紀元前5世紀前半にペルシア帝国とアテネ、スパルタを中心とするギリシア諸都市との間で行われた戦争。
[伊藤貞夫]
戦いの発端は、小アジア西岸イオニア地方のギリシア諸市がペルシアの支配に対して蜂起(ほうき)した、いわゆる「イオニア反乱」にある。前500年、ミレトスの僭主(せんしゅ)アリスタゴラスは、自らその地位を退くとともに、他のイオニア諸市にも、当時ペルシアにより支配の手段として利用されていた僭主政を廃止するよう働きかけた。この呼びかけは、ペルシアの支配をはねのけようとする市民たちに広く受け入れられて、各市に反僭主・反ペルシアの運動が起こった。これらイオニア諸市は同盟を結び、ギリシア本土に来援を求めてペルシアと戦い、サルディス、ビザンティオン、キプロスを攻めて成果をあげたが、ペルシア軍はやがて反攻に転じ、前494年、ラデ島沖の海戦で勝利を収め、ミレトスを占領して大勢を決した。イオニア諸市はふたたびペルシアの支配に服することとなるが、僭主政は復活されなかった。
[伊藤貞夫]
反乱鎮圧後、ペルシアの目は、それぞれ20隻、5隻の艦船をイオニアに送ったギリシア本土のアテネ、エウボイア島のエレトリアの両市に注がれた。前492年に海路トラキア遠征を行ったのち、前490年、報復のためダリウス1世は大軍をギリシアに派遣した。ペルシア軍はエレトリアを制したのち、アテネを襲って北東岸のマラトン平野に上陸したが、約1万のアテネ軍はミルティアデスの作戦に従ってこれを破り、ペルシアのアテネ占領を阻んだ(マラトンの戦い)。
[伊藤貞夫]
遠征に失敗したペルシアは、その後ダリウスの子クセルクセス1世の下で軍備を整え、前480年、第一次遠征軍をはるかに上回る大軍を王自らが率いて、ふたたびギリシア本土を目ざした。ギリシア側は、一部の都市を除き、スパルタとアテネを中心に結束を固め、エウボイア島の北端アルテミシオン岬と中部ギリシア北端のテルモピレー峠とを結ぶ線を海陸の防衛線と定めたが、二つの拠点はともに激戦のすえに破られ(アルテミシオンの海戦、テルモピレーの戦い)、ペルシア陸上軍はアテネに侵入する。この危機に際し、アテネの知将テミストクレスは、アテネ西方サラミス島東側の海峡にペルシア海軍を引き寄せて決戦を挑む策を連合軍の軍議で主張して、それを通し、陸上の玉座から観戦するクセルクセスの目の前でその大艦隊を壊滅させ、ペルシアのギリシア制圧の野望をくじいた(サラミスの海戦)。ペルシア陸上軍の一部は将軍マルドニオス指揮の下にギリシア北部にとどまったが、これも前479年、中部ギリシアのプラタイアイでギリシア連合軍に敗れ、撤退を余儀なくされた(プラタイアイの戦い)。同じころイオニアのミカレ岬でも、上陸したギリシア軍が大勝して、イオニア独立への道を開いた(ミカレ岬の戦い)。こののちペルシア軍とギリシア連合軍との戦いは、主戦場を東方に移して続行される。
[伊藤貞夫]
前478年ギリシア軍はキプロス島の諸都市の反乱を助け、ビザンティオンを攻めて、いずれもペルシア支配からの解放に成功する。前477/8年デロス同盟成立後もギリシア側の攻勢は変わらず、前467年アテネの将軍キモンの指揮の下に、小アジア南岸エウリメドン河口でペルシア軍を破り、前459年にはエジプトでの反乱を助けるべく兵を送っている。しかしエジプト遠征軍は前454年に大敗を喫し、キプロスでもペルシア側の反攻にあって、前450年これを放棄するのやむなきに至った。この戦いでキモンが死亡したことは、アテネに和平の機運を生じさせ、前449/前450年ギリシアとペルシアとの間に正式に和議が結ばれて(カリアスの和約)、ここに半世紀にわたるペルシア戦争は終結した。イオニア諸市は独立を認められ、ペロポネソス戦争末期に至るまでペルシアの支配から逃れえた。
[伊藤貞夫]
