坂村(読み)さかむら

日本歴史地名大系 「坂村」の解説

坂村
さかむら

[現在地名]坂町 中村なかむら西側にしがわ植田うえだ鯛尾たいび水尻みずしり二艘木にそうぎ一帯

広島湾東岸に位置するが平地は少なく、集落は、北流して海田かいた湾に注ぐ総頭そうず川の河谷に発達した坂本郷さかほんごうと、その河口の西に位置する陸繋島の砂州部の横浜よこはまおよび南隣の大屋おおや(現呉市)に接する小屋浦こやうらの三ヵ所に集中している。

文安二年(一四四五)東隣の矢野やの(現広島市安芸区)に野間氏が来住し、勢力を拡大してくると、坂もその治下に入った。野間氏は弘治元年(一五五五)毛利氏の攻撃を受けて滅亡し、その遺領は毛利氏の家臣らに分与された。坂に給地を与えられた者で名前の判明するのは、年未詳一一月一六日毛利隆元書状(「閥閲録」所収赤川勘兵衛家文書)に「佐藤又右申分心得候、今十貫儀於坂ニ可遣置候」とある佐藤元実、天正五年(一五七七)閏七月一七日毛利輝元宛行状(同書所収宍戸四郎五郎家文書)で「芸州矢野坂之内疋田給参貫目」などを宛行われた宍戸元行などである。


坂村
さかむら

[現在地名]向原町坂

長田ながた村の東に位置し、西流する三篠みささ川上流とその支流域に集落がある。東北は大土おおつち(八〇〇・一メートル)で、三次みよし(現双三郡)、東は豊田郡(現賀茂郡)に接する。「芸藩通志」に「広さ一里九町余、袤十二町、東南北は山連り、ただ西のみひらけたり、谷川村中より出る、是長田川の源なり」とあり、「国郡志下調書出帳」には「当村大川筋、水上は谷坂山滝之下より川下長田村落合まで、水筋当村分一里半」と記される。西北方の吉田よしだ(現吉田町)より戸島としまを経て当村に入り、三篠川沿いに上って谷坂たにさか峠を越え、豊田郡別府べふ(現賀茂郡豊栄町)を通り、椋梨むくなし川・沼田ぬた川沿いに三原へ出る三原往還があり、坂村は南部方面への交通の要衝であった。


坂村
さかむら

[現在地名]枚方市牧野阪まきのさか一―三丁目・西牧野にしまきの一―四丁目・三栗めぐり二丁目・黄金野こがねの一丁目・牧野本まきのほん町一―二丁目・牧野下島まきのしもじま町・東牧野ひがしまきの町・招提平野しようだいひらの

交野かたの郡に属し、淀川左岸沿いの沖積低地に位置する。穂谷ほたに川が西に流れて淀川に注ぐ。淀川沿いに京街道が通り、北は下島村・宇山うやま村。村名は穂谷川沿いの斜面に位置することによる。「延喜式」神名帳に載る交野郡「片野カタノヽ神社」「久須々美クススミノ神社」は、ともに当村にあり、古くから開けた地であったことを物語る。「河内志」に「坂属邑一」とみえる枝郷は九頭神くずかみをさし、白鳳期から平安時代に至る九頭神廃寺跡からは丸瓦・平瓦が出土した。


坂村
おうさかむら

[現在地名]四條畷市逢阪おうさか

江戸時代には中野なかの村の分郷で中野村逢坂郷と称し、同じく中野村分郷のかみ郷の東方、標高約二四五メートルの山間部に位置する。村域中央部を東西に清滝きよたき街道が通り、東方下田原しもたわら寄りに同街道の最高所清滝がある。地名は、当地北方山中にあった小松こまつ(跡地は現交野市)の縁起(河内国小松寺縁起)に載せる保延五年(一一三九)の勧進奉加帳に「大坂郷」とみえ、寄進者として同郷住人勝光・安弘などの名がある。また久安元年(一一四五)同寺修二月会勤行に寄付した諸郷のうちに甲可こうか郷などとともに「大坂郷」が載る(ただし以上の文書には検討の余地がある)


