朝日日本歴史人物事典 「三好元長」の解説
三好元長
生年:文亀1(1501)
戦国時代の武将。長秀の子。幼名千熊丸。筑前守。のち長基と改名。永正17(1520)年5月の洛中等持寺の戦で祖父之長が敗れ刑死したのち,三好氏の家督を継ぐ。大永6(1526)年10月,丹波の柳本賢治らが執政細川高国に反すると連動して阿波に挙兵し,細川澄元の遺子晴元を擁した。一族三好勝時らの活躍で翌7年2月山城桂川で高国が敗れると,翌月晴元と足利義晴の兄弟義維を擁して堺に上陸。高国らは近江へ逃亡し,義維,晴元,元長の3者を軸とする堺公方府が成立,事実上畿内を支配した。元長はこの政権で山城守護代に補任され,晴元軍の中核を構成したが賢治らに讒され,享禄2(1529)年8月いったん阿波に帰る。しかし西から高国が挽回して同4年3月摂津天王寺に進出すると,晴元の要請を受けて出兵,同6月高国軍を大破した(天王寺崩れ)。しかし結局晴元の疑いは解けず,翌年6月,晴元の使嗾で蜂起した一向一揆の攻撃で自刃。長慶はその子。<参考文献>長江正一『三好長慶』
(今谷明)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報