ペルシア戦争は、東方の大国ペルシアと西方ギリシアの小国家の連合とが戦い、兵力において格段に劣るギリシアが世界の戦史に輝く大勝を陸上、海上を問わずに博したことで名高い。この勝利をギリシア側からみれば、各ポリスの市民たちが、自ら享受していた自由と平等を、1人の専制王と彼に服属する臣民とからなる異民族の大軍に対して守り通したことを意味した。アテネをはじめギリシア諸市は、当時、民主政をほぼ確立し、市民たちの間には自らの国家を守る気概が満ちわたっていた。そのことがギリシア防衛を成功させた究極の原因とみられるが、このときの勝利はまた、東方の専制王国とは対照的な、自由な市民たちからなる世界についての自覚をギリシア人の間に芽生えさせ、以後のギリシアにおける政治と文化の著しい発展の重要なばねとなった。
[伊藤貞夫]
『ヘロドトス著、松平千秋訳『歴史』(『世界古典文学全集10』1967・筑摩書房)』▽『ヘロドトス著、松平千秋訳『歴史』上中下(岩波文庫)』
前5世紀にギリシア人とペルシア人との間で戦われた歴史的戦争。前5世紀初頭のイオニア反乱に端を発し,前490年の第1回ペルシア戦争,その10年後の前480-前479年の第2回ペルシア戦争を経て,アテナイ・ペルシア間の交戦状態は前449年の〈カリアスの和約〉まで続くが(スパルタ・ペルシア間の講和条約は同世紀末まで待たねばならない),第2回ペルシア戦争終了後のアテナイ主導の〈ペルシア戦争〉は,それ以前のものとは歴史的性格を著しく異にしており,同一の枠では扱えない。本項ではイオニア反乱から第2回ペルシア戦争までを主題とする。ペルシア戦争を書き綴った〈歴史の父〉ヘロドトスも,前479年のセストス陥落をペルシア戦争最後の事件として取り扱っている。
前499年,アケメネス朝ペルシアの支配下にあって経済的繁栄を回復し,〈イオニアの華〉に返り咲いていたミレトス市の僭主代行アリスタゴラス(僭主ヒスティアイオスはダレイオス1世の側近に登用され,スーサにあって留守)は,市の有力市民と協議のうえ,ペルシアに対して反乱蜂起することを決定した。彼が提唱してペルシア軍まで動員させて敢行したナクソス島遠征が完全な失敗に終わったので,ペルシア側からの責任追及を恐れたのが直接のきっかけとして伝えられている。彼はミレトス市の僭主政廃止を宣言したばかりではなく,小アジア西岸一帯のギリシア植民市に対して,ペルシアに擁立された傀儡(かいらい)政権とも呼ぶべき僭主政の廃止を呼びかけた。イオニアの反乱は,これに応じたミレトスとその同盟勢力によって敢行されたのである。翌年,反乱勢力はギリシア本土のアテナイとエレトリアの加勢を得てサルディスを急襲した。反乱の火の手は瞬時にヘレスポントス地方,キプロス方面にまで拡大してペルシア王ダレイオスを悩ませたが,やがてペルシア側の反撃体制が整い,いまや〈イオニア連合〉の結束を固めるまでに至った反乱勢力を前495年ころのラデ沖の海戦で切り崩し,前494年,反乱の拠点ミレトスを陥落させて反乱を鎮圧した。しかし,ペルシア側は露骨な僭主擁立政策の放棄を宣言せざるをえなかった。
前498年の春1度きりとはいえ,イオニア反乱にギリシア本土のエレトリア,アテナイの両国が支援軍を送ったことはダレイオスを激怒させ,前492年にトラキア,マケドニア方面の安全を確かめたのち,前490年,両国に対する報復船隊にエーゲ海横断の出動を命じた。ペルシア軍の最初のギリシア本土侵攻である。エレトリア攻略後,ペルシア軍をアッティカ北東のマラトンに導いたのは,前510年アテナイ僭主の地位を追われ,政権奪回の期待をこめてペルシア船隊に同行していたヒッピアスであった。しかし内応者は集まらず,それどころかペルシア軍上陸の報を得たアテナイ重装歩兵軍は迅速に行動を起こしてマラトンに出動し,ペルシア軍のアテナイ進撃を阻みつつ,両軍対峙数日後,ミルティアデスの的確な判断からアテナイ軍のほうから戦端を開き歴史的な合戦(マラトンの戦)が展開された。ペルシア軍撤退に際して,アテナイ市内の内応体勢完了を告げる合図があり,ペルシア船隊はエレトリアの捕虜収容後,スーニオン岬を迂回してアテナイののど元のファレロンに迫ったが,アテナイ重装歩兵軍が待機しているのを知り,空しくアジアに引き上げた。
