南北朝時代の前半期に南朝方として活躍した武将。生没年不詳。備前の邑久郡の人で,備後守範長の子という。1331年(元弘1)の元弘の乱に際して後醍醐天皇に呼応して兵をあげ,のちに足利尊氏と後醍醐天皇が抗争するにいたっても一貫して南朝方につき,備前,播磨,越前,伊予などの各地に転戦。45年(興国6・貞和1)信濃に移り,剃髪して志純(しじゆん)と号したと伝えられる。彼の行動については《太平記》が伝えるのみであり,そのために実在の人物ではないとする学説もあったが,現在では実在説が有力とみられる。児島高徳の人間像の根拠は,すべて《太平記》の叙述中に求められ,楠木正成や新田義貞らと同じく〈忠臣〉として皇国史観によって喧伝された。ことに元弘の乱のとき,山城の笠置に拠った後醍醐天皇が北条方に敗れて隠岐に移される途中,その身を奪いかえそうとして行列を追い,美作の院ノ庄の行在所(あんざいしよ)に潜入し,庭の桜の木に忠節を誓う一編の詩,〈天句践(こうせん)を空(むな)しゅうする莫(なか)れ。時に范蠡(はんれい)無きにしも非(あら)ず〉を記しおいて天皇の胸をうったという挿話は,国定教科書をつうじて国民のあいだに浸透し,またそのことを歌いこめた《尋常小学唱歌》の唱歌《児島高徳》も広く愛唱された。
1886年に《太平記》の作者が〈小島法師〉という人物であることを明記した史料(《洞院公定日次記(とういんきんさだひなみき)》)が学界に紹介されてのち,この〈小島法師〉こそは児島高徳その人であろうとする説もあらわれ,論議を呼んだ。高徳に縁の深い備前の児島は熊野派の修験道の根拠地として栄えた土地であり,《太平記》には修験道に関する造詣の深さをしのばせる記事が豊富であるし,また〈宮方(みやがた)〉(南朝)に近しい叙述ぶりになっていることなどが同一人物説を支える論拠となりやすいが,確証はなく,現在では両者をまったく別人とする考え方がきわめて有力である。
執筆者:横井 清
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生没年未詳。南北朝時代の武将。和田備後守範長(びんごのかみのりなが)の子。三宅(みやけ)備後三郎と称し備前(びぜん)(岡山県)に住したという。元弘(げんこう)の変(1331)に際し後醍醐(ごだいご)天皇に応じ備前に挙兵した。乱後隠岐(おき)に配流される天皇を途中で奪おうとして失敗、のち天皇が伯耆(ほうき)船上山(せんじょうさん)(鳥取県琴浦(ことうら)町)に脱出するや、一族を率い馳(は)せ参じた。建武(けんむ)政権崩壊後も南朝側として行動し、1343年(興国4・康永2)12月には、丹波(たんば)守護代荻野朝忠(おぎのともただ)と共謀し挙兵せんとしたが成功せず、ついで脇屋義治(わきやよしはる)(義助(よしすけ)の子)を大将としてひそかに入洛(にゅうらく)し足利尊氏(あしかがたかうじ)らを討とうとしたが露見、義治とともに信濃(しなの)(長野県)に逃れた。これ以後その活動がみえなくなる。これらの事跡は『太平記』にしかみえず、その実在が問題とされている。
[小要 博]
(佐藤和彦)
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…山陽本線,国道2号線もこの峠をトンネルで抜ける。古来,山陽道第1の難所として知られ,1332年(元弘2)後醍醐天皇が隠岐に流される際,児島高徳が天皇を奪い返そうとこの峠で待ちうけたが,一行が別路をとったため果たせなかったと《太平記》にある。峠の東麓に有年(うね),西麓に三石(みついし)の宿場町が発達した。…
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