児島高徳(読み)コジマタカノリ

デジタル大辞泉 「児島高徳」の意味・読み・例文・類語

こじま‐たかのり【児島高徳】

南北朝時代の武将。備前の人。元弘の変隠岐おきへ流される途中の後醍醐天皇行在所に忍び込み、桜の幹に「天莫勾践、時非范蠡」と記して天皇を励ましたといわれるが、その事跡は「太平記」に述べられるのみで、実在が疑問視されている。→勾践こうせんを空しゅうすること莫れ時に范蠡はんれい無きにしも非ず

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精選版 日本国語大辞典 「児島高徳」の意味・読み・例文・類語

こじま‐たかのり【児島高徳】

  1. 南北朝時代の武将。範長の子。姓は三宅。通称備後三郎。備前の人。元弘の乱で隠岐に流される後醍醐天皇を途中で救おうとして失敗、院の庄の行在所の桜の木に「天莫勾践、時非范蠡」と記したという。のち南朝に仕えて諸方転戦。実在したらしいが「太平記」に描かれたその活動を確認することは難しい。生没年未詳。

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改訂新版 世界大百科事典 「児島高徳」の意味・わかりやすい解説

児島高徳 (こじまたかのり)

南北朝時代の前半期に南朝方として活躍した武将。生没年不詳。備前の邑久郡の人で,備後守範長の子という。1331年(元弘1)の元弘の乱に際して後醍醐天皇に呼応して兵をあげ,のちに足利尊氏と後醍醐天皇が抗争するにいたっても一貫して南朝方につき,備前,播磨,越前,伊予などの各地に転戦。45年(興国6・貞和1)信濃に移り,剃髪して志純(しじゆん)と号したと伝えられる。彼の行動については《太平記》が伝えるのみであり,そのために実在の人物ではないとする学説もあったが,現在では実在説が有力とみられる。児島高徳の人間像の根拠は,すべて《太平記》の叙述中に求められ,楠木正成や新田義貞らと同じく〈忠臣〉として皇国史観によって喧伝された。ことに元弘の乱のとき,山城の笠置に拠った後醍醐天皇が北条方に敗れて隠岐に移される途中,その身を奪いかえそうとして行列を追い,美作の院ノ庄の行在所(あんざいしよ)に潜入し,庭の桜の木に忠節を誓う一編の詩,〈天句践(こうせん)を空(むな)しゅうする莫(なか)れ。時に范蠡(はんれい)無きにしも非(あら)ず〉を記しおいて天皇の胸をうったという挿話は,国定教科書をつうじて国民のあいだに浸透し,またそのことを歌いこめた《尋常小学唱歌》の唱歌《児島高徳》も広く愛唱された。

 1886年に《太平記》の作者が〈小島法師〉という人物であることを明記した史料(《洞院公定日次記(とういんきんさだひなみき)》)が学界に紹介されてのち,この〈小島法師〉こそは児島高徳その人であろうとする説もあらわれ,論議を呼んだ。高徳に縁の深い備前の児島は熊野派の修験道の根拠地として栄えた土地であり,《太平記》には修験道に関する造詣の深さをしのばせる記事が豊富であるし,また〈宮方(みやがた)〉(南朝)に近しい叙述ぶりになっていることなどが同一人物説を支える論拠となりやすいが,確証はなく,現在では両者をまったく別人とする考え方がきわめて有力である。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「児島高徳」の意味・わかりやすい解説

児島高徳
こじまたかのり

生没年未詳。南北朝時代の武将。和田備後守範長(びんごのかみのりなが)の子。三宅(みやけ)備後三郎と称し備前(びぜん)(岡山県)に住したという。元弘(げんこう)の変(1331)に際し後醍醐(ごだいご)天皇に応じ備前に挙兵した。乱後隠岐(おき)に配流される天皇を途中で奪おうとして失敗、のち天皇が伯耆(ほうき)船上山(せんじょうさん)(鳥取県琴浦(ことうら)町)に脱出するや、一族を率い馳(は)せ参じた。建武(けんむ)政権崩壊後も南朝側として行動し、1343年(興国4・康永2)12月には、丹波(たんば)守護代荻野朝忠(おぎのともただ)と共謀し挙兵せんとしたが成功せず、ついで脇屋義治(わきやよしはる)(義助(よしすけ)の子)を大将としてひそかに入洛(にゅうらく)し足利尊氏(あしかがたかうじ)らを討とうとしたが露見、義治とともに信濃(しなの)(長野県)に逃れた。これ以後その活動がみえなくなる。これらの事跡は『太平記』にしかみえず、その実在が問題とされている。