坂村
さかむら

[現在地名]出島村坂

東は霞ヶ浦に臨み、北は田伏たぶせ村、西は中台なかだい村。古代は「和名抄」記載の佐賀さか郷の本郷の地に比定される(新編常陸国誌)。中世は南野みなみの庄に属したが、天正期(一五七三―九二)に佐竹氏の支配下に入り、のち一族の東義久の知行地となり、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「さかもりさく」とある。慶長七年(一六〇二)佐竹氏移封後は水戸藩領となり、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に村高一三五八・〇五石、ほかに新田一八石余とある。


坂村
あいさかむら

[現在地名]楠町大字船木ふなきの一部

山陽道に沿って広がる農村。北東は舟木ふなき舟木市ふなきいち、東は棚井たない(現宇部市)、南は有帆ありほ高畑たかはた(現小野田市)、西は末益すえます(現山陽町)、北は厚狭(現山陽町)の各村に接する。村の東部を有帆川が南流、北西部は三条さんじよう山がそびえ、山岳地帯である。萩藩領で舟木宰判に属する。

近世後半まで当村は舟木村に含まれ、「地下上申」には舟木村の小村として逢坂の名がみえ、地名由来を「往古近衛院之御宇、源三位頼政息女二条院讃岐和歌の御志の由ニて諸国御廻り之御時乳人尋来、此所ニて逢奉候故逢坂村と申来候」と記す。

「注進案」に独立村として記され、総田畠数一四〇町余で総石高一千七一五石余、このうち一四八石が厚狭毛利氏の給領地で残りは蔵入地である。


坂村
おうさかむら

[現在地名]香芝町大字逢坂

穴蒸あなむし村東方、高台地の村。欠年の金峯山免田田数注進状(天理図書館保井文庫)に「十八条三里 六坪六反内四反仲林寺大坂 二反総次郎大坂」などとみえる。河内国国分こくぶ(現大阪府柏原市)に通ずる国分―田尻たじり(国分越大坂街道)と、同国磯長しなが(現大阪府南河内郡太子町)に至る穴虫あなむし(太子道)への両街道分岐点に立地。

慶長郷帳には「大坂村」とみえ村高五四九・三一石、備中松山藩(小堀政一)領。のち小堀氏の陣屋移転により近江小室藩領となる。天明八年(一七八八)伏見奉行小堀政方の失政による改易で、幕府領に編入。


坂村
さかむら

[現在地名]多古町坂

方田ほうだ村の東に位置する。栗山くりやま川の支流土仏どぶつ川に沿って水田が広がり、丘陵上に人家が散在する。寛文四年(一六六四)の松平重利領知目録と同年の松平乗久領知目録(ともに「寛文朱印留」)に村名がみえ、下野皆川藩領と佐倉藩領の相給であったようだ。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高三八三石余、旗本中根・新見・妻木領の三給。弘化二年(一八四五)の関東取締出役控帳では家数三九、旗本篠山・新見・妻木・中根領と吉田意安法印領の五給。


坂村
さかむら

[現在地名]龍野市揖西町土師いつさいちようはぜ

土師村の東に位置し、揖西郡に属する。東は峠を隔てて片島かたしま(現揖保川町)。集落は薬師やくし山の西麓に形成され、なだらかな窪地にわずかに水田がある(寛文九年「村絵図」八瀬家蔵)。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は北龍野村と同じ。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高九二石余、高七六石余。正保郷帳では田方五六石余・畑方一九石余。


坂村
さかむら

[現在地名]清見村坂下さかした

三ッ谷みつだに村の西にあり、川上かわかみ川の支流小井戸こいと谷流域を村域とする。川上川沿いの高山街道は当村で小井戸谷沿いに有巣あつそ峠へ延び、峠を境に以北の村々を「みねうち」とよび、以南の村々を「みねそと」とよんだ。元禄飛騨国検地反歩帳の川上郷に村名がみえ、高六石余、田九反余・畑一町余。「飛騨国中案内」によれば免は四割三厘余、家数七、うち百姓六・門屋一。


坂村
さかむら

[現在地名]春日町坂

北端を黒井くろい川が流れ、東は歌道谷うとう村。丹後への道が通る。領主の変遷は古河ふるかわ村に同じ。正保郷帳に村名がみえ田高七二石余・畠高一石余、柴山あり、日損・水損少し。元禄郷帳では高一二一石余。「丹波志」によると高は変わらず家数一〇。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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