七北田村(読み)ななきたむら

日本歴史地名大系 「七北田村」の解説

七北田村
ななきたむら

[現在地名]泉市黒松くろまつ一―三丁目・旭丘堤あさひがおかつつみ一―二丁目・向陽台こうようだい一―五丁目・山の寺やまのてら一―三丁目・南光台なんこうだい三丁目・将監しようげん一丁目・いずみおか一―五丁目・東黒松ひがしくろまつ・七北田・友愛町ゆうあいちよう明通あけどおり一―四丁目・愛隣町あいりんちよう北高森きたたかもり高森たかもり三丁目・同六―七丁目

松森まつもり村・市名坂いちなさか村の西、七北田川の河岸段丘に立地し、村中を同川が東流。南東は平坦だが、北から北西は明通山・蛇石へびいし山・黒崎くろさき山などの低い山々が連なり、南も黒松山などに続く。宮城郡および黒川郡の併せて一〇ヵ村と境を接する。村の東部を奥州街道が南北に通り、宿が形成されていた。「安永風土記」に、七北田宿駅前身は源頼朝の時代にさかのぼり、その後大崎氏の命により上谷刈かみやがり村との境に近い村地籍に宿駅を設置、そこを七北田村と名付けた。元和年中(一六一五―二四)同所より宿駅を当所に移した。旧地を本七北田もとななきたというとある。また同書は近隣七ヵ村の名をあげ、「七ケ村之東南之隅ニ田丁在之、七ツの村々を北ニ見候と申意を以七北田村と称候由申伝候」と記す。当地にある洞雲どううん寺の永正一五年(一五一八)鐘銘に所在地を記して大菅谷おおすげや保とある。また「観蹟聞老志」は同じく洞雲寺の所在地を「七北田東、北根村」と記し、市名坂村御霊みたま明神社が元和五年に勧請された当時、鎮座地は北根きたね高玉たかだまといっていたというので(市名坂村安永風土記)、当地辺りは室町時代には大菅谷保といい、江戸初期には北根村に含まれていたようである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報