[小要 博]

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朝日日本歴史人物事典 「児島高徳」の解説

児島高徳

生年:生没年不詳
南北朝時代の武将。通称備後三郎。備後守範長の子。備前国(岡山県)邑久郡の住人。後醍醐天皇の第2次討幕運動に共鳴。元徳3/元弘1(1331)年8月,天皇が笠置で挙兵するや,これに応じて備前において蜂起した。翌年3月,天皇が隠岐に配流される際,播磨,備前の国境舟坂山,播磨,美作の国境杉坂などに兵を配備して,天皇の奪還を企てたが不成功に終わった。天皇一行が美作院荘に車駕を留めた夜,警備の幕兵の目をかすめて潜入し,宿所の庭にあった桜木を削って「天勾踐ヲ空シウスルコトナカレ,時ニ范蠡ナキニシモアラズ」と書き付けて天皇を激励したという。正慶2/元弘3年閏2月,隠岐を脱出した天皇が伯耆船上山に兵を募ると父範長と馳せ参じ,千種忠顕の軍勢に属して入京,六波羅攻撃に加わった。建武新政の間,備前に帰って軍備を整え,建武政権崩壊後も一貫して南軍に属し,一族今木氏,大富氏らと共に,備前,播磨,越前,伊予などで足利軍と戦った。康永2/興国4(1343)年丹波の荻野朝忠と共謀して挙兵しようとしたが,事前に密計が露見し,備前の守護軍に追われ,海路京都に逃れた。翌年4月,五条坊門壬生の隠れ家を襲撃され,信濃に移り剃髪して志純と号したというが,以後の消息は不明である。『太平記』の作者小島法師に擬されたこともある。<参考文献>田中義成『南北朝時代史』

(佐藤和彦)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「児島高徳」の意味・わかりやすい解説

児島高徳
こじまたかのり

南北朝時代初期に活躍した武将。備前の人。備後三郎と称する。元弘の乱 (1331) に後醍醐天皇に応じて挙兵。天皇が隠岐国へ流されるとき,途中で天皇を迎えようとしたが,天皇はすでに院庄 (いんのしょう) に入り,事ならなかったため,行在所庭前の桜の大木に「天,勾践 (こうせん) ヲ空シウスルコト莫カレ,時ニ茫蠡 (はんれい) 無キニシモ非ズ」と書いて忠誠を表わしたという。建武中興崩壊後も南朝方として戦い,正平7=文和1 (52) 年までの活躍は『太平記』に記されているが,高徳の実在には疑問がもたれている。また『洞院公定公記』に「文中3=応安7 (74) 年4月 28~29日頃死んだ」と記されている『太平記』作者小島法師が児島高徳ではないかとの説もある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「児島高徳」の解説

児島高徳 こじま-たかのり

?-? 鎌倉-南北朝時代の武将。
児島範長(のりなが)の子。備前(岡山県)の人。「太平記」によれば,隠岐(おき)に流される途中の後醍醐(ごだいご)天皇を救出しようとしたが失敗。正慶(しょうきょう)2=元弘(げんこう)3年(1333)隠岐を脱出した天皇をむかえ,京都,越前(えちぜん),伊予(いよ)などに転戦した。文和(ぶんな)元=正平(しょうへい)7年後村上天皇の勅使として東国の南朝方に挙兵をうながした。通称は備後(びんご)三郎。
【格言など】天勾践(こうせん)を空しゅうすること莫(な)かれ。時に范蠡(はんれい)無きにしも非ず(「太平記」)

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百科事典マイペディア 「児島高徳」の意味・わかりやすい解説

児島高徳【こじまたかのり】

太平記》にみえる南北朝時代の武将。生没年不詳。備前(びぜん)の人。和田備後守範長の子という。元弘の乱で隠岐に配流途上の後醍醐天皇を奪おうとして果たさず,美作(みまさか)院ノ庄の天皇の宿所の桜に忠誠を詩に託して〈天莫空勾践,時非無范蠡〉と書いた。高徳の実在については明治以来論議の的であったが,現在は実在説が有力とみられる。

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世界大百科事典(旧版)内の児島高徳の言及

【船坂峠】より

…山陽本線,国道2号線もこの峠をトンネルで抜ける。古来,山陽道第1の難所として知られ,1332年(元弘2)後醍醐天皇が隠岐に流される際,児島高徳が天皇を奪い返そうとこの峠で待ちうけたが,一行が別路をとったため果たせなかったと《太平記》にある。峠の東麓に有年(うね),西麓に三石(みついし)の宿場町が発達した。…

※「児島高徳」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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