長野県南部の市。2005年10月旧飯田市が上(かみ)村,南信濃(みなみしなの)村を編入して成立した。人口10万5335(2010)。
飯田市北西部の旧市。1937年市制。人口10万7381(2000)。伊那盆地南部,下伊那地方の中心都市で,東海道線に通じる飯田線沿線の農山村の消費都市としての性格が強い。地理的に東海地方に近いため,江戸時代から名古屋,豊橋,浜松などとの交流が深かった。市街地は天竜川とその支流松川の段丘上にあり,典型的な城下町であったが,1947年の大火で市街地の大部分が焼失した。復興後の市街地は整然と区画されて,都市計画のモデルとされている。なお防火帯に植えられたリンゴ並木は全国的に有名である。江戸時代から水引,元結(もとゆい),つむぎ,凍み豆腐などの地場産業が盛んで,近年は電子部品,精密機械工業などが発展している。1975年中央自動車道が開通し,産業面では東京方面との交流が深くなったが,大企業は誘致されず,地域の社会経済を大きく変えるほどの影響をもたらしていない。
執筆者:市川 健夫
江戸時代は城下町,運輸交通の要地であった。地名の初出は1319年(元応1)。近衛家領郡戸(ごうど)(郊戸)庄飯田郷の一部を占め,地頭坂西氏が居館を構えた。武田,織田,徳川氏の進出に伴う戦国の動乱の中で伊那郡支配の中心となり,1590年(天正18)以後,毛利秀頼,京極高知の治世に10万石に見合う城地,城下町が整備された。天竜川の西方,南に支流松川を望む段丘上に位置し,南北に伊那街道が通じる。段丘の突端に長姫(飯田)城,堀を隔てて西に碁盤目状の4筋各3町と,その西端を結ぶ大横町の,地子を負担する商人町(十三町方)がある。4筋のうち知久町,松尾町は知久氏,小笠原氏(松尾城)の城下町商人が移されたという。北には谷川を隔てて伊那街道沿いに伝馬役を負担する宿場町(五町方),十三町の北側と五町の東などに侍屋敷町が作られた。十三町北側の町筋には千村(ちむら)氏の飯田役所があり,4000余石の天領預地を支配した。後には外側に領内の寺院が移され,空堀によって町域を画した。1601年(慶長6)小笠原氏5万石,17年(元和3)脇坂氏5.5万石,72年(寛文12)堀氏2万石と知行高は減少し,明治に至った。元禄(1688-1704)ころから,漆器,元結,生糸の導入が図られ,ついで刻みタバコの製造がはじまる。これに伴い周辺農村は原料生産をはじめ,町はその取引の中心となるとともに,信濃奥地と東海道筋を結ぶ中馬(ちゆうま)稼の荷替地として栄えた。生糸製造は町問屋の糸札交付によって町の内外で営まれ,刻みタバコ製造は1800年(寛政12)前後からは職人層に葉のし,葉巻き,刻みの分業をみせるようになる。このころ以後町人人口は5000をこえ,1875年(明治8)には8644人を数える。十三町の南西には在町が発達し,中期以後職人,日傭層が居住した。町政は2~3人の町年寄,十三町方に2人,五町方に1人の問屋,各町ごとに1人の庄屋と2人の組頭が担当した。中央本線(1911全通)の建設の進行とともに運輸交通上の利点は失われたが,周辺農村の養蚕・製糸業の急激な発展によって1910年前後以後人口1万5000人をこす地方商業都市となった。
執筆者:古島 敏雄
飯田市北東部の旧村。旧下伊那郡所属。人口838(2000)。天竜川の支流遠山川上流域,赤石山脈の西斜面に位置し,東は静岡県に接する。西部を国道152号線が通る。かつて旧南信濃村とともに遠山郷とよばれた秘境で,中心の上町は秋葉道の難所といわれた小川路峠の峠口の宿場であった。村域の大部分は山林・原野で占められ,養蚕を中心に茶,シイタケなどの栽培や畜産が行われる。民俗芸能の宝庫として知られ,毎年12月には古式を残す湯立神楽霜月祭(重要無形民俗文化財)が行われる。村の中央部に雄大な景観を呈するしらびそ高原がある。1968年赤石林道が開通し,旧飯田市と直結した。
飯田市南東部の旧村。旧下伊那郡所属。人口2370(2000)。天竜川の支流遠山川流域を占め,南は静岡県に接する。南東部は赤石山脈,北西部は伊那山地が占め,その間を走る中央構造線に沿って遠山川が北東から南西に貫流する。川沿いの一帯は古く遠山郷と呼ばれ,秋葉街道(国道152号線)が通じる中心集落の和田は江戸時代に遠江の秋葉神社へ参詣する人々の宿場として栄えた。秋葉街道は三河の塩を信濃に運び,また木材を搬出する通路でもあった。山林資源に恵まれて林業が盛んで,養蚕や米作も行われ,近年はシイタケや茶の栽培が増えている。遠山郷を支配した遠山氏は江戸時代初期に一族の内紛により改易となったが,これが後に遠山氏が百姓一揆で滅ぼされたという伝説を生み,12月に行われる霜月祭(国指定重要無形民俗文化財)は遠山一族の霊を慰める祭りといわれる。