ダレイオスは第2次ギリシア遠征の準備にかかったが,エジプトの反乱に阻まれ,志を果たせないまま前486年この世を去った。この頃アテナイでは,対ペルシア路線をめぐる対立が有力政治家の抗争を激化させ,オストラキスモス(陶片追放)の投票が連年施行されるなかで,テミストクレスに代表される反ペルシア路線が固まっていった。
ダレイオスの遺志を継いだクセルクセス1世は,陸海呼応の大兵力でギリシアを征服する準備にかかった。マケドニア,テッサリア地方の味方陣営内への確保が保証されたものと思われる。一方,ギリシア本土諸国は,クセルクセスがスーサを発った前481年になって,アテナイ,スパルタの発起によりペルシア抗戦集団〈ギリシア(ヘラス)連合〉を形成した。アテナイはラウリオン銀山の国庫収入を投じて200隻の軍船(3段櫂船)を整えつつあった。ヘロドトスはペルシア軍の兵力を戦闘員だけで264万という数を伝えているが,これは途方もない誇張である。
スパルタが総帥権を握るギリシア連合軍は前480年テンペ峡谷まで出動したが,テッサリア地方を自陣に引き入れることができず,アルテミシオン-テルモピュライを第1次防衛線に設定した。近年発見された〈テミストクレス決議碑文〉は連合軍のアルテミシオン出動以前に,アテナイが住民の全員国外退去を決定していたことを教えている。テルモピュライの玉砕(テルモピュライの戦)で第1次防衛線は崩壊し,連合軍海上部隊はサラミスに集結して待機し,アクロポリスをはじめアッティカの土地がペルシア軍により荒廃に帰されるのを傍観した。しかし,テミストクレスの計略にかかってペルシア船隊がサラミス水道に侵入し,この歴史的海戦(サラミスの海戦)でペルシア船隊は敗退した。フェニキア船隊が完全に戦意を失い,クセルクセスはアジアに敗走した。
ほとんど無傷のままテッサリア地方で越冬したマルドニオス麾下のペルシア陸軍は,前479年の春とともに行動を起こし,アテナイを再び劫掠(ごうりやく)したのち,ギリシア連合軍をボイオティア地方のプラタイアイの野におびき寄せて殲滅(せんめつ)を計ったが,勝をあせって敗退した(プラタイアイの戦)。同じ頃,サモス島に出撃したギリシア連合の船隊は,ペルシア軍をミュカレ半島で破り(ミュカレの戦),〈第2回イオニア反乱〉を惹起させた。
これらの2回にわたるペルシア戦争でギリシアはペルシア軍を退け,それ以後,ペルシア軍のギリシア侵攻は生じなかった。ペルシア戦争はギリシア人全体によって〈自由のための戦い〉として理解され,ギリシア人の民族と歴史の発見につながった。アテナイにおいては〈マラトン戦士(マラトノマコイ)〉は市民の理想像となった。後日,アレクサンドロス大王の東征,また近代ギリシアの独立戦争も〈ペルシア戦争〉と意識された。
→ギリシア →ペルシア帝国
執筆者:馬場 恵二
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前500年から前449年にわたるギリシア人とアケメネス朝ペルシアとの抗争で,世界史上の戦争で最も意義深いものの一つ。前500年に起こったイオニア植民市のペルシアへの反抗はやがて鎮圧されたが,アテネなどがこれを応援したために,ペルシアのギリシア本土への復讐の大遠征を招いた。前492年にトラキア征服を行ったのち,前490年ペルシアの大軍が海路アッティカのマラトンに上陸したが,ミルティアデスの率いるアテネ軍のために大敗した。前480年ペルシア王クセルクセスは,みずから大軍を率いてギリシアに侵入,テルモピュレーの戦いに勝ったものの,サラミスの海戦に大敗し,陸軍はその翌年プラタイアイの戦いで敗れ,遠征は完全に失敗した。前449年ペリクレスがペルシアと和約を結び,イオニアの独立を認めさせて半世紀の抗争を終わらせた。
