五穀の一つに数えられ,古くから重要な食料とされてきたイネ科の夏作の一年草。日本では最近,日常食にはほとんど利用されなくなった。アワは穂の大きさなどでオオアワvar.maxima Al.(英名Italian millet)とコアワvar.germanicum Trin.(英名German millet)とに分けられ,日本で栽培されているアワのほとんどはオオアワである。中国ではオオアワは粱で,コアワが粟であるが,日本ではアワ全体に粟の字を用いる。俗にネコジャラシと呼ぶ雑草のエノコログサとアワとは稔性のある雑種ができるので,エノコログサからアワが分化したと考えられている。
エノコログサはユーラシアやアメリカ大陸北部に広く分布しているが,作物化されたのは中国を含む東アジア地域と推定されている。アワは中国では黄河の中原で前2700年にはすでに栽培されており,主穀の一つとして重視されていた。東南アジアでは焼畑耕作に結びつき,稲作以前から栽培されていた古い穀物であると考えられる。古代エジプトではアワが栽培されていたとする確証はないが,中近東では古くからキビと並んだ主要作物で,今もキビと混ざって栽培されているところがある。インドでは古代から栽培され,とくに北部山岳地帯に多い。ヨーロッパでも,スイスの石器時代の杭上住居の遺跡からアワが発掘されている。しかし,ヨーロッパに広まったのはキビよりやや遅れて,青銅器時代以降と推定される。イタリア,ドイツ,ハンガリーなどでも古くから栽培され,Italian millet,German millet,Hungarian milletと呼ばれる。アメリカへはヨーロッパからの初期移民が伝え,19世紀後半から生産が増えた。日本へはかなり古い時代に朝鮮半島を経て伝来し,縄文時代にはすでに栽培されていた。日本最古の作物の一つであり,イネ伝来以前の主食であったとみられている。記紀にもアワの記載がみられ,《正倉院文書》の正税帳によると,当時アワが正租とされていた。
品種によって,また同一品種内でも変異が大きいが,茎の高さは1m未満のものから2mほどのものまであり,穂も長さ10cm前後のものから40cm近くになるものもある。穂には小さな果実が密につき,しっぽのような形で垂れ下がる。穂の先端が枝分れする〈猫足〉や穂の途中の枝が伸びて手のひら状の穂となる〈猿手〉など6種の穂型があり,短い穂で垂れ下がらないものもある。果実(頴果(えいか))は長さ2mm前後の球形または卵円形で無色,やや黄色や灰青色を帯びることがある。
アワにはもち種とうるち種とがあり,日本ではもち種の方が多い。アワの品種は栽培上春アワと夏アワとに分類される。春アワは北海道や東北地方に適し,5月にたねをまき,生育日数は120~140日である。夏アワは南西暖地で栽培され6~7月にたねをまく。生育日数は90~130日である。関東から近畿地方では春アワや夏アワ,その中間的な品種を時に応じてまく。アワは分げつが少ないのでやや密にまいて栽培する。穂が黄色くなったときに刈り取り,乾燥後脱穀する。生育期間が短く,多くの品種があるので,輪作に組み込みやすい。おもな病気にしらが病とアワ黒穂病があり,アワノメイガやアワノカラバエの被害を受ける。古来,日本では山間地ややせ地の穀物として広く栽培されたが,現在は多くの品種も含めてほとんどなくなった。中国やインド,アフリカなどで栽培が多い。
種子はタンパク質や脂肪が豊富で消化もよい。うるちアワは精白して米に混ぜて炊く。もちアワは単独あるいはもち米と混ぜて蒸してつき粟餅とする。粟まんじゅう,粟おこし,あめ(飴)などの菓子類にも使う。泡盛の醸造原料ともされる。欧米では粉にして小麦粉とまぜてパンにして食べるほか飼料とされる。アワはまた,小鳥の餌として広く用いられる。穂をとったあとの茎葉は飼料や燃料とされ,穂が熟す前に刈り取って,青刈飼料や乾草飼料とする。
執筆者:星川 清親
アワは神話をはじめ文献に古くから登場する。記紀には殺された女神の両耳や額からアワが生じた神話がみられるほか,《常陸国風土記》には〈新粟嘗(にいなめ)〉の記事があり,《備後国風土記》逸文にも蘇民将来が粟柄を神の座とし粟飯で神を饗(きよう)したと記されている。律令制のもとではアワは備荒食糧とされ,公私の出挙(すいこ)に用いられていた。《正倉院文書》の正税帳には,アワを納めた国として駿河・大和・紀伊・隠岐・豊後・薩摩などの名がみえる。稲作の困難な時代や場所では,アワは焼畑などで広く栽培されていたと思われる。宮廷儀礼においても新嘗祭に出す官田のイネやアワを卜定(ぼくてい)した記事が《北山抄》巻二に見える。
