日本大百科全書(ニッポニカ) 「サモス島」の意味・わかりやすい解説
サモス島
さもすとう
Sámos
ギリシア南東部、エーゲ海東部、ドデカネス諸島の島。南スポラデス諸島に含める場合もある。トルコ語名スサム島Susam-Adasi。小アジア半島とは狭いサモス海峡を隔てて相対する。面積476平方キロメートル、人口3万3843(2001)。地形は全体的に山がちで、島頂は西端にあるケルケテウス山(またはケルキス山、1433メートル)。気候は温暖で、良質のブドウを産し、ギリシア正教のミサに使われる甘口ワインの生産で有名。オリーブ、たばこ、絹の生産も多い。イカリア島、フルニ島などをあわせてサモス県を構成し、県の人口は4万4200(2003推計)。県都は北岸にある港湾都市バティVathi。イオニア人の植民以来通商で大いに繁栄し、繁栄の絶頂に達した紀元前6世紀には、ピタゴラスをはじめとして多くの芸術家、哲学者を生んだ。島の南部には、イオニア式の巨大なヘラ神殿の遺構が残っている。
[真下とも子]
歴史
前1100年ごろギリシア本土から移住したイオニア人に占拠され、前8世紀ごろ島全体が一つのポリス(都市国家)になり、ゲオモロイとよばれる土地所有貴族が政権を握った。前7世紀以降各地に植民市を建設し、商工業を発展させ、前6世紀後半にはポリクラテスの僭主(せんしゅ)政のもとで繁栄を極めた。彼の死後ペルシアの支配に入るが、前5世紀初めにその支配から脱してデロス同盟に加盟した。前441~前439年に同盟からの離反に失敗して民主政が導入され、前4世紀前半にアテネ市民の植民市(クレルキア)が設けられた。ヘレニズム時代には次々に大国に支配され、前133年にはローマの属州アシアに組み込まれた。また1476年にはオスマン帝国の支配領となり、正式にギリシア領となったのは1923年のローザンヌ条約においてである。
[清永昭次]