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…僭主となるおそれのある有力者を市民たちの投票によって10年間の国外追放に処した陶片追放(オストラキスモス)の制度も,クレイステネスの創案によると伝えられる。
[ポリス民主政の確立]
前7世紀から前6世紀にかけ政治・経済・軍事の諸分野でスパルタ,コリントス,アイギナなどの諸ポリスにむしろおくれをとっていたアテナイを,前5世紀前半にギリシア第一の地位にまで押し上げたきっかけは,ペルシア戦争での勝利である。平民の政治参加に制度上の道を開き,市民団の団結を固める前提を整えていたこと,有力な重装歩兵集団を擁したばかりか,ラウリオン銀山での大鉱脈の発見によって国庫が潤い,艦船の増強に成功したこと,ミルティアデス,アリステイデス,テミストクレスといった人材に恵まれたことなどの諸条件が幸いして,アテナイはこの戦争で抜群の働きを見せた。…
…アテナイの僭主政打倒にもスパルタ人はかかわっていた。
[ペルシア戦争と古典期ギリシア]
アテナイ民主政が成立してほどなく,ギリシア諸市とアケメネス朝ペルシアは正面衝突することとなった(ペルシア戦争)が,その原因は前6世紀中葉小アジアのギリシア諸市がペルシアの支配下におかれたことにあった。前5世紀の初めミレトスの僭主アリスタゴラスが自己の保身に不安を感じてかえってペルシアへの反乱(イオニア反乱)を企てると,アテナイはこれに援軍を送ったが,反乱軍は一時サルディスを陥れたものの数年にして敗れ,ペルシアは報復としてギリシア本土への侵入を企てるにいたった。…
… スパルタの支援で倒された僭主政のあとは,穏健な寡頭政体制をとり,ペロポネソス同盟に加入,前6世紀中ごろから前5世紀前半までは他のギリシア諸国,とりわけアテナイとは友好的な関係を保ち,商工業も繁栄を続けた。ペルシア戦争では大部隊を派遣して各戦いに参加する。しかし戦後のアテナイの急速な興隆とその西方への介入はコリントスの脅威となり,ケルキュラとポテイダイアをめぐるアテナイとの争いは,前431年に勃発したペロポネソス戦争の直接的原因となった。…
…
[重装歩兵戦術]
ギリシアでは初め貴族からなる騎兵や戦車兵が勝敗の鍵を握っていたが,民主政治の成立と並行して一般市民からなる重装歩兵戦術が主力としての地位を確立する。3回にわたったペルシア戦争(前492,前490,後480)で歩兵密集戦列の優位が確証され,この戦法は決戦の基本的な型としてローマに受け継がれ,かつ大規模に組織された。ローマの戦争は基本的に正規軍による多種多様な諸民族軍との戦いであった。…
…サトラップ制や税制の改革,欽定貨幣の鋳造,駅伝制と行政通信体系の整備など,彼の施策によって中央集権体制は強化され,その後2世紀にわたる帝国支配の基礎が確立された。 前5世紀に入ると,イオニア諸都市の反乱(イオニア反乱)を契機としてギリシアとの対立が生じ,ペルシア戦争が起こった。しかし,帝国にとっていっそう重大な問題は,ダレイオスの末年からクセルクセス1世の初期にかけて相次いで起こったエジプト(前486)とバビロニア(前484および前482)の反乱であった。…
…在位,前488‐前480年。第2回ペルシア戦争においてギリシア側はテルモピュライとアルテミシオン沖を結ぶ線を第1次防衛線とした。彼はギリシア連合軍を率いてテルモピュライに布陣し,戦いは3日にわたったが,ペルシア軍が間道を迂回してギリシア陣を挟撃すると勝敗は決した(テルモピュライの戦)。…
※「ペルシア戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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