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三好長慶 みよし ちょうけい

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美術人名辞典の解説

三好長慶

戦国時代の武将。幼名千熊丸。元服後孫次郎、利長、範長、のち伊賀守、筑前守、修理大夫。父元長の戦死により10才で家督を継ぎ、2年後には管領細川晴元に仕える。将軍足利義輝と晴元に離反と帰参を繰り返し、ついには京に上り実権を掌握、畿内を中心に八か国を支配した。名君と謳われる一方、連歌を能くし当時の武将の中でも一級の教養人であった。永禄7年(1564)歿、43才。

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デジタル大辞泉の解説

みよし‐ながよし【三好長慶】

[1523~1564]戦国時代の武将。初め管領(かんれい)細川晴元の執事。将軍足利義輝を追放し、晴元を退けて権勢を振るったが、晩年は家臣の松永久秀に実権を握られた。連歌をよくした。

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百科事典マイペディアの解説

三好長慶【みよしながよし】

戦国時代の武将。名は範長。管領(かんれい)細川晴元に従い和泉・河内(かわち)の代官であったが,のち晴元を退け,畿内・四国にわたって8ヵ国を支配。晩年は家臣松永久秀に権力を奪われた。
→関連項目芥川城足利義輝足利義晴飯盛城下剋上聚光院高屋城三好三人衆

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

三好長慶 みよし-ながよし

1522-1564 戦国時代の武将。
大永(たいえい)2年2月13日生まれ。三好元長の長男。細川晴元につかえる。のち晴元にそむき,天文(てんぶん)18年(1549)京都を制圧。弟義賢(よしかた)らの協力で堺を基盤とし,永禄(えいろく)3年には畿内,四国で8ヵ国を経営。6年長男義興(よしおき)の死で気力をうしない,家臣の松永久秀に実権をうばわれた。連歌にすぐれ,茶人としても著名。永禄7年7月4日死去。43歳。名ははじめ利長,範長。

三好長慶 みよし-ちょうけい

みよし-ながよし

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朝日日本歴史人物事典の解説

三好長慶

没年:永禄7.7.4(1564.8.10)
生年:大永2.2.13(1522.3.10)
戦国大名。父は阿波・山城守護代三好元長。幼名千熊丸,通称孫次郎,実名ははじめ範長。伊賀守,筑前守,修理大夫。父元長は天文1(1532)年主細川晴元に疎まれ,同6月一向一揆の攻撃で非業の死を遂げたが,長慶は翌年12歳にして早くも本願寺と晴元の講和を斡旋するなど軍略と勢威に非凡さをみせ,同3年10月には木沢長政の仲介で仇の晴元に帰参した。同8年一時晴元に背くが,8月摂津越水城主となり摂津西半国守護代となる。同11年3月には河内太平寺で長政を敗死させ,晴元被官中最大勢力に成長した。同16年7月,摂津舎利寺の合戦で細川氏綱,遊佐長教の連合軍を破り,その勢いで晴元から離反,氏綱を擁し,同18年6月摂津江口の戦で晴元軍に大勝,入京して天下人となる。その後数年間は将軍足利義輝,細川晴元らと抗戦・和睦を繰り返すが,同22年7月義輝・晴元連合軍を京都霊山に破って将軍らを近江へ追放,事実上の独裁政権を樹立した。江口と霊山の戦勝は,明応2(1493)年以来畿内政治を規定してきた細川宗家による京兆家専制を解体し,のちの織田信長政権のモデルとなる権力を構想したもので意義は大きい。 以後永禄1(1558)年末まで,旧室町幕府政所執事伊勢貞孝らの補佐を得ながら畿内の最高権力者として専制政治を敷き,分国は山城,丹波,摂津,和泉,淡路,讃岐,阿波の7カ国におよんだ。永禄1年末には将軍義輝と和してその還京を許した。同年山城を失うが翌年河内和泉を,翌々年には大和を併合,本拠を摂津芥川から河内飯盛山に移し,分国数では北条氏と並ぶ大大名に成長する。その領国経営は旧勢力根絶には至らず微温的施策にとどまり,堺や安宅水軍を擁し鉄砲など最先端軍事技術を保有する半面,キリシタンを受容するなど特異な性格を持った。しかし晩年は家宰松永久秀の台頭に押され,嫡子義興を失い,将軍義輝との調整に悩みながら失意のうちに病死した。文芸に秀で,連歌の名手でもあった。<参考文献>今谷明『戦国三好一族』

(今谷明)

