レッシング(読み)れっしんぐ(英語表記)Gotthold Ephraim Lessing

日本大百科全書(ニッポニカ) 「レッシング」の意味・わかりやすい解説

レッシング(Gotthold Ephraim Lessing)
れっしんぐ
Gotthold Ephraim Lessing
(1729―1781)

ドイツの劇作家、批評家。ドイツ啓蒙(けいもう)思潮の代表者であると同時にその克服者でもあり、ゲーテシラーを中心とするドイツ古典主義文学への道を開いた。日本では森鴎外(おうがい)が深く傾倒していた。

[濱川祥枝]

生涯

1月22日、ザクセン片田舎(いなか)カーメンツに貧しいプロテスタントの牧師の息子として生まれる。父の後を継ぐべく、初めライプツィヒ大学神学科に学んだが、当時「小パリ」と称されていた優雅な都市ライプツィヒでの3年にわたる学生生活の中心は、詩や演劇であった。晩年の、牧師ゲッツェJohann Melchior Goeze(1717―1786)らとの間の神学論争にみられるとおり、宗教問題に対する興味は終生もち続けていたものの、その後は、ウィッテンベルク、ライプツィヒ、ベルリン、ブレスラウ、ベルリン、ハンブルクと次々に居を移しつつ、生涯の大部分を自由な文筆家として貧困のうちに過ごした。晩年の約10年間は、ウォルフェンビュッテルの、当時ヨーロッパ有数とされていたブラウンシュワイク公家図書館の司書を勤め、1781年2月15日、ブラウンシュワイクで没した。

[濱川祥枝]

業績

レッシングのおもな業績は、戯曲、批評および神学論文の三つに分類されうる。

[濱川祥枝]

戯曲

『お坊ちゃん学者』(1747。1748初演)をはじめとする初期の喜劇は習作以上のものではないが、そのなかで、『ユダヤ人』(1749)および『無神論者』(1749)の二つは、宗教的寛容を中心テーマに据えている点で、最晩年の『賢者ナータン』(1779)につながるものをもっている。ただし、ドイツ演劇の貴重な財産とみなされ、今日なお毎年かならずどこかで上演されているのは、七年戦争後の混乱期を背景とし、プロイセンの退役将校とザクセン貴族の令嬢の恋愛をテーマにした『ミンナ・フォン・バルンヘルム』(1767)、進んで父の刃(やいば)に倒れることによって専制君主の暴力から身を守った市民階級の娘の悲劇を扱った『エミーリア・ガロッティ』(1772)、後述する神学論争の副産物であり、ボッカチオの『デカメロン』(1355ころ)第1日第3話にも出てくる「三つの指輪のたとえ」を中心に据えて宗教的寛容を説いた『賢者ナータン』の三つであるが、いま一つ、イギリスの「家庭悲劇」domestic tragedyの影響のもとに書かれ、オーデル河畔のフランクフルトでの初演その他で観客の紅涙を絞ったと伝えられる『ミス・サラ・サンプソン』(1755)も忘れがたい。また、1966年になってから、『トンジーネ』という「5幕の市民悲劇」の手書き原稿1葉が発見されたが、その登場人物の筆頭にあげられたトンジーネは、なぜか「日本女性」となっている。

[濱川祥枝]

批評

天成の批評家であり、批評というものの存在意義と批評家としての自分の資質とに自信ももっていたレッシングが残したおびただしい評論のうち、もっとも重要でありかつ今日なお一般読者の興味をもひきうるのは、未完に終わった『ラオコーン』(1766)と『ハンブルク演劇論』(1767~1769)である。前者は、副題を「絵画と詩の境界について」といい、造形芸術と言語芸術とがそれぞれ目ざすべき題材と方法の差異を論じ、空間芸術としての美術と時間芸術としての文学がその本質上もっている使命と限界を明らかにしようとしたもの。また後者は、ハンブルク国民劇場の演劇顧問としてのレッシングが、同劇場で上演された作品を、俳優の演技をも含めてすぐさま批評の筆に上せようというのが目的で、毎週2回、1年分で104編という体裁をとっている。ただし、俳優の抵抗その他でこの当初の目的が挫折(ざせつ)し、途中からレッシングがその考察をもっぱら演劇の本質に向け、アリストテレスまでさかのぼって、シェークスピアを賞揚し、フランス古典劇の固陋(ころう)を難じたりしたことが、かえってこの作品の価値を不朽のものにした。優れて人間的な芸術分野である演劇を扱ったこの書は、ほとんど人間にしか興味を抱かなかったレッシングの人間論という色彩が濃い。

[濱川祥枝]

