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神像 しんぞう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

神像
しんぞう

神道の姿を彫刻絵画に表わしたもの。平安時代初期に盛大となった本地垂迹説以後制作された。遺品として古い例に薬師寺蔵『僧形八幡神像』『神功皇后坐像』『仲津姫命坐像』,教王護国寺蔵『僧形八幡神像』『女神像』2躯,松尾大社蔵『男神像』『女神像』などがある。俗体姿に表現されるのが一般的で,容貌は神秘的な表情に造られる。神道美術として一様式を確立するまでには発達しなかった。

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デジタル大辞泉の解説

しん‐ぞう〔‐ザウ〕【神像】

神々の姿を、彫刻や絵画などに表したもの。

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百科事典マイペディアの解説

神像【しんぞう】

神をかたどった像。日本の神道では,元来,偶像を神体としてまつることはなかったが,仏教渡来後,本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想の発生に伴い造像されるに至る。彫刻に薬師寺蔵の僧形(そうぎょう)八幡像,神功皇后像,仲津姫像,絵画に鎌倉時代の薬師寺板絵神像などがある。
→関連項目エローラ神体

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世界大百科事典 第2版の解説

しんぞう【神像】

神の姿を彫刻や絵画で表したもの。日本に神像が出現するのは仏教が伝来して後,神仏習合思想が行われるようになった平安時代の初期からである。神仏習合思想はこの後さらに発展し本地垂迹(ほんじすいじやく)思想となり,平安時代末期から鎌倉時代にかけて非常な流行をみるようになった。神仏習合思想の起源は明確ではないが,史上にさかのぼれる記録としては741年(天平13)3月に宇佐八幡宮に《最勝王経》《法華経》各1巻を奉納し,18名の度者をおき,三重塔1基が造られている。

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大辞林 第三版の解説

しんぞう【神像】

神の姿を彫刻・絵画に表したもの。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

神像
しんぞう

神祇(じんぎ)信仰の神々を彫刻や絵画などで形に表現したもの。[佐藤昭夫]