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世界大百科事典 第2版の解説

みよしながよし【三好長慶】

1522‐64(大永2‐永禄7)
戦国時代の武将。はじめ利長,範長と名のる。伯陽軒と号する。法号聚光院。阿波芝生(しぼう)城に生まれる。幼名千熊丸,孫次郎。堺公方府の山城守護代で阿波の名族三好元長の嫡男。32年(天文1)父元長が堺顕本寺で敗北したとき阿波に逃れ,翌年12歳の幼少ながら三好軍を率いて早くも畿内戦線に登場,本願寺と細川晴元の和議を調停したりしている。34年末には摂津守護細川晴元の被官となり,越水城(現,西宮市)主,摂津守護代の地位を与えられ,40年丹波八上城(現,兵庫県多紀郡篠山町)主波多野秀忠の女をめとった(のち河内守護代遊佐信教の女と再婚)。

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大辞林 第三版の解説

みよしながよし【三好長慶】

1522~1564) 戦国時代の武将。管領細川晴元に仕えたが、主家の衰退に乗じて実権を奪い、将軍足利義輝を擁して権勢を振るった。晩年は家臣の松永久秀に圧倒され、勢力を失った。連歌に秀でた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

三好長慶
みよしながよし

[生]大永3(1523).阿波
[没]永禄7(1564).7.4. 河内
戦国時代末期の武将。元長の子。幼名,千熊丸,孫次郎。初名,範長。天文2 (1533) 年家督を継ぎ,細川晴元の執事として和泉,河内の代官をつとめたが,のち晴元と対立。同 18年三好政長を攻め殺し,同 21年には管領細川氏に代って権力を握り,上洛して将軍足利義輝を後見して三好氏全盛時代を現出した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

三好長慶
みよしながよし
(1522―1564)

戦国時代の武将。阿波(あわ)守護細川家の家臣で、細川晴元(はるもと)を畿内(きない)の支配者に押し上げた元長(もとなが)の子。幼名は千熊丸(せんくままる)。実名は初め利長(としなが)、のち範長(のりなが)。1532年(天文1)父元長が討ち死にし若年で家督を継ぐ。33年細川晴元と大坂石山本願寺の証如光教(しょうにょこうきょう)との和睦(わぼく)を仲介、34年8月には一向一揆(いっこういっき)方と連合して晴元と戦うが、同年10月には河内(かわち)の守護代木沢長政(ながまさ)の仲介で晴元に帰属する。しかし49年6月摂津江口(えぐち)(大阪市東淀川(ひがしよどがわ)区)で細川晴元・三好政長(まさなが)の軍を破り、晴元、前将軍足利義晴(あしかがよしはる)、将軍義輝(よしてる)を近江に追い、管領細川氏を中心とした支配体制を崩壊させ、山城(やましろ)・摂津の実権を握る。52年将軍義輝と和すが53年ふたたび近江(おうみ)に追い、58年(永禄1)またふたたび義輝と和す。この間、弘治(こうじ)年間(1555~58)ごろまでに山城・摂津を中心に畿内から四国・瀬戸内海東部に及ぶ九か国に勢力を拡大した。長慶は管領制を終わらせ、室町幕府体制の新しい段階をつくった。また、その権力は、畿内支配の本拠を京都には置かず、摂津の越水(こしみず)城(兵庫県西宮(にしのみや)市)、芥川(あくたがわ)城(大阪府高槻(たかつき)市)、河内の飯盛(いいもり)城(大阪府四條畷(しじょうなわて)市)に置いた点で、従来の畿内政権にはみられない新しい支配方式を採用した戦国期権力であった。しかし、将軍のもつ伝統的な権威・権限を解体しようとはせず、幕府依存の体質を止揚(しよう)することはなかった。61年以後は実弟十河一存(そごうかずまさ)、三好義賢(よしかた)の敗死などがあって勢力が低下。さらに63年嫡子義興(よしおき)が急死すると意欲を失い、永禄(えいろく)7年7月4日、飯盛城で没した。[矢田俊文]
『今谷明著『言継卿記』(1980・そしえて)』

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世界大百科事典内の三好長慶の言及

【淡路国】より

…戦国時代に入り細川一族が分争すると,淡路守護細川尚春は細川澄元方として細川高国方と戦ったが,高国方に下ったため1519年(永正16)三好之長に攻め滅ぼされた。やがて三好長慶は弟冬康に安宅氏の家名を継がせ,由良城に置いて淡路を治めさせた。54年(天文23)長慶は洲本で3人の弟三好義賢,十河一存(そごうかずなが)および安宅冬康と会合して戦略を練った。…

【聚光院】より

…屋内の障壁画(国宝)のうち室中の《花鳥図》,上二之間の《琴棋書画図》は狩野永徳筆,下二之間の《瀟湘八景図》,上一之間の《竹虎遊猿図》はその父松栄筆で,壮大な画面構成や雄勁な筆致は桃山障壁画の代表とされる。《三好長慶画像》(1566)は重要文化財。本堂北東の書院は,千宗左が利休百五十回忌の追善茶会のため寄進したもので,1739年(元文4)から翌年にかけて造営され,北西隅の茶室閑隠席(かんいんせき)は重要文化財。…

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