ワシーリー大聖堂(読み)ワシーリーだいせいどう(英語表記)Khram Vasiliya Blazhennogo

改訂新版 世界大百科事典 「ワシーリー大聖堂」の意味・わかりやすい解説

ワシーリー大聖堂 (ワシーリーだいせいどう)
Khram Vasiliya Blazhennogo

モスクワ,赤の広場にある大聖堂。イワン4世がモンゴルに対する戦勝を記念して1555-60年に建て,勝利の仲介者である聖母マリアに捧げた。中世ロシア建築の代表作とされる。正式の名称はポクロフスキー大聖堂Pokrovskii sobor chto narvu。通称ワシーリー・ブラジェンヌイはその北東隅に1588年に増築された聖ワシーリー(バシリウス)の祭室に由来する。ロシア特有の高さ約46mの塔状の主屋の周囲に,同じく塔状の8祭室を配置し,平屋建ての廊下で連絡した特異な形の教会堂で,創建当初は色彩形態も簡素であったが,17世紀にドームをねぎ坊主形に変え外周の廊下に尖頂屋根を加え,華やかな塗装がほどこされた。現在は赤の広場をはさんで向かいあう国立歴史博物館の分館となっている。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のワシーリー大聖堂の言及

【モスクワ】より

…モスクワの市街,とりわけその都心部には,中世以降さまざまな時期の建造物と現代的な建築が混在して独特の景観を呈している。 20におよぶ塔と城門をそなえた厚い煉瓦造のクレムリンの城壁は,15世紀の末につくられたものであり,クレムリン内のウスペンスキー聖堂(15世紀)や赤の広場のワシーリー大聖堂(16世紀)をはじめネギ坊主形の屋根をもつ教会がまだ市内各所に保存されている。18世紀以後,富裕な貴族や商人の建てた古典主義スタイルやロマネスク様式の邸宅は現在,図書館や博物館などの公共施設に転用されており,他方クレムリンから北西にのびるトベリ通り(旧ゴーリキー大通り)や西に向かうノーブイ・アルバート通り(旧カリーニン通り)をはじめ目抜きの道路の両側にはホテル,アパートなどの近代的な高層建築がたち並んでいる。…

【モスクワ・ロシア】より

…キプチャク・ハーン国からは15世紀にカザン,アストラハン,クリミアの諸ハーン国が分立し,モスクワはこれに和戦両様の対応を続けたが,イワン4世が1552年大軍を送って激戦の末カザン・ハーン国を占領した。ロシア平原のイスラム勢力に対するこの画期的な勝利は,〈赤い広場〉のワシーリー大聖堂の建設で記念されたほか,歌にもうたわれて永く記憶された。またカザンを基地にまもなくアストラハンまでのボルガ全流域がイワン4世により制圧され,ウラル地方の開発とシベリア征服も大商人ストロガノフ家とコサックのエルマークによって始められた。…

【ロシア・ソビエト美術】より

…またこの期は〈タタールのくびき〉からの完全解放と,国家統一の喜びの気運が,規則にとらわれない夢幻的な建築を創造させた。最もロシア的で奇想天外な様式によるワシーリー大聖堂(モスクワ)は,その代表例である。天幕型の屋根はそう長くは続かず,17世紀に姿を消した。…

※「ワシーリー大聖堂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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