現在もアワが関与する民俗儀礼が,山村・離島や古い神社の祭礼などにわずかながら残っている。小正月には東日本を中心に粟穂稗穂(あわぼひえぼ)の行事がみられ,また〈裸回り〉のような特異な儀礼もある。これは小正月に夫婦が裸になり,いろりのまわりを回りながら,〈粟穂が下がった〉〈実入って割れた〉と唱えるもので,アワやヒエの予祝儀礼とされている。また秋にはアワの収穫儀礼が山村を中心にみられる。福島県会津地方では9月13日に十三夜様が粟穂の先から天に帰ると伝えており,《日本書紀》の少彦名命が国造りの後,粟柄にはじかれて常世に渡ったという記事を想起させる。また石川県小松市小原では,かつてナギカエシという焼畑の収穫祭に〈輪蔵(りんぞう)〉といって臼に杉皮を巻きつけヒエ,キビ,アワの穂を入れて花のようにしたものを作って,神座としたという。鹿児島以南の南西諸島でも,アワは盛んに栽培された。吐噶喇(とから)列島では,4月,8月,11月にそれぞれムギ,アワ,いもの収穫祭が行われ,アワはアワ山とよぶ焼畑で作られたが,イネの導入とともにアワはイネの儀礼にとってかわられつつある。
執筆者:飯島 吉晴
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
イネ科(APG分類:イネ科)の一年草。茎は1メートル未満のものから2メートルを超すものまである。穂は穎果(えいか)が密につき、フォックス・テール(狐の尾)の名のごとく動物のしっぽのような形に垂れ、長さ10~40センチメートル。穂の大きさなどでオオアワ(粱(りょう))Italian millet/var.maxima Al.とコアワ(粟)German millet/var. germanicum Trin.とに分ける。日本で栽培されるのはオオアワであるが、原産地は東アジア地域とされ、エノコログサから分化したと考えられる。ヨーロッパには石器時代に伝わっており、イタリア、ドイツ、ハンガリーなどでは古くから栽培されている。中国では黄河流域で紀元前2700年ころ栽培されたとする記録がある。日本には縄文時代に朝鮮半島を経て渡来したと考えられている。生育期間が短いので昔は高冷地ではもっとも重要な穀物の一つで明治後期には20万ヘクタール余りも栽培されていた。大正以降は減り続け、現在では郷土料理用などに特別に栽培される程度で、菓子用や小鳥の餌(えさ)用には輸入に頼っている。多くの品種があるが、栽培上は春アワと夏アワとに分ける。春アワは北海道や東北地方に適し、5月に種を播(ま)き、夏アワは西南日本の暖地で栽培され、6~7月に種を播く。
[星川清親 2019年8月20日]
五穀の一つに数えられ、日本に農耕が伝わったころからの重要な食糧であった。粒は、長さ2ミリメートルほどの球形または卵円形で、無色、やや黄色や灰青色を帯びることがあり、とくに、胚乳(はいにゅう)が黄みがかったものが良品質として好まれる。タンパク質や脂質に富み、精白粒100グラム当り、水分12.5グラム、タンパク質10.5グラム、脂肪2.5グラム、炭水化物72.6グラムで、熱量は363キロカロリーであり、消化吸収率も優れている。
アワには糯(もち)種と粳(うるち)種とがあり、日本では糯種のほうが多いが、アワを主食とする国々では粳種のほうが多い。粳アワは、精白して一晩水を吸わせてから米と混ぜて炊く。糯アワは、単独で、あるいは糯米と混ぜて蒸して搗(つ)き、粟餅(もち)や粟団子(だんご)などにする。また飴(あめ)や粟おこしなどの菓子の材料や、泡盛などの醸造原料とする。最近では常食とする所はなくなり、菓子としての利用も激減した。中国北部では精白あるいは粉として主食にされる。とくに東北部では精白したものを小米、小米子、糯アワを粘穀(ねんこく)とよんで重要な食糧とされている。また、欧米では粉にして小麦粉と混ぜてパンにもされるが、製パン性や味はキビより劣るとされる。
[星川清親]
