日本歴史地名大系 「三矢村」の解説 三矢村みつやむら 大阪府:枚方市三矢村[現在地名]枚方市三矢町・岡南(おかみなみ)町・新(しん)町一―二丁目・枚方元(ひらかたもと)町・枚方上之(ひらかたかみの)町・堤(つつみ)町・桜(さくら)町・伊加賀西(いかがにし)町茨田(まんだ)郡に属し、淀川左岸沿いの沖積低地で、南東部の洪積段丘の崖下に位置する。東は岡新町(おかしんまち)村・岡村、南は枚方村・泥町(どろまち)村。壬申の乱を記す「日本書紀」天武天皇元年(六七二)七月二三日条に「大友皇子、走(に)げて入らむ所無し。乃ち還りて山前に隠れて、自ら縊れぬ」とみえる。「山前」については諸説あるが、二二日条に大和の別将らが北上して「山前に至りて、河の南に屯む」とあるので、地理的な関係から当地の山崎(さんざき)に比定する説がある。永徳元年(一三八一)一二月一五日の円仲下知状(離宮八幡宮文書)に「河内国三屋関之料事」とみえ、淀川の河関があったことが知られる。また天文六年(一五三七)一二月二四日の室町幕府奉行人連署奉書(石清水文書)に河内国「交野散在三屋郷号枚方寺等事」とみえる。「私心記」永禄三年(一五六〇)七月二三日条には「飯守人数出候テ、岡・三屋・出口・地下・中振等」が放火されたとあるが、地下(じげ)は三矢地内の地名である。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報