神学論争

『賢者ナータン』の「産婆役」をつとめることになった神学論争は、レッシングが、ハンブルク時代の親しい友人の一人H・S・ライマールスの遺稿『神の理性的崇拝者のための弁明または弁論』を、『無名氏の断片』と題し、ウォルフェンビュッテル図書館の未整理文書のなかから発見したという口実で1774年から1778年にかけて逐次発表し、これが正統派(牧師ゲッツェなど)の反発を買ったことに始まる。1778年以降ブラウンシュワイク公によって、論争文の執筆を禁止されたことから『賢者ナータン』が生まれたが、この神学論争自体も、H・ハイネのことばを借りれば、「歴史の忘却の淵(ふち)に沈んでしかるべき論争相手を、琥珀(こはく)の中に閉じこめられた昆虫さながら永久保存する」結果になった。

 なお、のちレッシング夫人となったエーファ・ケーニヒEva König(1736―1778)との5年にわたる婚約期間中の『往復書簡』も感動的な人間記録である。

[濱川祥枝]

『奥住綱男訳『ハンブルク演劇論』(1972・現代思潮社)』『有川貫太郎他訳『レッシング名作集』(1972・白水社)』『濱川祥枝訳『エミーリア・ガロッティ』(『世界文学全集17』所収・1976・講談社)』


レッシング(Doris Lessing)
れっしんぐ
Doris Lessing
(1919―2013)

イギリスの小説家。ペルシア(現、イラン)でイギリス人銀行家の娘として生まれる。5歳のとき入植する両親に伴って南ローデシア(現、ジンバブエ)に移住。学校教育は14歳まで受けた。二度結婚するが離婚。1949年渡英し、『草は歌っている』を出版。これは、南アフリカの白人の人妻と黒人の召使いとの人種問題が絡んだ男女関係を描いた小説で、成功を博した。『黄金(おうごん)のノート』(1962)では従来の枠にはまった女の生き方を廃し、自由な生を追求する女性の苦悩を描いてフェミニストの名を獲得した。また、五部作『暴力の子供たち』(1952~1969)では、作者と同じく共産主義に傾倒するが、それに幻滅する女性の半生をたどり、『善良なテロリスト』(1986)でも反体制的な政治への参加を扱っている。1953年にサマセット・モーム賞受賞。2007年にはノーベル文学賞を受賞。授賞理由は「女性の経験を描いた叙事詩人であり、懐疑と情熱そして想像力をもって、分断された現代文明を精査した」となっている。

[安達美代子]

『レッシング著、加地永都子訳『アフガニスタンの風』(2001・晶文社)』『レッシング著、篠田綾子訳『夕映えの道 よき隣人の日記』(2003・集英社)』『レッシング著、山本章子訳『ラブ・アゲイン』(2004・アストラル)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「レッシング」の意味・わかりやすい解説

レッシング
Lessing, Doris

[生]1919.10.22. ペルシア,ケルマーンシャー
[没]2013.11.17. イギリス,ロンドン
ペルシア生まれのイギリスの作家。フルネーム Doris May Lessing,本名 Doris May Tayler。5歳のときイギリス人の両親とともに南ローデシアに移住,農場で育つ(→ローデシア問題)。1949年ゴットフリート・レッシングと離婚後,息子を伴ってイギリスに渡り,1952~56年イギリス共産党員として活動。作品の多くはアフリカを舞台にし,左翼的立場に立って,植民地問題をはじめとする社会的,政治的主題を扱う。第一作『草は歌っている』The Grass Is Singing(1950)ののち,半自伝的な連作「暴力の子供たち」Children of Violence(5巻,1952~69)によって名声を確立。ほかに,ポストモダン小説『黄金のノート』The Golden Notebook(1962),SF連作「アルゴ座のカノープス」Canopus in Argos: Archives(5巻,1979~83),『ザ・クレフト』The Cleft(2007),自伝などがある。ジェーン・ソマーズの筆名でも 2作品を発表。2007年イギリス人女性としては初のノーベル文学賞を受賞した。

レッシング
Lessing, Gotthold Ephraim

[生]1729.1.22. ザクセン,カーメンツ
[没]1781.2.15. ブラウンシュワイク
ドイツの劇作家,批評家。フランス古典劇の亜流であった従来のドイツ演劇を否定,ギリシア劇,シェークスピア劇の精神を取入れることによって近代的な市民劇の創始者となった。また演劇のほか美学,神学の評論を通して啓蒙思想を説き,ドイツ市民文化の発展に貢献。主著,戯曲『ミス・サラ・サンプソン』 Miss Sara Sampson (1755) ,『ミンナ・フォン・バルンヘルム』 Minna von Barnhelm (67) ,『エミーリア・ガロッティ』 Emilia Galotti (72) ,『賢者ナータン』 Nathan der Weise (79) ,演劇評論『ハンブルク演劇論』 Hamburgische Dramaturgie (67~68) ,美学評論『ラオコーン』 Laokoon (66) 。

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