朝日日本歴史人物事典 「三好康長」の解説
三好康長
戦国時代の武将。長秀の子で元長の弟。長慶の叔父に当たる。通称孫七郎。山城守。三人衆に次いで長慶に信任され,永禄5(1562)年5月の河内教興寺の戦では畠山高政撃破に活躍,長慶の死後も河内高屋城(大阪府羽曳野市)城主として三人衆方の重臣となる。松永久秀が三人衆に反目すると同8年11月の飯盛山城攻め,翌年5月の堺攻めに参加,この働きで足利義栄の将軍任官が実現した。しかし同10年10月の大仏炎上により三人衆は畿内の人心を失い,翌年9月の織田信長の上洛によりこの政権は瞬時に崩壊する。12年1月,信長帰国の隙に将軍足利義昭を京都本圀寺に急襲するが果たさず,以後石山本願寺の顕如と結んでゲリラ戦に転じた。天正2(1574)年4月,顕如と呼応して高屋城に挙兵し,遊佐信教と共に善戦したが,翌年松井友閑を頼って信長に下る。信長の晩年には織田信孝のもとで四国攻めに従事,信長死後は羽柴(豊臣)秀吉に接近して,三好秀次を養子に迎え,天正10年9月共に根来攻めに従う。晩年キリシタンに帰依したと伝えられる。
(今谷明)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報