執筆者:萩原 毅
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長野県南部、天竜川の両岸にまたがる伊那盆地(いなぼんち)南部の中心都市。1937年(昭和12)飯田町と上飯田町が合併して市制施行。1956年(昭和31)座光寺(ざこうじ)、松尾、竜丘(たつおか)、三穂(みほ)、伊賀良(いがら)、山本、下久堅(しもひさかた)の7村、1961年川路(かわじ)村、1964年竜江(たつえ)、上久堅、千代(ちよ)の3村、1984年鼎(かなえ)町、1993年(平成5)上郷(かみさと)町をそれぞれ編入。2005年(平成17)下伊那郡上村(かみむら)、南信濃村(みなみしなのむら)を編入。市街地は天竜川の右岸で、天竜川と支流松川などがつくった段丘上にあり、西方には市のシンボルの風越山(ふうえつざん)(1535メートル)がそびえる。天竜川左岸は農村部で、6~7段にも及ぶ河岸段丘上に集落が散在し、伊那山地の分水界まで広がっている。JR飯田線と、中央自動車道および国道151号、153号、256号が幹線交通をなす。中央自動車道飯田インターチェンジがあり、名古屋市へ90分で達するため名古屋方面との関係が深い。三遠南信自動車道の整備も進んでいる。かつて遠山郷とよばれていた旧上村・南信濃村地区は国道152号(秋葉街道)が幹線道路で、418号、474号が接続する。
市街地は、織豊時代に毛利(もうり)、京極(きょうごく)氏らにより長姫城(おさひめじょう)(飯田城)の城下町として京都に倣い碁盤状に区画され、江戸時代に入って1672年(寛文12)以来幕末まで堀氏2万石の城下町として形成され、小京都といわれてきた。1947年(昭和22)の大火のため、城下町の姿は大半焼失し近代都市に改まったが、城跡や門、武家屋敷のようすなどが一部に残っている。文化的雰囲気が高いといわれ、市内には江戸時代の国学者太宰春台(だざいしゅんだい)の生家跡や、明治の日本画家菱田春草(ひしだしゅんそう)の碑や墓地、それに飯田藩主の菩提(ぼだい)寺長久寺などがあり、近郊には長野市善光(ぜんこう)寺の本家といわれる元善光寺(もとぜんこうじ)や、国指定重要文化財の山門をもつ開善寺(かいぜんじ)、五輪塔などをもつ文永(ぶんえい)寺などが散在している。また、開善寺の隣に飯田市考古資料館もある。龍江地区には人形浄瑠璃(じょうるり)の「今田人形」が伝わる。産業は、水田とリンゴ、カキ、ナシの果樹栽培、畜産などのほか、伝統産業である水引(みずひき)や番傘の製造が行われる。最近では精密電機産業が盛んである。また中学生が植えたリンゴの並木、天竜川での天竜峡の舟下りが有名。面積658.66平方キロメートル、人口9万8164(2020)。
[小林寛義]
『坂下広士著『飯田の昭和史――新時代への夜明け』(1971・伊那史学会)』▽『平沢清人著『飯田城と近世の飯田町』(1972・伊那文学会)』▽『大澤和夫編『飯田ものがたり』(1976・信濃路)』
石川県珠洲市(すずし)の中心地区。旧珠洲郡飯田町。能登(のと)半島の先端にあり、奥能登観光の拠点。朝市が有名。
[編集部]
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…しかし,一応安定するかにみえた信濃国も,46年(文安3)ころから小笠原氏内部の分裂抗争が起き,信濃国人もこれに巻き込まれていった。小笠原氏の内部抗争は伊那(飯田市)と府中(松本市)の分裂,さらに伊那小笠原氏の鈴岡,松尾の分裂となって現れた。抗争は鎌倉府と幕府の対立および応仁・文明の乱の東軍と西軍の対立と複雑にからみ,継続したまま戦国時代をむかえた。…
…(2)1897年(明治30)5月下旬富山県魚津町にはじまり,8月から10月にかけ,石川,長野,山形,新潟,福井の各県10ヵ所に及んだ。長野県飯田町の騒動がもっとも大きく,9月1日から3日にかけ,約2000名が米商と警察署を襲撃した。 以上2回の米騒動は凶作による不況と米価騰貴を原因とし,江戸時代の騒動の系譜をひく。…
※「飯田」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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