日本歴史地名大系 「三照村」の解説 三照村みてりむら 岩手県:江刺市三照村[現在地名]江刺市稲瀬(いなせ)高寺(たかでら)村の北に位置し、大半は北上川東岸の沖積平地で、東部・北部は柏原(かしわばら)野ほかの丘陵地に立地。縄文時代中期の集落遺跡の五十瀬神社前(いそせじんじやまえ)遺跡があり、竪穴住居跡・屋外炉跡と土器・土製品などが発見されている。また平安時代の窯跡群と集落跡が発見された瀬谷子(せやご)窯跡群がある。天文二二年(一五五三)と推定される六月晦日の葛西晴胤書状写(阿曾沼興廃記)によれば、遠野殿に「此堺江刺江被打出、三照・母体え後詰之刷(刻カ)頼入候」とみえ、当時葛西氏が当地を領していた。慶長一六年(一六一一)後藤肥前信康が三照村内に五〇貫文の給地を与えられ、当村に住した。信康はもと仙台藩宿老格で二五〇貫文を領しており、慶長一〇年政宗の勘気を受け所領を召上げられていたが、同一六年許された。その後加増され本拠を他所へ移したが、後藤家は万治元年(一六五八)に当村内でも五貫文余を加増され、代々当地に給地を所有していた(仙台藩家臣録)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by