ワリ文化 (ワリぶんか)
ペルーのモチカ,ナスカ,ボリビア高原のティアワナコ各文化の栄えた100-800年の末期に,ペルー中部高地のアヤクチョ付近のワリHuariを中心として成立した文化。ワリの建造物群は火山性の台地の上に,1.2km×1.6kmの範囲に展開している。粗石を積み上げた高い壁が縦横に走り,長方形の建物や広場を取り囲む3階の建物がつくられ,祭祀センターとみられる神域には高さ10mの台形基壇が置かれ,板状の切石で壁,天井をつくった地下式建物,地下水路網が設けられている。しかし組織的調査がないので,その全貌は明らかでない。今は原位置にないが,灰白色凝灰岩を用いたワリ独特のスタイルをもつ石人像がつくられた。ボリビアからもたらされたとみられるトルコ石製の小石偶,土器の文様にはティアワナコの太陽の門にみる神像と同じモティーフやネコ科動物,タカ,蛇の文様があり,ナスカ,ティアワナコ両文化との深いかかわり合いを文化内容にみることができる。のちに発展し,北部ペルーからボリビアに至る広範囲に展開するティアワナコイデと呼ばれる第2期の文化ホライズンをつくる。
執筆者:松沢 亜生
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ワリ文化
わりぶんか
Huari (Wari)
6世紀の終わりごろから10世紀にかけてペルーに広まった文化。ペルー中部高地アヤクチョ地方のワリ遺跡が中心地と考えられている。理由は不明だが、6世紀終わりごろアヤクチョ地方に、ボリビアのティアワナコ文化の宗教表象が導入され、やがてワリは大きな人口の集中する都市となった。ティアワナコの「太陽の門」に描かれた石彫の「杖(つえ)を持つ神」と「走る人」のモチーフがワリの土器にも多彩色で表現され、やがてこのワリ様式の土器は南海岸のナスカ、北海岸のモチェの土器様式を消して、広まってゆく。ワリ様式の拡大とともに各地の地方文化の中心地が放棄された。カハマルカ文化のように連続がみられるものもあるが、その土器の文様にはやはり変化がある。ワリ様式の広がりは、単に土器様式の拡大だけではなく、各地に政治的・経済的変化をもたらした動きである。ワリ帝国という政治的・軍事的な大統合が生じたとする説もあるが、詳しいことはわかっていない。
[大貫良夫]
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世界大百科事典(旧版)内のワリ文化の言及
【アンデス文明】より
…[モチカ文化],[ナスカ文化],[カハマルカ]文化,[ティアワナコ文化]などは,古典期を代表する文化である。8世紀に入ると,ティアワナコ文化の強い影響下に成立した中部高地南部のワリ文化が急速に拡大し,古典期の地方文化を衰退に追いこむ。これ以後を後古典期(700‐1532)という。…
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