルク時代の友人で理神論者ライマールスの遺稿を,同図書館で発見された著者不詳の文書として公刊(1774‐78)。…
※「ハンブルク演劇論」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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