ミュカレの戦(読み)ミュカレのたたかい

改訂新版 世界大百科事典 「ミュカレの戦」の意味・わかりやすい解説

ミュカレの戦 (ミュカレのたたかい)

第2回ペルシア戦争における前479年の合戦。古代の伝承では,プラタイアイの戦と同じ日に戦われたという。サラミスの海戦直後のアンドロス島会議ではギリシア連合の海上軍は,今後はペルシア帝国領において戦いを遂行するという積極策を打ち出し,前479年の春とともに出動したもののデロス島に長期間とどまり,東進をためらっていた。そこへサモス島のペルシア抗戦派の代表がギリシア船隊の出動を要請して現れたため,これに応えての出撃となった。ギリシア船隊が接近するとサモス駐留のペルシア船隊は対岸のミュカレMykalē半島に逃れ,陸戦の構えを示した。連合軍提督レオテュキダスLeōtychidasは攻撃に先立ってペルシア陣営内のイオニア人に反乱を呼びかけ,これが奏功して容易にガイソンの砦を陥落させ勝利を得た。ギリシア連合軍の出現により,小アジア西岸一帯に〈第2回イオニア反乱〉とも呼びうる事態が生じた。
ペルシア戦争
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世界大百科事典(旧版)内のミュカレの戦の言及

【ペルシア戦争】より

… ほとんど無傷のままテッサリア地方で越冬したマルドニオス麾下のペルシア陸軍は,前479年の春とともに行動を起こし,アテナイを再び劫掠(ごうりやく)したのち,ギリシア連合軍をボイオティア地方のプラタイアイの野におびき寄せて殲滅(せんめつ)を計ったが,勝をあせって敗退した(プラタイアイの戦)。同じ頃,サモス島に出撃したギリシア連合の船隊は,ペルシア軍をミュカレ半島で破り(ミュカレの戦),〈第2回イオニア反乱〉を惹起させた。 これらの2回にわたるペルシア戦争でギリシアはペルシア軍を退け,それ以後,ペルシア軍のギリシア侵攻は生じなかった。…

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