日本歴史地名大系 「江刺市」の解説 江刺市えさしし 面積:三六〇・七七平方キロ県の南部、大部分は北上高地西麓の山地・丘陵、西部の一部は北上川東岸の沖積平野である。東は遠野市・気仙(けせん)郡住田(すみた)町、南は東磐井(ひがしいわい)郡大東(だいとう)町・水沢市、西は南流する北上川を挟んで水沢市・胆沢(いさわ)郡金(かね)ヶ崎(さき)町、北は北上市・和賀郡東和(とうわ)町と接する。東境から南境にかけては大森(おおもり)山(八二〇メートル)・物見(ものみ)山(八七〇・六メートル)・阿原(あばら)山(七八二・一メートル)・蓬莱(ほうらい)山(七八七・八メートル)などの高山、北に金成(かんなり)山(五四〇・八メートル)・笠根(かさね)山(五二〇・九メートル)などの山々があって分水嶺をなし、広瀬(ひろせ)・人首(ひとかべ)・伊手(いで)・大田代(おおだしろ)などの諸河川が山地・丘陵地を流下して、それぞれの流域に狭小な沖積平地を形成したあと、北上川に注いでいる。西端部をJR東北新幹線が南北に走るが、市域内に鉄道駅がなく、バス便でJR東北本線の水沢駅・北上駅と連結している。南部を国道三九七号、北部を国道一〇七号がそれぞれ東西に、主要県道が南北に走り、交通はもっぱら自動車による。主産業は農業で、江刺金札米と称される良質米、矮化リンゴなどの果樹・ホップ栽培が盛んである。また近年は中核工業団地への企業誘致を促進するなど、過疎脱却に努めている。市域はかつて江刺郡に属した。〔原始・古代〕岩谷堂大名野(いわやどうだいみようの)から局部磨製石斧と尖頭器、稲瀬鶴羽衣台(いなせつるはぎだい)からナイフ形石器が出土したが、ともに旧石器時代末期のものと推定されている。縄文時代の遺跡としては、岩谷堂根岸(ねぎし)遺跡・米里大谷地(よねさとおおやち)遺跡・藤里向畑(ふじさとむかいはた)遺跡などかなりの数の遺跡が知られるが、調査されたのは稲瀬五十瀬神社前(いそせじんじやまえ)遺跡のみで、円形の平面形をもつ竪穴住居跡・屋外炉跡などが発見されている。弥生時代の遺跡としては、愛宕沼(おだきぬま)ノ上(うえ)・同兎(うさぎ)II・同力石(ちからいし)II遺跡など、北上川東岸の自然堤防に由来する微高地に住居跡が知られる。岩谷堂五位塚(ごいづか)の塚は古墳時代末期の群集墳の可能性が指摘されている。愛宕宮地(みやじ)遺跡から古墳時代末期の土器類が発見されている。律令政府は延暦二一年(八〇二)胆沢城(現水沢市)を築き、以後同城を拠点に当地一帯を支配した。築城直後に胆沢郡を置き、さらに江刺郡を分離独立させ、大井(おおい)・信濃(しなの)・甲斐(かい)・橋井(はしい)の四郷とした(和名抄)。稲瀬瀬谷子(せやご)窯跡群は、胆沢城経営に必要な瓦・生活雑器などを供給した窯跡であったと推定されている。また愛宕落合(おちあい)II遺跡から大量の墨書土器と木簡が出土し、江刺郡衙跡と推定されている。同じ愛宕落合III遺跡・同力石II遺跡などからは武器を中心とする大量の鉄器・石帯が出土し、平安時代初期において政治的に重要な位置を占めていた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by