アワが古い時代のユーラシアの夏雨気候帯で広く栽培されていたことは想像にかたくないが、起源地と伝播(でんぱ)経路についてはよくわかっていない。中国北部や日本、台湾など東アジアの雑穀として知られているが、アワ属を利用してきたのはアジアの人々だけではない。アフリカのサバナ地帯にも多くの野生種があり、種子は食糧として古くから採集されてきた。同じように新大陸のメキシコでも、のちに主穀物となるトウモロコシが栽培化されるはるか以前の前7000年ごろから利用されてきた。しかしアフリカでも新大陸でも、人為的にアワが栽培されたことはなかったようである。
栽培化されたアワに関するもっとも古い痕跡(こんせき)は、中国とヨーロッパに残っており、中国では初期仰韶(ぎょうしょう)文化の遺跡、半坡(はんぱ)の貯蔵穴から大量の籾殻(もみがら)が発見されたほか、山西、陝西(せんせい)、甘粛(かんしゅく)各省の同時期の遺跡からもアワやキビの遺残が発見されている。さらに共伴する農具や複雑な村落構造をあわせて考えても、前5000年から前4000年ごろまでの間にすでに栽培が始まっていたと思われ、乾燥に強いアワやキビは黄土によく適した作物であった。一方ヨーロッパでは、スイスのニーダビルなどの遺跡から、同じころ同種のアワが栽培されていたことが明らかである。ヨーロッパのアワはその後、オリエント起源のムギ類に凌駕(りょうが)されて重要性を失い、栽培と利用の中心はほとんど東アジアに限られるようになった。
現在は米食が浸透したが、最近までアワに依存して生業を営んできた台湾の高砂(たかさご)諸族は、アワをめぐる複雑な儀礼を発達させていた。たとえば初刈りや後刈りのアワ、種アワの播き残りなどは「禁忌(きんき)のアワ」を意味することばでよばれ、家族を中心に父系民族以外での共食が禁じられていた。これに違反すると、食べた者も食べさせた者も死ぬとか、畑が不作になると信じられていた。
[松本亮三]
アワは現在でこそ小鳥の餌(えさ)にされる程度で、われわれの食生活にはなじみが薄いが、日本人は古くからアワを常食してきた。稲作の普及が遅れた山村や離島はもちろん、農村においても、米だけを炊いたご飯は、正月や盆、祭りといったいわゆるハレの日を中心に食べられる程度で、普段には麦飯のほか、米にアワやヒエなどの雑穀や大根などを加えて炊いたものを食べていた。そのため、アワにまつわる習俗や儀礼も各地に多く伝承されてきた。
伊豆諸島の御蔵(みくら)島では、正月12日の歳神(としがみ)の祭りに粟蔵(ぐら)(粟棚)をつくったとされており、愛知県北設楽(したら)郡では10月になると各自が持ち寄ったアワで餅をつき、日待(ひまち)(特定の日に村内の同信者が集まって御籠(おこも)りをすること)をしたという。そのほか、薩南諸島から八重山(やえやま)群島に至る南島地域では、アワの収穫を祝う粟祭りという行事が広く行われていた。
[湯川洋司]
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…それらの努力は,古代国家成立以来9世紀ごろまでは,中央政府の主導のもとで郡司に代表される各地域の共同体首長層によって担われてきたが,10世紀ごろから以後中央政府はその主導性を失い,各地域で新しい勢力によって行われていくことになる。 救荒作物の中で律令国家が特に重視したのはムギとアワである。ムギはイネや他の雑穀の収穫後播種し,イネや他の雑穀の端境期に入る旧暦4月ごろに収穫が行われ,イネやそれとほぼ同じ季節に成長過程をもつ雑穀がなんらかの気候不順によって打撃をうけても,その影響は受けなくてすむことから,救荒作物としてきわめて積極的役割を演じうる存在であった。…
…輸入していたのは安い南京米)。農村ではアワ,ヒエを常食にしているところもあったし,都市でも中小工場職工の主食は〈挽割一升ノ中ニ米二合位〉〈南京米ト挽麦ト半分交ゼタルモノ〉(《職工事情》付録)という状況だった。米とくに国産米は,当時優等財だったのである。…
…アワ,キビ,ヒエなどの総称で,英語のミレットmilletに対応する語。すでに《日葡辞書》(1603)にも〈Zacocuザコク(雑穀)〉として掲出されている。…
※「アワ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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