日本

もともと日本の神信仰は、仏像や仏画を有する仏教と異なり、礼拝の対象としての偶像をもたず、伊勢(いせ)神宮が鏡を神体とするトーテミズム風の器物崇拝であったり、奈良の大神(おおみわ)神社が三輪山(みわやま)を、那智(なち)の飛滝(ひろう)神社が那智滝を礼拝の対象としているように自然物信仰であった。神々を人間像もしくはその類似像で表す神像がつくられるようになったのは、仏教伝来によって7世紀ごろからおこってきた神仏習合(神仏混交)思想による。つまり、仏教の普及のためには古くからの神々との融和が必要とされたわけで、聖武(しょうむ)天皇が東大寺大仏造立という大事業加護のために九州から宇佐八幡(はちまん)神を鎮守(ちんじゅ)神として迎えたことや、766年(天平神護2)に伊勢社に神宮寺を建立したことなどはその例である。これは日本の神も仏法を喜び守護するという立場を明らかにしたものであるが、この考えはさらに進んで延暦(えんりゃく)(782~806)以降は神々に菩薩(ぼさつ)号をつけることが始まり、10世紀ごろになると、神は仏が姿を変えて日本の地に「迹(あと)を垂れた」、すなわち神は仏の変化身(へんげしん)の一つであるという本地垂迹(ほんじすいじゃく)説が生まれた。11~12世紀には特定の神にそれぞれ定まった本地仏がある(八幡神の本地が阿弥陀(あみだ)であり、熊野速玉(はやたま)の神の本地は薬師(やくし)であるなど)とするようになる。
 文献上に神像が現れるのは、763年(天平宝字7)ごろ僧満願が多度神宮寺に多度大菩薩の神像をつくったこと、平安初期の804年(延暦23)ごろ月読宮(つきよみのみや)の神体として、騎馬で紫の衣を着、黄金づくりの帯に太刀(たち)を佩(は)いた男神像が造立された例などが古い。このように奈良時代末から神像がつくられたという記録はあるが、盛んになるのは平安時代以後である。
 現存する最古の神像とされる京都・東寺の八幡三神像(国宝、9世紀後半)は、もと同寺の鎮守社であった八幡社の神体で、3体とも同一材を用いた一木造(いちぼくづくり)で、木地の上に部分的に厚く木屎漆(こくそうるし)を置き、さらにかなり厚手の彩色を施す造像法をとっている。これは奈良時代の木心乾漆像の手法を残したもので、明らかに仏像の表現や技法から学んだことがわかる。このうち男神像の僧形(そうぎょう)八幡神は名のとおり僧侶(そうりょ)の姿だが、2体の女神像は髻(もとどり)をつくり、髪は長く肩に垂れ、大袖(おおそで)の上に背子(はいし)を重ね、裳(も)をつけるという装いである。以後、大部分の神像は、公家(くげ)貴族の男女が正装した姿で表されるのが通例で、男神像では冠を頂き、大袖の袍(ほう)をつけ、笏(しゃく)をとった姿が多い。このように神像が写実的傾向を示すのは、神像が仏像を源流としながら、本地仏との関係で仏像とはまったく姿を変えた表現をとる必要があったためと考えられる。また仏像の一木造の全盛期であった平安初期に神像の流行が始まったため、寄木造(よせぎづくり)の技法が完成した藤原時代にも、神像では伝統的な一木造の素朴で清純な品格が尊ばれたのは、神社建築が白木(しらき)造の持ち味を賞揚したのと軌を一にしている。彩色も、ごく初期の像を除いては、木地にじかになされているのも、同じ理由と考えられる。
 しかし鎌倉時代に入り、武家が神祇を利用し、神道(しんとう)として形式づけてから本地垂迹説はいっそう精細になり、神仏の密接な関係が強調されるなかで、神像は盛んに広範囲につくられる一方、しだいに形式化していった。そして神像制作が仏師の手になるようになって、寄木造の仏像彫刻の様式手法によるものが主流になると、神像には藤原時代以来の清純素朴さは地方的なものになってゆき、神性や品格も薄れて肖像彫刻もしくは人形的な表現に堕し、しだいに衰退した。
 神像彫刻の代表的なものとしては前記の諸作のほか、奈良・薬師寺の僧形八幡三神像(国宝)、京都・松尾(まつのお)大社の男女神像(以上平安初期)、滋賀・小津(おづ)神社の宇賀之御魂命(うがのみたまのみこと)像、熊野速玉大社の男女神像(以上平安後期)、快慶作の東大寺の僧形八幡神坐像(ざぞう)(国宝、1201、もと手向山(たむけやま)八幡社神体)、吉野水分(みくまり)神社の玉依姫命(たまよりひめのみこと)坐像(国宝、1251)、静岡・般若院(はんにゃいん)の伊豆山権現(ごんげん)像(以上鎌倉時代)などがある。また滋賀・園城寺(おんじょうじ)の新羅(しんら)明神坐像(国宝)は中国で信仰された神といわれ、異様な風貌(ふうぼう)をもった平安後期の作である。
 神の画像は平安期にさかのぼるものは1点もないが、鎌倉時代に入ると単なる神の肖像ばかりでなく、祭神についての伝説を表したものもある。京都・醍醐寺(だいごじ)清滝(きよたき)社の祭神を描いた『清滝権現像』(1262)、高野山(こうやさん)の地主神を描いた『狩場明神・丹生(にう)明神像』、薬師寺の『板絵神像額』(堯厳(ぎょうごん)作、1295)などが有名である。
 また、神像の特殊なものとしては、仏教と日本の山岳信仰の結び付きから生まれた修験道(しゅげんどう)の中心的存在として、役行者(えんのぎょうじゃ)が感得したという忿怒形(ふんぬぎょう)の天部(てんぶ)像に近い形をとる蔵王権現(ざおうごんげん)像が11世紀ごろからつくられ、鎌倉後半期に入ると修験道の開祖としての役行者像などもつくられた。[佐藤昭夫]

