〈演劇批評〉の略語とも考えられるが,日本では一般に,〈演劇批評〉はより広義に,戯曲,演出など演劇表現全般に関する批評,評論をいい,〈劇評〉の方は上演された演劇の具体的な舞台成果を,おもに俳優(役者)の演技を中心に直接的に批評する場合をいう。
〈劇評〉という言葉は明治以後に使用され普及したもので,江戸時代にはその用例を見ない。ただしすでに平安時代に劇評のスタイルをとった戯書《新猿楽記》(1060年ころ成立)が見られる。また,中世には,能,狂言に関する劇評的記述も諸書に散見される。江戸期に入り,《遊女評判記》にならって,歌舞伎の《役者評判記》(初期のものは〈野郎評判記〉と呼ぶ)が刊行されるようになった。初めは役者の容色,姿態を品評するだけであったが,しだいに技芸評に重点がおかれるようになり,《役者口三味線(くちざみせん)》(1699・元禄12)にいたって新しく合評形式を確立した。明治以後,新聞や演劇雑誌の発達にともない,それを基盤に専門の劇評家が生まれ,劇評の近代化への努力が続けられた。
執筆者:権藤 芳一
西欧での演劇批評はギリシア悲劇に対するアリストテレスの《詩学》にその萌芽をみる。それは戯曲分析を主体とし,単なる演技評であるよりも上演された劇全体に対する理論的批評が主体であった。この傾向がローマからルネサンス期の演劇批評にまで受け継がれるが,近世では市民社会成立とともにフランスのディドロの著作や,ドイツのレッシングによる《ハンブルク演劇評論Hamburgische Dramaturgie》(1767-69)のように,旧時代の演劇美学に対する批評行為が大いに注目された。このように近代以前の西欧の劇評は伝統的に上演作品中心で,体系的,理論的なものであった。
近代になると新聞,雑誌などのジャーナリズムの発展につれ,具体的な舞台成果に対する批評,すなわち舞台評主体の職業的劇評家が多く輩出するようになる。日本でも,西欧近代劇の影響を受けた明治以降は,饗庭篁村(あえばこうそん)(1855-1922),岡本綺堂,伊原青々園など新聞,雑誌に拠る劇評家が数多く登場した。また《歌舞伎》誌の三木竹二は従来の見巧者的な評言ではなく,実証的で清新な歌舞伎批評によってその権威を高めた。ほかにも明治から大正期にかけて,坪内逍遥,森鷗外,小山内薫,三宅周太郎らが批評活動を行い,劇壇において大きな影響力をもった。第2次大戦後は,マス・メディアの発達による大衆社会化現象により,劇評家というより芸能ジャーナリストによる報道的解説,観劇印象記が多くなり,専門劇評家の署名劇評や発言のもつ意味は薄められる傾向となっている。
執筆者:石沢 秀二
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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