戦国時代の武将。はじめ利長,範長と名のる。伯陽軒と号する。法号聚光院。阿波芝生(しぼう)城に生まれる。幼名千熊丸,孫次郎。堺公方府の山城守護代で阿波の名族三好元長の嫡男。32年(天文1)父元長が堺顕本寺で敗北したとき阿波に逃れ,翌年12歳の幼少ながら三好軍を率いて早くも畿内戦線に登場,本願寺と細川晴元の和議を調停したりしている。34年末には摂津守護細川晴元の被官となり,越水城(現,西宮市)主,摂津守護代の地位を与えられ,40年丹波八上城(現,兵庫県篠山市)主波多野秀忠の女をめとった(のち河内守護代遊佐信教の女と再婚)。しかし晴元に寵愛された同族政長と対立し,49年晴元に叛して摂津江口(現,大阪市東淀川区)に政長を敗北させ,同年7月入京を果たした。以後将軍足利義輝と和戦を繰り返したすえ53年ついに晴元,義輝を遠く近江朽木へ追放し,名実ともに畿内政権の覇者となった。その勢力圏は山城,摂津,河内,和泉,丹波,淡路,阿波,讃岐の8ヵ国に及び,あたかも戦国大名の観を呈した。しかし室町幕府の機構を完全には払拭できず,政所執事伊勢貞孝,政所代蜷川親俊らを訴訟事務に関与させていた。58年(永禄1)義輝と講和して入京させると,京都支配を放棄するのやむなきに至っている。このころから丹波八木城主松永長頼の兄である松永久秀が台頭し,三好政権の裁判権は漸次久秀に掌握されていくが,こうした幕府との対決回避,久秀台頭を招来したのは長慶の優柔不断な性格が一因ともいえよう。義輝と講和以後は幕府御供衆から相伴衆へと進み,河内,大和を平定して直接配下に収め,本拠を摂津芥川城(現,高槻市)から河内飯盛城(現,大阪府四条畷市)に移した。晩年は政事に倦み,病身の上,精神に異常をきたし,実子義興,実弟十河一存,義賢ら名将を病死あるいは戦死で失い,久秀の密告で腹心の安宅冬康まで殺害して,その政権は弱体化した。和歌,連歌など文学に優れ,宗牧,紹巴らと交流があり,キリスト教の布教も黙許するなど,新文化の理解者といわれる。
執筆者:今谷 明
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戦国時代の武将。阿波(あわ)守護細川家の家臣で、細川晴元(はるもと)を畿内(きない)の支配者に押し上げた元長(もとなが)の子。幼名は千熊丸(せんくままる)。実名は初め利長(としなが)、のち範長(のりなが)。1532年(天文1)父元長が討ち死にし若年で家督を継ぐ。33年細川晴元と大坂石山本願寺の証如光教(しょうにょこうきょう)との和睦(わぼく)を仲介、34年8月には一向一揆(いっこういっき)方と連合して晴元と戦うが、同年10月には河内(かわち)の守護代木沢長政(ながまさ)の仲介で晴元に帰属する。しかし49年6月摂津江口(えぐち)(大阪市東淀川(ひがしよどがわ)区)で細川晴元・三好政長(まさなが)の軍を破り、晴元、前将軍足利義晴(あしかがよしはる)、将軍義輝(よしてる)を近江に追い、管領細川氏を中心とした支配体制を崩壊させ、山城(やましろ)・摂津の実権を握る。52年将軍義輝と和すが53年ふたたび近江(おうみ)に追い、58年(永禄1)またふたたび義輝と和す。この間、弘治(こうじ)年間(1555~58)ごろまでに山城・摂津を中心に畿内から四国・瀬戸内海東部に及ぶ九か国に勢力を拡大した。長慶は管領制を終わらせ、室町幕府体制の新しい段階をつくった。また、その権力は、畿内支配の本拠を京都には置かず、摂津の越水(こしみず)城(兵庫県西宮(にしのみや)市)、芥川(あくたがわ)城(大阪府高槻(たかつき)市)、河内の飯盛(いいもり)城(大阪府四條畷(しじょうなわて)市)に置いた点で、従来の畿内政権にはみられない新しい支配方式を採用した戦国期権力であった。しかし、将軍のもつ伝統的な権威・権限を解体しようとはせず、幕府依存の体質を止揚(しよう)することはなかった。61年以後は実弟十河一存(そごうかずまさ)、三好義賢(よしかた)の敗死などがあって勢力が低下。さらに63年嫡子義興(よしおき)が急死すると意欲を失い、永禄(えいろく)7年7月4日、飯盛城で没した。
[矢田俊文]
『今谷明著『言継卿記』(1980・そしえて)』
(今谷明)
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1522~64.7.4
戦国期の武将。元長の嫡男。初名利長,ついで範長。孫次郎。伊賀守・筑前守・修理大夫。1532年(天文元)父の討死により家督を継承。細川晴元の将だったが,48年離反。翌年,将軍足利義輝と晴元を近江に駆逐。52年義輝と和すが,翌年再び近江に追った。同年摂津国越水城(現,兵庫県西宮市)から同国芥川城(現,大阪府高槻市)にうつる。58年(永禄元)再度義輝と和して京都に迎え,60年には配下の松永久秀が大和を制圧,畿内全域と丹波・淡路・讃岐・阿波各国を支配下におき,みずからは河内国飯盛山城(現,大阪府四條畷市)に入った。63年に嫡子義興(よしおき)が急死すると政務への意欲を失い,翌年久秀の讒言で弟安宅冬康を殺害後,まもなく病死。
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…戦国時代に入り細川一族が分争すると,淡路守護細川尚春は細川澄元方として細川高国方と戦ったが,高国方に下ったため1519年(永正16)三好之長に攻め滅ぼされた。やがて三好長慶は弟冬康に安宅氏の家名を継がせ,由良城に置いて淡路を治めさせた。54年(天文23)長慶は洲本で3人の弟三好義賢,十河一存(そごうかずなが)および安宅冬康と会合して戦略を練った。…
…屋内の障壁画(国宝)のうち室中の《花鳥図》,上二之間の《琴棋書画図》は狩野永徳筆,下二之間の《瀟湘八景図》,上一之間の《竹虎遊猿図》はその父松栄筆で,壮大な画面構成や雄勁な筆致は桃山障壁画の代表とされる。《三好長慶画像》(1566)は重要文化財。本堂北東の書院は,千宗左が利休百五十回忌の追善茶会のため寄進したもので,1739年(元文4)から翌年にかけて造営され,北西隅の茶室閑隠席(かんいんせき)は重要文化財。…
※「三好長慶」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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