西洋その他

西洋の神像は一般に人間像あるいは動物像の形で彫刻や絵画に表現された。とくに古代では、呪術(じゅじゅつ)的祭祀(さいし)の対象としての偶像が多くみられるが、旧石器時代の後期からヨーロッパ各地に出現する地母神(ちぼしん)像は、豊饒(ほうじょう)と多産の呪術と関連するものとみられる。
 原始宗教における神像は神々に対する人間の考え方を反映するもので、たとえばイランの原始宗教マズダ教の主神アフラ・マズダーは、紀元前7~前6世紀後半にゾロアスター教(拝火教)の主神となるが、アケメネス朝時代には、左右に大きな翼を広げた円盤の輪の中に人間の半身の形で表されている。それがササン朝には、地上に降りて人間と同じ形で表現されているが、これは、王権が神より強くなったときに、神像が人間像に近づくことを暗示している。また自然現象や樹木などの植物が神として奇怪な形をとることも珍しくなく、この場合、神々はそれぞれの分野で専門別に事物をつかさどるのである。たとえば樹神は自然霊信仰の表れで、植物は自然の生命力の象徴となる。
 エジプト文化は墓と神殿の文化ともいわれ、新王国時代には国家の守護神アメン神の大神殿が次々に建設され、壁面や塔門にアメンほかエジプトの神々の像が刻まれた。古代エジプトの神像では人体に動物の頭をつける神も多い。ホルスは鷹(たか)、トトは朱鷺(とき)(イビス)、ハトホルは牝牛(めうし)、クヌムは牡羊(おひつじ)で、ミン、アトウム、イシス、オシリスなどは多くの場合、完全な人間の姿で表される。
 古代地中海世界では、ミノス文明期に「蛇女神」が出現しているが、蛇は農耕時代の神に共通するシンボルである。ギリシアの神像は理想的な人間美の極致として描かれ、超越性の表象というよりは美しい肉体の賛美となり、アルカイック期からヘレニズム期にかけて多くの像がつくられている。とくに美の女神アフロディテ(ビーナス)は神像であると同時に美しい裸体の人間像として、美術史上重要な位置を占めている。
 マヤ、アステカ、インカなど、中南米の農耕に依存する民族にあっては、水の恵みと豊饒力を象徴する農業神が信仰の主対象となった。マヤでも蛇が雨の神、水の神の属性として象徴され、目から涙するチャクは雷雨の神である。農耕の神はトウモロコシの若い穂を冠にした青年神で表され、風の神、金星の神はケツァルコアトルという霊鳥で表現されている。人々は石柱や神殿の壁面をすきまなくこれらの神々の像で埋め尽くした。
 キリスト教では本来、偶像表現を禁止していたが、「万能の神としてのキリスト」あるいは「最後の審判におけるキリスト」のように、唯一神としてのキリストを描くようになった。ビザンティン美術の影響の及んだ地域では、聖画像(イコン)が礼拝の対象として数多くつくられ、東方教会ではイコンの伝統が守り抜かれて今日に至っている。西方ローマ教会では聖画像としてロマネスク、ゴシック期を経て、イタリア15世紀のルネサンスに花開いた。ラファエッロやレオナルドの「聖母子像」や「キリスト」は、神像の一つの典型としての意味をもち続けて今日に至っている。[友部 直]
『景山春樹著『神像――神々の心と形』(1978・法政大学出版局) ▽岡直己著『神像彫刻の研究』(1966・角川書店)』

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世界大百科事典内の神像の言及

【神道】より

…さらに,和歌の中にも教典的な受取り方をされてきたものが数多く見いだされる。
[神像と神体]
 山・川,雨・風,芽生え・実りなど,神道でまつられる神々は,人間の目でとらえることはできないものとされ,その姿を神像としてあらわすことは考えられなかった。神々が来臨する祭りの場では,依代・尸童が神とされ,岩や巨木,鏡・剣・玉などが礼拝の対象となっていた。…

【平安時代美術】より

…量感豊かな薬師三尊像は,表現には前世紀の余韻があるが,その構造技法はまさに寄木造への過渡的な段階を示し,板絵における技法が東寺の《真言院曼荼羅》のそれを踏襲しながら,表現に次代のおだやかな整斉への傾斜を認めるのと相応している。一方,天台系では円仁,円珍によって密教化が進み,特に円珍は忿怒尊中に黄不動,神像中に新羅明神のような異形の尊像を感得したが,それらの画像彫像をいまも伝存している園城寺には,彼のそうした特異な風貌を示す2軀の肖像彫刻も保存されている。10世紀前半の法性寺のいわゆる三面千手観音立像も,こうした天台系の異形像の一である可能性がある。…

※「神像」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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